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第一部 雨と、僕たちのはじまり
失恋の後に、チェスを教えて。
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僕と葉瑠は違う中学校で、どこかで交差することもない日々を過ごした。だから彼女と僕の記憶をたどるうえで、あまり意味はないように思えるけれど、僕自身のその後を考えようとしたら、そこら中に重要なことが、ちらばっている。
「あなたは、たぶん私の先に、別の誰かを見ている」
中学生の頃の記憶を振り返ろうとして、最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。鮮明によみがえるのは、いつも苦い思い出ばかりだ。
そう僕にほほ笑んだ日下亜美とは、ほんのわずかだったけれど、恋人だった時期がある。違う小学校の出身で、だからはじめて見たのも、中学校に上がってからだった。誰とでも仲良く接する女性で、悪く捉えれば八方美人な性格とも言えるのかもしれないが、周囲と円滑にコミュニケーションを取る姿は、ちょっとした憧れだった。僕にはできないことだったからだ。
はじめて亜美を認知したのは、当時のクラスメートの言葉だった。
「日下って、良いよなぁ」
可愛いし、優しいし、とそんな気持ちを混ぜた遠い目をして、そのクラスメートが言ったのだ。小学校の時からは一転して、僕のいた中学はそれなりに生徒数の多い学校で、お互いに話すこともないまま卒業した同級生もめずらしくない。亜美のことも、クラスメートの口から聞かされるまでは、顔を知っているだけの生徒だった。失礼を承知で言うと、いわば女子生徒A、みたいな感じだったのだ。
中学二年の時で、彼女は隣のクラスの生徒だった。
これは自信を持って言えるのだけれど、亜美は男子から非常に人気があった。もともとの容姿もあったとは思うけれど、それ以上に、人当たりの良さが一番の理由だったはずだ。中学生くらいの年頃の、特に女子と縁のない男子は、勘違いしやすい。たとえば僕も、その中に含まれる。ちょっと優しくされただけで、あれっ、この子、俺のこと好きなんじゃ、と誤解してしまうのだ。もちろんみんながそう、というわけではないが、僕も含めて、そんなうぬぼれた男子をいままでいっぱい見てきたのだから、ある程度、真理はついている、と思う。
ただ僕と亜美との最初のやり取りは、そんな勘違いなんて欠片も起きそうにないほど、最悪なものだった。
「なぁ、むかしからの仲だろ。頼むよ」
と、彼から言われた時の怒りは、はっきりと覚えている。彼は小学校からの知り合いで、外見は体躯も大きく、端正な顔立ちをして、硬派な雰囲気に見えなくもないが、中身はひどく軽薄な男で、もともと特別嫌っていたわけではないが、好きにもなれない相手だった。
ただこの言葉を聞いた時には、はっきり、と彼のことを、嫌いだ、と思った。
今村はサッカー部に所属していて、女子からの人気も高かった。
呼び出されたんだ。たぶん、告白されると思う。今村は日常の一コマについて語るように、何気ない口調だった。
俺の代わりに断って欲しい、と彼は言った。
「自分で、行きなよ。そんなの」
「だって、何、言われるか、分かったもんじゃないだろ」
「正直に言えばいいだろ。彼女がいる、って。ちゃんとした理由があるんだから、問題ないだろ」
「いや……実は、さ。前に、彼女いるか、って日下に聞かれた時、さ。つい嘘ついちゃったんだ。あんな嬉しそうにしていた顔が崩れていくなんて、俺には耐えられないよ」
今村はむかしから、物事を自分の都合の良いように考えてしまうところがあった。彼は、その言葉が優しさからくるものだ、と心の底から思っているのだ。そもそも自分の嘘が原因だ、という意識が稀薄なのだろう。
「頼む」
彼の性格は知っている。断り続ければ、自分が頼んでいる側ということも忘れて、怒り出すのだ。そしてより面倒なことになる。
僕は心の中でひとつため息をついて、
「分かったよ」
と言った。
なぜ僕に頼んだのか、というと、頼み込めば折れる相手だ、と彼も僕の性格を知っているのだ。お互いに相手の性格を知っているから、嫌でもこういう形になってしまうのだ。彼女も、こんな不誠実なやつを好きになった私が馬鹿だった、と自分自身の想いを捨てやすいかもしれない、と心の中で言い聞かせる僕に、話し終える直前、
