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十八になった僕たちは

そして夏風はあの日を語り出す

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 フランスの作曲家モーリス・ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」を主人公が弾いている場面からはじまるのが、三田誠広の『いちご同盟』だ。一九九〇年になってすぐに出版された青春小説で、十五歳の少年少女の繊細な心理を切り取った名作として知られている。学校の教科書としても採用されているから、という理由で、知っているひとも多い。音楽学校への受験を考えつつも、自身のこれからの人生に悩む北沢、野球部のエースで女の子からもモテる徹也、徹也と幼馴染で重病のために入院する直美の三人をメインとして物語は進んでいく。〈自殺〉というワードに心を寄せる北沢と光り輝く未来を見ることのできない直美。物語には脇を固める人物を含めて、印象的な死があり、どこまでも死から逃れられない作品だ。

 僕は感情を交えず、できるだけ淡々と、物語の内容を語ることに終始していることに、途中で気付いた。つまりは無自覚だったのだ。

 今日は七月五日。五十嵐と明日香さんと会ってから、三日が経っている。この間に、野球部は地区予選の二回戦を突破している。国崎の感情が気になってもいたが、まだその辺りのことは聞いていない。すくなくとも僕から聞くべき話ではないだろう。話してくれるのを待つだけだ。

「どうしたの。あんまり面白くなかった? ずっと浮かない顔してるよ」
 と夏風が笑う。

「いや、そういうわけじゃないんだ。最後の場面は思わず泣きそうになってしまったし、物語に共感できるところもあった。ただ……」
 ただ……、と言いながら、僕はその後の言葉を続けることができなかった。いまの僕にとってはそういう気分じゃなかっただけ。それはきっと五十嵐と出会ってしまったから。そういう気持ちもあったが、五十嵐のことを知らない夏風にこの話をするのは躊躇ってしまう。仮に話した時の夏風の反応も怖い。だって夏風は、〈大切なひとの病気〉という僕にとっては詳細不明な出来事を抱えているのだから、その話が彼女を深く傷付けることになるかもしれない。

「ただ……?」
「えっと」
「たぶんだけど、私、日比野くんの考えていることが分かる気がする。この物語は、自分自身の個人的な感情から切り離せなくなる。今までの他の小説だってそうだけど、それ以上に。俯瞰で見ることが難しい物語だと思う。認めても、認めなくても、自分の心の中になんだかもやもやとした感情が残る。死、っていうのは、いつもそうなんだ。冷静に見られない。見ていられない」

 そんなことを冷静に語る夏風に、登場人物でもある直美の面影を重ねて、僕は嫌な気持ちになる。これじゃあ、まるで――。

 結局、僕は重ね合わせすぎているのだ。『いちご同盟』に、五十嵐を、明日香さんを、そして、もしかしたら夏風を。僕たちは誰ももう、十五歳ではないのに。誤解がないように言えば、『いちご同盟』には、生きていく、という面についても、しっかり描かれている。しかしそれは死の中で、見つけたり、見つめ直されるものだ。

 僕が今、何を考えているか、夏風は知るはずもないのに、

「だって、死って、あまりにも悲しすぎるから。私には美しくは思えない。思うひとの気持ちだけは、理解できても、ね」
 と僕の思考を引き取るように言った。

「そう、だね」
「まぁ、そういう物語ばかり日比野くんに渡してる私が、言うべき台詞じゃないね」と夏風が舌を出す。
「それもそうだ」
「でも今日の感想会はここまでにしようか。本を選ぶのも、また今度にしよう。なんかいまの日比野くんはあまりにも苦しそうだから。それは私にとっても嬉しいことじゃない」

 僕はたぶん、本当に表情に出やすい性格なんだろう。
 とりあえず今日は、そうだね。
 彼女の言葉に頷く。僕たちふたりで小説の感想を言い合う時間が、これで最後になるとも知らずに。いつだって未来は不確かだ。

