上 下
3 / 63

空腹ですが、美味しいご飯をもらいました

しおりを挟む

 日本語訳付きの論文を手に入れた私は、ようやく自分のアパートに帰れた。

 あのオシャレな部屋に比べたら、物が散らかり、生活感が溢れまくった汚部屋一歩手前。


 そう、一歩手前。ここ、大事。


 必要な物は手が届く位置にあり、これはこれで過ごしやすい。

 シャワーを浴びた私は、冷蔵庫から缶ビールを出し、その場で開けた。
 プシュッという小気味よい音。吸い込まれるように口をつけ、一気に流し込む。


「ぷはぁ! 最高!」


 この瞬間のために生きていると言っても過言ではない。至福の瞬間。最高の一杯。

 ビールを堪能した私は、ソファーへ移動して論文を手にとった。


「さあて、どういう治療法かしら。あまり時間もかけられないし、日本で承認されている薬を使ったものならいいんだけど……」


 論文を読み進めながら、段々と沈む。


(確かに、この方法なら治療できるわ。むしろ完全に治すなら、この治療法しかない。でも、この方法は……)


 私は勢いよく顔を上げた。


「いや、まだよ! もう少し詳しく検査をして、この症例通りか診断しないと! もしかしたら、この治療法ができないかも……って、この治療法ができなかったら、それはそれで問題よ! あぁ、もう八方塞がりぃ!」