「結城って、日下と話したことないから、何言われても平気だろ」
と言ってきた時には、顔面を殴ってやりたいような気持ちになってしまった。まぁ暴力とは無縁に生きてきた僕に、そんなこと、できるはずもないのだが……。
放課後、僕が向かったのは、彼女のいるクラスだ。
教室には、彼女ひとりだった。そうなるように、彼女は準備していたのだろう。
「あれっ、確かチェス同好会のひと、だよね?」
そもそも彼女としっかり顔を合わせるのさえはじめてだった僕は、どういうふうに話しかけるか、迷っていた。まず自己紹介をするのか、それとも単刀直入に事実だけを伝えて、すぐにその場から離れればいいのか。
だけど彼女からの意外な言葉に混乱してしまって、事前のイメージトレーニングは狂ってしまった。
「そうだけど、なんで知ってるの?」
「私、真希と、仲、良いから」
「そうか、清水さん、と」
清水さんとは、小学校から中学校まで同じで、部活も一緒だった。チェス同好会で……、という意味ではない。僕たちは将棋部で、その部の中に、非公式のチェス同好会があったのだ。だから僕は将棋部の幽霊部員で、チェス同好会の会員だったことになる。なんともおかしな感じだけれど、事実としてそうなのだから、仕方ない。どこかの部には絶対に所属しないといけないから、将棋部にいたのだが、興味のベクトルはチェスに向いていた。
僕とあと数人の将棋部員でつくられたのが、チェス同好会で、存在さえも知らない生徒は多く、そんな相手からすれば、僕は将棋部でしかない。
だから余計に、驚いたのだ。
もし将棋部、と言われていたなら、そこまでびっくりすることもなかったはずだ。
「私、ひとを待ってるんだ。だから、ごめんね」
「あぁ、そのことなんだけど……」
「うん?」
と、彼女がほほ笑んだまま、小首を傾げた。
あんな嬉しそうにしていた顔が崩れていくなんて、俺には耐えられない。そんなふうに今村は言っていて、その言葉はいま考えても、本当に失礼だと思うが、すこしだけ分かる気がした。彼女の笑顔には、思わず見惚れてしまうような魅力があるからだ。一瞬、僕も、彼が来れなくなった、と嘘をついてしまおうか、という気持ちが萌した。
だけど、真実を知った時にどうなるか、と考えると、そんなことはできなかった。
「実は――」
僕の話を、彼女は静かに聞いていた。
彼女は、変なことを言うな、と怒りもしなかったし、冗談でしょ、と笑いもしなかったし、ひどい、と泣くこともなかった。表情の変化は薄かった。だけど何も感じていないわけではない、くらいは分かっている。僕だって、そこまでは鈍感ではない。こんないきなり現れた変なメッセンジャーに感情の揺れ動きを悟られないように、とそんな精一杯の強がりだ。僕は彼女から眼を逸らすことができなかった。
「卑怯なやつだ。自分で、言いに来いよ」
彼女が、ぽつり、と言った。
「僕も、そう思う」
「なのに、その頼みを引き受けるわけだ。いじめられてるの?」
「いや、そんなわけじゃないけど……」
ただ人間関係のパワーバランスにおいて、僕が圧倒的に弱い立場なのは間違いない。
「断りなよ。あいつは卑怯なやつで、あなたは弱いやつだ。ひとの頼みを断れないのは、優しい人間じゃなくて、主体性がないだけ」
その言葉にはかすかな自嘲が込められていた。彼女は陰で、八方美人、と呼ばれることもあったから、僕の行動に、自身の性格を重ね合わせて見ていたのかもしれない。だからこそ余計に、不快に感じていたのだろう。
「ごめん」
「怒る相手がいないね。ねぇ、代わりにあなたに怒りをぶつけたい、って言ったら、理不尽だって思う?」
「いや、すくなくとも日下には、何も思わないよ。……だから、いいよ」
「いいの? 私の、ビンタ、本当に痛いよ」
そう言われると、緊張してくるのも事実だった。
「大丈――」
僕の言葉が終わらないうちに、彼女の手のひらが飛んできて、
それは、ひとつも痛くなかった。
「ありがとう。その表情を見ただけで、ちょっとすっきりした」
と亜美がほほ笑んだ。
一雫の涙が、彼女のほおをつたっていく。
これが僕と亜美の出会いだった。そしてこの時はまだ、今後関わることもないだろう、と思っていたのだけれど、数日後、学校から帰ろうとしていた僕は、彼女から呼び止められた。亜美は眼鏡を掛け、そして髪を切っていた。失恋のために何かを変えようと思ったのか、あるいはまったく別の理由だったのか、それはまったく分からない。僕はそのことに触れなかったからだ。いや、聞きたかった気持ちもあるのは事実で、