 僕たちはきょうも一緒に駅まで帰ることになった。

「下校デートみたいだね」と夏風が言う。からかうように笑いながら。はっきり言葉にされて、気恥ずかしくなる。僕が返答に困っていると、彼女が続ける。「せっかくだし手でも繋ぐ。よりデートっぽくなるかもしれない」
「自転車を引いているから物理的に無理だよ」
 受け入れるでもなく、断るでもなく、僕はそう答える。どちらで返すのも恥ずかしかったからだ。

「じゃあ、自転車で二人乗りでもする?」
「坂道で転びやすいタイプだから、怪我をさせてしまうかもしれない」
「何それ、そもそもこの辺り、ずっと平坦だよ。……大丈夫。冗談だよ」と夏風が、くすり、と笑う。
 今日は晴れてはいたが、すこし雲が黒ずんで、雨が降ってもおかしくないような天気だった。

 僕の様子も彼女から見ておかしくはなっていたと思うが、僕から見ても彼女の様子はすこしおかしかった。前に会った時はどこか暗いものを感じさせたが、きょうは明るすぎる気がした。無理に明るく振る舞っているようで、痛々しくも見える。やっぱり彼女に事情を聞いてみようかな、と思って、躊躇う。夏風からの言葉を待つことにしたのだから。そう選んでしまったのだから、と考えて、それも言い訳みたいだな、と思った。

 急に強い風がふき、夏風の髪がふわりと浮き上がるように揺れる。

「きょうは暑いけど、気持ちのいい日だね。こういう夏はそこまで悪くはないかな。まぁ嫌いは嫌いなんだけど」
「確かに。風も強いし。もしかしたら雨が降りそうだね」
「でも朝の感じで、よく傘を持ってくる気になったね」
 夏風は、手に傘を持っている。

「なんとなく、ね。でも急に降らないで欲しいな。まだ……」
「まだ?」
 僕がそう聞くと、うーん、と次の言葉を悩む素振りをした。そしてわずかな沈黙のあと、彼女が口を開く。

「プールでの一件、話してもいい?」
 あまりにも唐突すぎて、何のことを話しているのか、瞬時に理解できなかった。だから、「プール?」と間抜けた声を出して、そして、そこでようやく理解が追い付く。

「うん」
 もちろん彼女が六月はじめ、水のないプールの水槽の底で倒れていた一件の話だ。夜明けまで、その場所で横たわっていた、という。プールの使用が禁止となり、いまでも水野が夏風を恨んでいる件でもある。

 夏風は、僕に長い長い話を語ってくれた。僕は相槌を打ちながらも、必要以上に口を挟まず、耳をそばだてることに終始した。

 話の終わりに、彼女が言った。

「前から思ってたんだけど、日比野くんって相手に話しやすくなる雰囲気を持ってるよね。悩みを打ち明けたくなる信頼感がある、っていうか。私は結構前から、もしかしたら日比野くんに聞いてもらいたくて仕方なかったのかも、ね。ありがとう」

 駅まで向かう途中に、ちいさな公園がある。と、ぼろぼろのベンチが、ひとつずつあるだけの寂しい公園だ。僕たちは誰もいないその公園に行き、ベンチに隣り合って座った。彼女が息を吸っては吐いてを二、三度繰り返してから、話しはじめてくれたことだ。


 安達くんと最初に話した会話はいまも覚えてる。中学の時、入院から戻ってきて、周りとの関係が上手くいってなかった頃だったから、特に印象に残っているんだ。あっ、これはちょっと前にも、日比野くんに話した、っけ。

「おっ、それ、何読んでるの」って安達くんが聞いてきてね。私はその時、小説を読んでたの。心配しなくても、本当にこの病気は完治したよ。それは信じてくれていいから。家族がすすめてくれた一冊の小説。これなんかいいんじゃないの、って。家族って。ひいおばあちゃんなんだけどね。本屋に行って買ってきてくれたんだ。暗い表情続きだった私を心配して。平積みになってた本からひとつ選んでくれたんだと思う。タイトルははっきり覚えてる。『世界の中心で、愛をさけぶ』ってベストセラーの。エヴァでも、ハーラン・エリスンでもないよ。って、日比野くんは、ハーラン・エリスン、知らないか。「世界の中心で愛を叫んだけもの」ってそのひとが書いた小説で。って、今は、そんなこと、どうでもいいか。

