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珈琲と推しの生活

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 落ち着いた雰囲気のままヘンリッキ団長が淡々と推しを諭す。

「ヤクシ家の令息直々に指導をしてもらえる機会など滅多にない。これは魔法師団のためだ。それとも、この研究環境を失うかい? これだけの設備が揃った研究施設はこの国では他にないと思うが」
「くっ……」

 葛藤する推し。険しい表情のまま私を覗き見する。その苦悩に染まった紫の瞳がどんな宝石より綺麗で……

(お、推しの視線が私にっ! 尊すぎて、昇天す……ハッ!? 今日が私の命日!? 遺書を書かないと……って、そうじゃなくて!)

 この間、およそ0.3秒。推しが諦めたようにため息を吐いた。

「……わかりました。半年だけです」

 推しの苦渋の決断。でも、私の心は爆発しそうなほど高鳴って。

「ほ、ほほほ、ほほ、本当に、いいのですか!?」
「よくないですが、しないといけませんから」

 推しが逃げるように顔をそらすが、私は逃すまいと反射的に推しの手を握った。

「任せてください! 半年で立派な健康体マッチョにしますから!」
「……」

 返事はない。代わりに冷めた推しの視線が無言のまま下へ。その先には推しと私の手が……

「ひゅえっ!?」

 ここで手を握っていたことに気づいた私は速攻で両手を離した。

「すっ、すみません!」

 恥ずかしさが最大値になった私は推しに背を向けて俯いた。

(お、推しの手を……推しの手を握ってしまったぁぁぁあ! どうしようっ!? 課金!? いや、課金じゃ追いつかない! どうすればぁぁぁ!?)

 心の中で五体投地する私にヘンリッキ団長の穏やかな声が降り注ぐ。

「リクハルドが非協力的であれば報告してください」
「ヘンリッキ団長!」

 不満が込められた推しの声。でも、私はそれどころじゃなくて!

「は、ははは、はいぃぃ!!!」

 挙動不審になってしまう私。このままでは、いけない!

 パァァァン!

 両手で思いっきり自分の頬を叩いた私は、ヒリヒリと痛む頬と一緒に頭をさげた。

「よろしくお願いしますっ!」

 困惑した空気が流れる中。

「あ、あぁ……」

 推しが引きつったような声で返事をした。



 その後、ヘンリッキ団長は団長室に戻り、私は推しの研究室に通された。

 四人部屋の病室ぐらいの広さ。大きな窓があるけど重いカーテンが日光を塞ぎ、棚と床には本が山積み。いつ雪崩が起きてもおかしくない。
 他にもメモ紙のようなノートのような物が散乱していて、足の踏み場もない。

「こちらへ」

 推しが隙間を縫ってスタスタと室内を歩く。

(フラフラしてるけど、バランス感覚はよさそう。運動神経もいいかも)

 私は推しの後ろ姿を観察しながら追いかけた。推しが部屋の真ん中にある大きなテーブルの上にある物を腕でザッと端に寄せる。それから、魔法で火を起こし、三角フラスコで湯を沸かした。

「珈琲と紅茶、どちらがいいですか?」
「ど、どちらでも。その、お構いなく……」

 勧められた椅子に腰を降ろした私。でも、完全には座らず空気椅子トレーニング。背筋を伸ばし、太ももが床と平行になる姿勢を維持。大腿四頭筋と大殿筋を主に鍛える。適度に空気椅子をして、腰を下ろす。
 これをこっそり繰り返しながらも、推しから目は離さない。

(まさか、推し自ら飲み物を淹れてくれるなんて! 飲まずに持って帰りたい! 収納袋に入れて永久保存したい!)

 推しが珈琲豆を出し、慣れた様子でコーヒーミルに豆を入れた。骨張った大きな白い手が一定のリズムでハンドルを回す。
 ちなみに挽いた豆も売られているし、そちらを買う人の方が多い。それなのに……

(わざわざ、豆を挽いてっ!? こんなの課金じゃ足りない! 臓器!? 臓器を売ればいいですかっ!?)

 昇りかけた魂を、ガリゴリという音と珈琲の香りが現実に引き戻す。焼けたような香ばしい匂いにナッツの香りが混ざった、独特で不思議な匂い。

 でも、無言。流れる沈黙。

 気まずくなった私は慌てて話題をふった。

「自分で豆を挽くんですね」
「珈琲は豆を挽いた時が一番匂いを楽しめますから。あと、挽き方で自分の好きな味にできます」
「こだわっているんですね」

 ゲームにはなかった推しの話。

(この声を残したい! この姿を録画したい! なぜ、この世界には録音や録画ができる魔道具がないのか!)