「その髪……?」
とは言ってみたのだけど、
「まぁいいでしょ、そんなことは」と、さえぎられてしまったのだ。「ちょっと、ふたりで話せないかな?」
そして僕たちが向かったのは、将棋部の部室として使われている和室で、きょうは将棋部が休みの日なので、そこには誰もいなかった。
「じゃあ、そこ、座って」
畳のうえに長机が置いてあって、僕たちは隣り合って座る。
「へぇ、はじめて入った」
亜美は辺りを、はじめて入る好奇心からか、きょろきょろと周りを見回していた。
「普通の和室だよ」
「……そうなんだけど。普段、来ないから……。あぁごめんね。本題を言わないと、落ち着かないよね」
「まぁ、うん」
「実は、今村くんにも、ビンタしたんだ。……もちろん、あなたとは違う、本当に痛い一発を、ね」
亜美が、ビンタのジェスチャーをする。それを見ながら、僕はなんで彼女がそんなことを言うのかを考えていた。もちろん彼女が、今村を叩いたことに文句があるわけじゃない。自業自得という言葉はあまり好きじゃないけれど、彼はひどい仕打ちをしたのだから。問題はなぜ僕に言うか、だ。今回の件に関わった僕への報告だろうか。
彼女は、僕の気持ちを察したみたいだ。
「一応、あなたには言っておこうかな、と思って。……あと」
「あと?」
「チェスを教えて欲しいな、って」
「チェス?」
意外な言葉に、思わず僕は、馬鹿みたいな声を出してしまった。
「いや、最悪なこともあったけど、せめてこれをきっかけに、何か良いことでもあったらいいなぁ、って気がしてね。こうやって縁もできたわけだし。嫌?」
そしてチェス同好会に、新たな会員がひとり増えた。と言っても、将棋部に入るのは、別の部に入っているので無理だ、ということで、彼女の所属するバレー部が休みの日だけ、遊びに来る感じだ。将棋部の男女の割り合いは同じくらいだ。その将棋部の中でできあがるチェス同好会も僕と、男子と女子、それぞれひとりずつの、三人の構成だったので、どちらかの性別だから、といって肩身が狭くなるような環境ではなかった。彼女も居心地良さそうに過ごしていた。
僕が亜美と、いわゆる恋人、と言われる関係になるのは、もうすこし先のことだ。でも、僕たちを、恋人、と呼んでしまうことに、すくなくとも僕は、ためらいを感じてしまっている。
「あなたは、たぶん私の先に、別の誰かを見ている」
中学生の頃の記憶を振り返ろうとして、最初に浮かんだのは、そんな言葉だった。鮮明によみがえるのは、いつも苦い思い出ばかりだ。
そう僕にほほ笑んだ日下亜美とは、ほんのわずかだったけれど、恋人だった時期がある。違う小学校の出身で、だからはじめて見たのも、中学校に上がってからだった。誰とでも仲良く接する女性で、悪く捉えれば八方美人な性格とも言えるのかもしれないが、周囲と円滑にコミュニケーションを取る姿は、ちょっとした憧れだった。僕にはできないことだったからだ。
はじめて亜美を認知したのは、当時のクラスメートの言葉だった。
「日下って、良いよなぁ」
可愛いし、優しいし、とそんな気持ちを混ぜた遠い目をして、そのクラスメートが言ったのだ。小学校の時からは一転して、僕のいた中学はそれなりに生徒数の多い学校で、お互いに話すこともないまま卒業した同級生もめずらしくない。亜美のことも、クラスメートの口から聞かされるまでは、顔を知っているだけの生徒だった。失礼を承知で言うと、いわば女子生徒A、みたいな感じだったのだ。
中学二年の時で、彼女は隣のクラスの生徒だった。
これは自信を持って言えるのだけれど、亜美は男子から非常に人気があった。もともとの容姿もあったとは思うけれど、それ以上に、人当たりの良さが一番の理由だったはずだ。中学生くらいの年頃の、特に女子と縁のない男子は、勘違いしやすい。たとえば僕も、その中に含まれる。ちょっと優しくされただけで、あれっ、この子、俺のこと好きなんじゃ、と誤解してしまうのだ。もちろんみんながそう、というわけではないが、僕も含めて、そんなうぬぼれた男子をいままでいっぱい見てきたのだから、ある程度、真理はついている、と思う。
ただ僕と亜美との最初のやり取りは、そんな勘違いなんて欠片も起きそうにないほど、最悪なものだった。
「なぁ、むかしからの仲だろ。頼むよ」