 安達くんと国崎くんは、私にとって特別なふたり。あのふたりがいなかったら、私の中学時代は孤立はしなかったかもしれないけど、もっと孤独になっていた気がするし、たぶんそれで性格がさらに捻くれていたら、高校時代は、もっと荒んでたかもしれない。意固地になって誤った方向に進んでしまいそうになっていた私を正してくれたふたりなんだ。そっちには行くんじゃない、って。

 安達くんは誰とでも分け隔てなく接することができるタイプ。羨ましいくらいに。でも高校になって、私たちの関係は周りから見て、もっと親密に映るようになったんだと思う。私たちは、ううん、すくなくとも私は、それまでとそんなに変わっていないつもりだったけど、客観的に見れば、確かに親密に思えたのかもしれない。だから嫉妬しちゃう気持ちも分かるんだ。だから私は、あの子たちを憎めない。自分の座りたい席に、座りたいかどうかも分からない女子が座っている。やっぱり気にいらない、と思って、当たり前だよ。私が覚悟もないふわふわした人間だから、余計に、ね。そんなことないよ、って? いや、私、意外とそんな感じだよ。

 日比野くんと初めて会った時、私、女の子にビンタされてたでしょ。私も急にビンタされてびっくりしたんだけど、実は私、あの子、あの後、私に謝りに来てるんだ。私を叩いた時、私より傷付いた顔をしていて、私に謝りに来た時、私よりも苦しそうな顔をしてた。そんな顔しないでよ、って思った。もっとこっちに恨ませてよ、なんて。

 彼女は野球部のマネージャーなんだ。あっ、知ってた。意外と知ってるんだね。私のことはあんまり知らなかったくせに。
 ……本気で好きなんだな、って思った。眩しすぎるよね。まるで夏みたいに。私の嫌いな夏みたいな。

 安達くんはもちろん知らないよ。知ったら、なんか大変なことになりそうだし、私は絶対に言わない。あの後も、私と安達くんの付かず離れずの関係は続いた。安達くんは私にとって、特別なひと、であることは間違いないから、そんな気軽に距離を取って、彼を傷付けることはできなかった。たとえ私の好意が、恋愛的な意味での好意ではない、って気付いてても。たとえ安達くんの『好き』が、私の『好き』と違っていたとしても。

 もちろん安達くんの気持ちは知ってた。
 だから六月に入って、夜に、「会えないかな」と誘われた時、ついに来てしまった、なんて思った。どうしよう、って怖くなった。国崎くんに相談しようかな、って一瞬そんな考えが頭に浮かんだけど、もちろんそんなことはしなかった。できなかった。だってこれは私たちふたりの問題だから。それに国崎くんに言って、安達くんと国崎くんのふたりがトラブルのも嫌だった。いっそのこと、日比野くんとこれからデートなんだ、って言えば良かったかな。……なんて、もちろん冗談だよ。そんな困った顔しないで。私もへこんじゃうから。

 夜、私たちは遊びに行ってね。慣れない私は、安達くんの後ろを付いていくだけだった。というかたぶんゲーセンとかそういうところに行くの、安達くんも慣れていなかったはずだよ。野球漬けの毎日で、意外と真面目なタイプだから、周りに誘われても断ってた、と思う。周りに誘われても嫌味にならない感じで断るタイプ。ずるいタイプとも言えるね。彼は嫉妬されても、嫌われないタイプだ。本当に羨ましい。慣れてない私たちふたりはその場で浮いてた気もする。私を連れ回したのは、彼も彼で、テンションがおかしくなってたのかもね。

「なぁ最後に学校、行かないか」
 って安達くんが言って、私たちは夜の校舎に行ったんだ。初めての夜の校舎。部活で残っている子も誰もいない時間帯。先生は多少、残っていたかもしれないけどね。本当にただの不法侵入。ちょっと断りたい気持ちもあったけど、彼の圧に押されて、私は何も言えなかった。