 心の中で血の涙を流しながら吐血して喚く私。目の前では、推しが漏斗にフィルターをセットして挽いた珈琲を入れた。漏斗の先にビーカーを置き、ゆっくりと湯を注いでいく。
 豆を挽いていた時とは違う珈琲の香りが研究室を満たす。まるでカフェにいるみたい。

「良い匂いですね」
「……どうも」

 どこか恥ずかしそうな推し。

(ゲーム内で珈琲を淹れるイベントなんてなかった! レア中のレアでしょ!)

 必死に悶える心を抑える。

(ダメ! ダメ! 今は推しを健康体マッチョにすることに集中!)

「どうぞ」

 珈琲が入ったビーカーが差し出された。湯気とともに深みのある芳香が漂う。黒い水面に映る自分の顔。
 私の反対側の椅子に座った推しが足を組んで珈琲を飲んだ。座ってすぐに足を組むのは臀部の筋肉が体を支えられないほど弱っている可能性がある。

(ビーカーで珈琲を飲む推しの姿も良いけど、まずは筋肉をつけないと……)

「あの、少しお聞きしたいのですが……」

 私はこの優雅な時間を堪能したい気持ちを堪え、推しの生活状況を知るため質問攻めにした。

「夜は何時に寝て、朝は何時に起きますか?」
「何故、そんな質問を?」
健康体マッチョになるためです!」
「その言葉を言えば、どうにかなるような感じになっていません?」

 図星を突かれながらも真っ直ぐ推しを見つめる。
 推しが観念したように言った。

「協力する約束でしたからね。朝は……十時ぐらいでしょうか。夜は五時か六時か……朝日が出たら寝ます」

 睡眠時間は四、五時間ほど。最低でも七時間は寝て欲しいけど、これは想定内。

「お風呂は毎日入ってますか? それともシャワーですか?」

 魔法を使った魔道具が充実していて、衛生的なお風呂やトイレがある。これもゲーム設定のおかげだろう。この世界では日常生活にそこまで不便がなく、そこそこ快適に暮らせている。
 けど、推しは……

「風呂ですか? 風呂は……」

 それからは衝撃の回答の連続。改善すべき点が多すぎる……
 推しが淹れた珈琲を前に、私は頭を抱えた。

「まずは毎日、家に帰ってお風呂に入りましょう。それからベッドで寝てください」
「お風呂に入らなくても浄化魔法で体は清潔ですし、睡眠はそこのソファーで十分とれています」

 そう説明して推しが指さした先には三人掛けのソファーがある。でも、推しの身長を考えると長さが足りない。

「ダメです! 一日一回、お風呂に入って全身を温めること。夜は体を伸ばしてベッドで七時間は寝ること」
「それだと研究時間が……」
「今のあなたの仕事は体を健康体マッチョにすることです! 時間はすべてそちらに使います!」
「なっ!?」

 珈琲を飲みかけていた推しの手が止まる。

「あと毎日、外で筋トレもします。その時は日光浴も兼ねていますから、半袖短パンです」
「はぁ!?」
「あ、服がないのでしたら私が準備します」
「そうではなく!」

 推しがビーカーをテーブルに置く。

「あと料理ですが、料理のレシピをお渡ししますので、それに基づいて料理人に作ってもらってください」

 推しは子爵。料理は料理人か使用人が作っているはず。

「あと、昼食も料理人が作ったものを持参してください。難しければ私が作って持ってきます」
「ちょっ、待て! そこまでしなくても」
「あ、料理に毒などは入れませんから。心配なら、目の前で調理します。幸い、この研究室には流し台がありますし」

 たぶん研究で使うための水道台なのだろう。あとは簡易コンロと鍋やフライパンを持ってくれば簡単な料理ぐらい作れる。

「そういう問題ではなく!」
「かなり無茶なことを言っている自覚はあります。ですが、半年で健康体マッチョになるためです。あの時は勢いで半年と言ってしまいましたが、本当は一年欲しいところなんです」

 私の正直な意見に推しが額を押さえる。

「短気な騎士団が一年も待つとは思えないし、半年も待つか怪しいところです。結果は早く出すにこしたことはありませんし……わかりました、やりましょう」
「ありがとうございます! あ、珈琲は持って帰っていいですか?」
「珈琲豆ですか? そんなに気に入りました?」

 推しが珈琲豆の入った袋に手を伸ばす。

「あ、違います。この珈琲です」

 私は珈琲が入ったビーカーを持ち上げた。勿体なくて一口も飲んでない。
 推しがとても微妙な顔になった。


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