と、彼から言われた時の怒りは、はっきりと覚えている。彼は小学校からの知り合いで、外見は体躯も大きく、端正な顔立ちをして、硬派な雰囲気に見えなくもないが、中身はひどく軽薄な男で、もともと特別嫌っていたわけではないが、好きにもなれない相手だった。
ただこの言葉を聞いた時には、はっきり、と彼のことを、嫌いだ、と思った。
今村はサッカー部に所属していて、女子からの人気も高かった。
呼び出されたんだ。たぶん、告白されると思う。今村は日常の一コマについて語るように、何気ない口調だった。
俺の代わりに断って欲しい、と彼は言った。
「自分で、行きなよ。そんなの」
「だって、何、言われるか、分かったもんじゃないだろ」
「正直に言えばいいだろ。彼女がいる、って。ちゃんとした理由があるんだから、問題ないだろ」
「いや……実は、さ。前に、彼女いるか、って日下に聞かれた時、さ。つい嘘ついちゃったんだ。あんな嬉しそうにしていた顔が崩れていくなんて、俺には耐えられないよ」
今村はむかしから、物事を自分の都合の良いように考えてしまうところがあった。彼は、その言葉が優しさからくるものだ、と心の底から思っているのだ。そもそも自分の嘘が原因だ、という意識が稀薄なのだろう。
「頼む」
彼の性格は知っている。断り続ければ、自分が頼んでいる側ということも忘れて、怒り出すのだ。そしてより面倒なことになる。
僕は心の中でひとつため息をついて、
「分かったよ」
と言った。
なぜ僕に頼んだのか、というと、頼み込めば折れる相手だ、と彼も僕の性格を知っているのだ。お互いに相手の性格を知っているから、嫌でもこういう形になってしまうのだ。彼女も、こんな不誠実なやつを好きになった私が馬鹿だった、と自分自身の想いを捨てやすいかもしれない、と心の中で言い聞かせる僕に、話し終える直前、
「結城って、日下と話したことないから、何言われても平気だろ」
と言ってきた時には、顔面を殴ってやりたいような気持ちになってしまった。まぁ暴力とは無縁に生きてきた僕に、そんなこと、できるはずもないのだが……。
放課後、僕が向かったのは、彼女のいるクラスだ。
教室には、彼女ひとりだった。そうなるように、彼女は準備していたのだろう。
「あれっ、確かチェス同好会のひと、だよね?」
そもそも彼女としっかり顔を合わせるのさえはじめてだった僕は、どういうふうに話しかけるか、迷っていた。まず自己紹介をするのか、それとも単刀直入に事実だけを伝えて、すぐにその場から離れればいいのか。
だけど彼女からの意外な言葉に混乱してしまって、事前のイメージトレーニングは狂ってしまった。
「そうだけど、なんで知ってるの?」
「私、真希と、仲、良いから」
「そうか、清水さん、と」
清水さんとは、小学校から中学校まで同じで、部活も一緒だった。チェス同好会で……、という意味ではない。僕たちは将棋部で、その部の中に、非公式のチェス同好会があったのだ。だから僕は将棋部の幽霊部員で、チェス同好会の会員だったことになる。なんともおかしな感じだけれど、事実としてそうなのだから、仕方ない。どこかの部には絶対に所属しないといけないから、将棋部にいたのだが、興味のベクトルはチェスに向いていた。
僕とあと数人の将棋部員でつくられたのが、チェス同好会で、存在さえも知らない生徒は多く、そんな相手からすれば、僕は将棋部でしかない。
だから余計に、驚いたのだ。
もし将棋部、と言われていたなら、そこまでびっくりすることもなかったはずだ。
「私、ひとを待ってるんだ。だから、ごめんね」
「あぁ、そのことなんだけど……」
「うん?」
と、彼女がほほ笑んだまま、小首を傾げた。
あんな嬉しそうにしていた顔が崩れていくなんて、俺には耐えられない。そんなふうに今村は言っていて、その言葉はいま考えても、本当に失礼だと思うが、すこしだけ分かる気がした。彼女の笑顔には、思わず見惚れてしまうような魅力があるからだ。一瞬、僕も、彼が来れなくなった、と嘘をついてしまおうか、という気持ちが萌した。
だけど、真実を知った時にどうなるか、と考えると、そんなことはできなかった。
「実は――」
僕の話を、彼女は静かに聞いていた。