 夜の学校って、寂しげな雰囲気がある。
 安達くんは本当にテンションがハイになってたのか、プールの門をよじ登って、私にも来るように言って。日比野くんも知ってると思うけど、頑張れば大抵の子がのぼれるような門だからね。先にのぼった彼が門の上から、私に手を伸ばしてくれた。

 プールサイドで、彼が言ったんだ。
「好きだ。ずっと前から」
 飾らない真っ直ぐな言葉だった。心がまったく動かなかった、って言ったら、それは嘘になる。正直、嬉しい気持ちもあった。だけど、それでも私は。

「ごめんね。私も安達くんのことは好きだけど、それはライクを超えるものじゃない。だから私たちはそういう関係にはなれない」
 安達くんは分かりやすいくらい、傷付いた顔をしていた。でも切り替えは早いのかもしれないね。いや、違うな。切り替えが早いように振る舞ったんだ、と思う。せめて私の前では、って。彼なりの強がり。

「そっか、それもそうだよな。ごめんな、変なこと言って。まぁその、好き、でいてくれたこと自体は嬉しいから。それがライクであっても。これからもよろしく」
 と彼が手を出してきて、私たちは手を握り合った。友愛の握手は虚しかった。

「じゃあ、家まで送るよ」
「ううん。先に帰っていいよ。私はちょっとここに」
「でも、危ないから」
「お願い。すこしひとりで外の空気を吸っていきたい。ひとりでもここから出れるから大丈夫だよ」
 そして私はプールにひとり残った。水槽のへりの部分に立って、わけも分からず、叫び出したくなった。もう安達くんとはこれまでの関係ではいられなくなる。口ではああ言った、って、もう無理だよ。すくなくとも私は無理だ。じゃあ受け入れれば良かったのかもしれないけど、それは私の心に嘘をつくことになる。でも特別だった関係を失いたくはなかった。勝手なことを言ってるのは、もちろん分かってる。でも。

 いっそ、ここからダイブしてやろうかな、ってなんだか自暴自棄な気持ちになってきて……。

 それであんなことを、って?
 全然、違うよ。結局そんなことできなくて、私はひとり帰ろうとして、水槽のへり辺りで、足を滑らせて、落ちてしまった。ただそれだけの話。頭を打って、気付いたら病室のベッドにいた。気絶していたのか、途中で覚醒したけど、痛みの末にそのままどうでもよくなって寝てしまったのか、正直あんまり覚えていない。そのどっちかだったような気もするし、そのどちらでもなかったような気もする。

 それで結局、プールは使用禁止になった。
 だから今度、水野さんにはちゃんと謝りたい、と思ってる。
 実はあの一件の後、安達くんが会いに来たんだ。私が、「学校にひとりで忍び込んだ」って説明したのも彼は知ってて、やけに責任を感じちゃって、「俺がいたことも言う」なんて言い出して。そこから私は必死に説得だよ。本当に安達くんは何も悪くないんだから。しかも大会前の大事な時期なのに。出場停止にでもなったら、どうするんだろう、ってね。それに私の個人的な気持ちもある。

「変な噂になるのは絶対嫌だ。私はあなたの恋人でもなんでもないんだよ。本当にやめて。ただの迷惑です」
 って伝えた。この言葉に、安達くんはかなりダメージを受けてた。そうなることが分かってて言ったんだから、当然だよね。変な男気なんていらないよ、って。私、結構冷たい声が出てた、と思う。中途半端な優しさは時にひとを傷付けるから。日比野くんも覚えておいてね。中途半端な優しさは、本当に、ひとを傷付けるんだよ。

 これがあの一件で、実際にあったこと。
 これを知っているのは私と安達くん……、そして日比野くんで、三人目になった。特に誰かに言うつもりなんて、なかったんだけど。不思議だね。何故かこのひとには悩みを打ち明けたくなるひと、っているでしょ。日比野くんも、そういうひとだと思うんだ。

 ありがとう。
 聞いてくれて。
 涙? 何のこと。

 あっ、私、泣いているんだ。私は何に泣いてるんだろうね、まったく。恥ずかしいね。まぁでも……、日比野くんなら別にいいかな。
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