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第1章

0 眠りと覚醒

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 これを明晰夢というのか。
 男は夢の中で、あてどなく旅をする。
 ベッドに横たわる身体は、所詮、器に過ぎない。
 はじめの頃の戸惑いは、今では欠片も残されていない。
 いまとなっては、此方と彼方に境界はなく、ひたすらに眠い。
 
 夢の世界で、男には主体性は与えられていなかった。ただ五感を共有し、そこに在るだけであった。触覚や聴覚、味覚までも再現された映画の中に居るような手触り感のある世界。そこを男は仮に「荒野の世界」と呼んだ。
 
 男はここしばらく睡眠障害に悩まされ、徐々に悪化する症状に、医師の診断を待っているところであった。過眠症と、暫定的に診断され、睡眠中のバイタルの監視を申し付けられていた。はじめは睡眠が足りないというくらいの軽いものであったが、次第に生活に支障を来すまでになっていた。唐突に眠ってしまうのである。気絶のように……。
 まず、安全の為に、自家用車の運転を諦め、そして外出を控えた。そして症状が進むにつれ、人前に立つ仕事を控え、安全性に問題のある業務を避けた。現在はそれでも対応できず、休職中である。辞表の提出も秒読みだ。
眠りの中の世界でも、変化は襲って来た。
 牧歌的な風景を見せるだけだった夢が、啓示的になったのである。
 いつしか、突然眠ると同時に荒野の世界で目覚め、それが常に致命的な瞬間であるということが続くので、「これは一般的な過眠症ではないのではないか」と疑うに至った。
 だがそれでも、男にとって荒野の世界はあくまで夢の中であり、取り立てて騒ぐまでもないと、至極呑気に考えていたのだった。
 日々の中で喪われていく平衡感と現実感、増していく浮遊感の中で男は倦怠を覚えて、ふと身震いをした。痙攣のように指先が空を掻いた。
 
 
 
 テント周囲に張り巡らされたソナーに感があった。
 肌に貼り付けた警報機が、断続的に電気パルスを送り、痛いほどに刺激する。
 と、わざと喧しく設計された警告音が闇夜に響き、テセウスは剣を片手に飛び起きた。
 視界に緑のフレームで警告情報がウィンドウで自動展開され、そこに大量の赤点が敵性体の存在を告げていた。肌がチリチリと緊張を伝えてきた。
 あれは、やり過ごせない群れであった場合の警報である。
 災いの気配がする。
 
 ———男の、今夜の夢の旅がはじまる。
 
 テセウスはゴーグルに火を入れ、慎重にテントの隙間から外を窺った。
こんなことならば、艇内で眠ればよかった……。後悔するが遅い。夜風が恋しくなって野営したのはテセウス本人である。大人数を収容することが前提の艇内であっても、息苦しさは否めないのである。
 タクティカルジャケットは、睡眠時にも身に着けたままだ。持続性フラッシュポットを懐に探り、ひょいと慣れた仕草で虚空に放る。
 次の瞬間、夜空が弾けた。
 視界が一旦、僅かに暗くなり回復したが、周囲は窺えなかった。
 白昼のように煌々と照らされた地表には、染みのような黒点が点在し、瞳を紅く血走らせていた。
 「……頼むから、オレをゆっくり眠らせてくれ」
 見れば、犬型の侵食獣が群れてテントを囲っていた。かなり大型である。
 その内の数頭がじりじりと距離を詰め、テント脇に集積した物資の軽量コンテナに鼻を擦りつける。あの辺りは、デコイで食品臭を噴霧してある。
 ———飢えたか……。
 しつこいことになりそうだと、うんざりした気分でテセウスは装備を整える。剣のバッテリーパックも、まだ残量を気にする必要はない。テセウスはフラッシュの光量が比較的に薄い方角に向かい跳躍した。
 
 ギンッ!!
 