彼女は、変なことを言うな、と怒りもしなかったし、冗談でしょ、と笑いもしなかったし、ひどい、と泣くこともなかった。表情の変化は薄かった。だけど何も感じていないわけではない、くらいは分かっている。僕だって、そこまでは鈍感ではない。こんないきなり現れた変なメッセンジャーに感情の揺れ動きを悟られないように、とそんな精一杯の強がりだ。僕は彼女から眼を逸らすことができなかった。
「卑怯なやつだ。自分で、言いに来いよ」
彼女が、ぽつり、と言った。
「僕も、そう思う」
「なのに、その頼みを引き受けるわけだ。いじめられてるの?」
「いや、そんなわけじゃないけど……」
ただ人間関係のパワーバランスにおいて、僕が圧倒的に弱い立場なのは間違いない。
「断りなよ。あいつは卑怯なやつで、あなたは弱いやつだ。ひとの頼みを断れないのは、優しい人間じゃなくて、主体性がないだけ」
その言葉にはかすかな自嘲が込められていた。彼女は陰で、八方美人、と呼ばれることもあったから、僕の行動に、自身の性格を重ね合わせて見ていたのかもしれない。だからこそ余計に、不快に感じていたのだろう。
「ごめん」
「怒る相手がいないね。ねぇ、代わりにあなたに怒りをぶつけたい、って言ったら、理不尽だって思う?」
「いや、すくなくとも日下には、何も思わないよ。……だから、いいよ」
「いいの? 私の、ビンタ、本当に痛いよ」
そう言われると、緊張してくるのも事実だった。
「大丈――」
僕の言葉が終わらないうちに、彼女の手のひらが飛んできて、
それは、ひとつも痛くなかった。
「ありがとう。その表情を見ただけで、ちょっとすっきりした」
と亜美がほほ笑んだ。
一雫の涙が、彼女のほおをつたっていく。
これが僕と亜美の出会いだった。そしてこの時はまだ、今後関わることもないだろう、と思っていたのだけれど、数日後、学校から帰ろうとしていた僕は、彼女から呼び止められた。亜美は眼鏡を掛け、そして髪を切っていた。失恋のために何かを変えようと思ったのか、あるいはまったく別の理由だったのか、それはまったく分からない。僕はそのことに触れなかったからだ。いや、聞きたかった気持ちもあるのは事実で、
「その髪……?」
とは言ってみたのだけど、
「まぁいいでしょ、そんなことは」と、さえぎられてしまったのだ。「ちょっと、ふたりで話せないかな?」
そして僕たちが向かったのは、将棋部の部室として使われている和室で、きょうは将棋部が休みの日なので、そこには誰もいなかった。
「じゃあ、そこ、座って」
畳のうえに長机が置いてあって、僕たちは隣り合って座る。
「へぇ、はじめて入った」
亜美は辺りを、はじめて入る好奇心からか、きょろきょろと周りを見回していた。
「普通の和室だよ」
「……そうなんだけど。普段、来ないから……。あぁごめんね。本題を言わないと、落ち着かないよね」
「まぁ、うん」
「実は、今村くんにも、ビンタしたんだ。……もちろん、あなたとは違う、本当に痛い一発を、ね」
亜美が、ビンタのジェスチャーをする。それを見ながら、僕はなんで彼女がそんなことを言うのかを考えていた。もちろん彼女が、今村を叩いたことに文句があるわけじゃない。自業自得という言葉はあまり好きじゃないけれど、彼はひどい仕打ちをしたのだから。問題はなぜ僕に言うか、だ。今回の件に関わった僕への報告だろうか。
彼女は、僕の気持ちを察したみたいだ。
「一応、あなたには言っておこうかな、と思って。……あと」
「あと?」
「チェスを教えて欲しいな、って」
「チェス?」
意外な言葉に、思わず僕は、馬鹿みたいな声を出してしまった。
「いや、最悪なこともあったけど、せめてこれをきっかけに、何か良いことでもあったらいいなぁ、って気がしてね。こうやって縁もできたわけだし。嫌?」
そしてチェス同好会に、新たな会員がひとり増えた。と言っても、将棋部に入るのは、別の部に入っているので無理だ、ということで、彼女の所属するバレー部が休みの日だけ、遊びに来る感じだ。将棋部の男女の割り合いは同じくらいだ。その将棋部の中でできあがるチェス同好会も僕と、男子と女子、それぞれひとりずつの、三人の構成だったので、どちらかの性別だから、といって肩身が狭くなるような環境ではなかった。彼女も居心地良さそうに過ごしていた。
僕が亜美と、いわゆる恋人、と言われる関係になるのは、もうすこし先のことだ。でも、僕たちを、恋人、と呼んでしまうことに、すくなくとも僕は、ためらいを感じてしまっている。
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