 重めの金属音を立てて剣が弾かれる。
 
 ———チクショウ……、この侵食獣、遺跡を喰ってやがる……。
 
 剣にエネルギーをチャージし、一呼吸おいて再度、二度三度と斬りつける。金属質でありながらヌメった感触が掌に伝わってくるが、粘着質な抵抗を無視すれば、刃は侵食獣の奥へとすんなりと入ってき、赤黒い血と共に一文字に切り裂かれた。
 最初の一頭はあっけなく倒れた。どうやら異能の発現までには到っていないと、ようやくテセウスは周囲の様子を詳細に把握する心のゆとりを得た。だが、ボス格の数頭は、確実に異能を持っているだろう。

 ———硬化の異能だろうか……。
 
 侵食獣は、運命確率の歪みによる精神汚染を受けた獣、あるいはAIドールと、現在の研究では定義されている。運命確率とは、量子的な確率確定のロジックを説明した語であり、確率確定によって歪められる運命を皮肉った表現でもある。普及している量子通信システムが原因と言われているのだが、専門ではないので詳しくはない。曰く、通信内容が、言語化されずに他にも漏れ、個の概念に影響を与えているのだそうだ。
 セキュリティ上問題ないのかと思ってしまうが、漏れた分はとりわけ意味のある内容として受信することや解析することが出来る訳ではないので、そのまま使用しているのだそうだ。代替する技術が存在しないこともある。出力が高くなると異能を発生させる可能性が上がることなどを鑑みるに、大き過ぎる問題のように見受けられるが、利便性とのトレードオフで、放置されているのだろう。そもそもが、現在利用されている技術の大半が、旧文明のデッドコピーであり、研究者が日夜後追いで理論体系を辿っているが、社会インフラの後退で、新規開発に成功するものは万に一つもないだろう。
 多くは野生の動物が少しばかり狂乱し、攻撃性を高めた程度であるが、重度になると如何様にしてか遺跡の合金などを生体に取り込み、硬質な外殻を形成したりなどする。また、汚染が進むと、悪夢のような異能を発現する者も居り、非常に危険性が増すのである。この外殻と異能の影響で、一部を除き、銃器などは無効化されて久しい。
個人用火器では太刀打ち出来ないのである。認めたくないが、今夜のテセウスは運が良かった。
 
 威力偵察の為に前に出た数頭を斬り伏せると、包囲が解かれた。返り血を浴びずに済んだことに感謝しながら、先頭の数頭に切っ先を突きつける。二個目のフラッシュポットは不要なようだ。じりっ、と足裏で誇示するように砂を踏みにじり、睨みつけるように周囲を視線で舐めると、群れは僅かに後退し、そして順に去っていった。
 既に稜線には陽の光の気配が訪れており、テセウスはやれやれと肩を竦めた。どのみち、タイムオーバーだったのだ。侵食獣は陽の光の下では何故か積極的に活動しない。
 
 最早、惰眠を貪れる時間ではなかった。
 テセウスは欠伸を噛み殺し、踵を返した。
 仕方なく携帯コンロを着火し、湯を沸かす。茶でも飲んで落ち着こう。待ち時間にテセウスはマップを呼び出し、予定の確認を行うことにした。
 次の遺跡までにはまだ、二回は野営を必要とする。手垢がついていないということで、久々に待望の新規遺跡である。ここしばらくは屍肉漁りのような案件が多く、辟易していたのだった。他人が適当に漁って防壁が強くなったシステムなど、採掘するストレスで気が狂いそうである。暗号の再生成などされると、そのストレージからは何も採掘できなくなっている可能性すらある。外周は既に盗掘屋に荒らされた後の可能性が高いが、彼らにはマイニングのスキルはない。せめてストレージを壊さずにいてくれればいいが……。様子見を兼ねているので、今回は階層潜行師を伴っていないが、収穫を期待したい。
 キャリアの燃料と荷台に積んだ軽量コンテナの物資にはゆとりを見ているが、ここで無駄遣いをすると単純に利益が減る……。エネルギーパックもフラッシュポットも、タダではないのだ。避けえないトラブルとて、憂鬱には変わりない。白んでいく地平を眺めつつ、テセウスの胸中は穏やかでなかった。
 「ここいらは駆除済みだって言ってたじゃねぇか……。情報が古いンだよ、ヘルメス」
 呟きが砂塵に消える頃には湯が沸いていたので、テセウスはコンテナに腰を落として、茶を啜った。愚痴は尽きないが、命があるだけ悪くはない夜明けだろう。一日のはじまりとしては、縁起のいいものではないが……。
 採掘師の日々は、こうして流れていく。
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