 私は論文を投げた。


※※


 翌日の夜。


「どうして、ここに来たんですか? 漫画の監修には、早いのですが」

「監修をするために、来たんじゃないわよ」


 どうにか仕事を定時過ぎに終わらせた私は、黒鷺の家に駆けこんだ。なりふりなんて、かまっていられない。

 突然の訪問だったけど、黒鷺は私を迎え入れてくれた。


「論文に何か問題でも?」

「ありありの、大ありよ」


 私は昨日と同じ椅子に座った。キッチンにいる黒鷺が訊ねる。


「症例が違いました?」

「検査したら、バッチリその通りだったわ」

「なら、良いじゃないですか」

「よくない!」


 私はバンバンとテーブルを叩いた。手が痛くなったけど、それより悔しさが勝る。


「できないのよ! あんな難しい手術! 私には、知識も経験も技術もないわ!」

「確かに簡単な手術ではないですね」


 力尽きた私は、テーブルにうつ伏せた。無機質な木目が冷たくて気持ちいい。


「夕食は食べました?」

「食べてない」


 仕事を早く終わらせるため、昼も食べていない。お腹空いた。


「ちょっと待っててください」

 少しして、香ばしく焼ける音と醤油の匂いが漂ってきた。


 ぐぅ。


 タイミングよく鳴ったお腹に恥ずかしくなる。聞こえてないといいんだけど。

 伺うように目だけで黒鷺を見る。すると、にっこりと微笑みを返された。
 はい、しっかり聞こえましたね。かなり大きな音でしたもんね。

 私は逃げるように顔を反対側に向けた。


「うぅ……三十前のいい大人が、お腹をならすなんて」


 嘆いていると、トレイを持った黒鷺がやって来た。


「作り置き用に多めに作っていたので、どうぞ」


 お味噌汁と白ごはん。焼きたての豚の生姜焼きに、生野菜のピクルス。あと、肉じゃがまである。

 私は思わず生唾を飲んだ。


「い、いいの? こんな、ご馳走を食べても」

「普通の料理ですよ」

「なに言っているの!? これだけ作るのは大変なのよ!」

「そうですか? 慣れもありますが……まあ、疲れている時に、これだけ作るのは面倒ですよね」


 料理は同じ和食器で統一され、センスが光る。


「やっぱり、ここはカフェでしょ?」

「だから、違いますって。温かいうちに、どうぞ」

「じゃあ、お言葉に甘えて。いただきまぁーす」


 豆腐とワカメのシンプルなお味噌汁。喉を通った味噌が体に溶け込んで癒される。

 程よい焼き目がついた豚肉の生姜焼き。噛めば噛むほど、豚肉と生姜が効いたタレが口の中に広がる。

 そこに付け合わせのピクルスを一口。


「んー! 美味しい!」


 ピクルスの酸味が豚肉の脂をさっぱりと流す。もう、無限に食べられる。箸が止まらない。


「口に合ったのなら、良かったです」


 次々と食べていく私を黒鷺が満足そうに眺める。

 その視線に気が付いて、私は手を止めた。


「もしかして……これ、あなたの夕飯だった?」

「僕はもう食べましたので。これは、作り置き料理です。もう少ししたら、修羅場になるので」

「修羅場!? 愛憎劇!?」


 私の発言に、黒鷺の視線が生温かくなる。いや、だってイケメンに愛憎劇はつきものでしょ?

 黒鷺が呆れたように説明をする。


「ネームが出来たら、原稿が完成するまで漫画に集中します。なので、料理は極力時間をかけずにできるものを、下準備しておくんです」

「ネーム?」

「漫画の下書きです」

「へぇ」

「ですので、気にせずに食べてください」

「は、はい」


 私は再び食べ始めた。

 よく考えれば大学生の男子が作ってくれた料理に、がっつくアラサーって……

 いや、考えたらダメ。考えたら負けよ……って、この白米。粒がたって艶があって、お米の味がして、最高。こんなに美味しいお米を食べたのは、久しぶりだわ。

 私の思考は、あっさりと料理に占領された。


「ご馳走様でした」


 美味しい物でお腹いっぱいになると、こんなにも満たされるのね。久しぶりの幸福感。満腹、満足。


「では、本題に入りましょうか」

「本題?」

「……ここには、ご飯を食べに来たんですか?」

「あ、お会計? いくら?」


 黒鷺がジロリと睨む。ちょっと、お茶目をしただけなのに。くすん。

 私は姿勢を直して黒鷺に訊ねた。


「でも、解決策ってあるの?」

「その論文の作者の名前は見ました?」

「えぇ。リク・アイロネーロ。イタリア人医師。世界でも有名な脳外科医でしょ? この論文を読んでから調べたけど」

「そうです。あと、リクは漢字で瑠璃るりそらくう璃空リクと書きます」


 初耳すぎて目が丸くなった。


「え? そんな情報どこにもなかったけど。日本人なの?」

「正確にはイタリア人と日本人のハーフです」

「詳しいのね」


 感心する私に黒鷺が話を続ける。


「で、イタリア語でアイロネはさぎ。ネーロは黒」

「鷺……黒…………黒鷺!?」

「そう」


 目の前にいる黒鷺と、偶然にも同じ名前…………偶然?


「親戚?」


 黒鷺が吹き出すように笑った。なにがツボったのか、お腹を抱えている。

 私は頬を膨らまして睨んだ。


「そこまで笑わなくても、いいじゃない。こっちは真剣なんだから」

「ですが、鈍すぎて……あ、僕の本名を言ってなかったか」

「黒鷺雨音じゃないの?」

「それはペンネームです。本名は、漢字でてんおとと書いて天音あまね・アイロネーロです」

「あぁ、それで黒鷺ってペンネームに……え? 同じファミリーネーム? やっぱり親戚?」

「親戚ではなく、父ですよ。父は英語が苦手なので、論文を書く時に手伝ったんです。だから、発表前の論文の内容を知っていて、漫画に取り入れることが出来た。というわけです」


 あっけにとられた私は、すぐに言葉が出なかった。


(なに、その反則技!? でも……それって)


「じゃあ、この手術も……」

「父なら出来ますね」


 私はテーブルを越えて、黒鷺に掴みかかった。


「それ、先に言いなさいよ! お父様はどこにいるの!? 直接、話をさせて!」

「また、それですか!?」

「直接、話して状態を説明する方が早いの!」

「待っ、ちょっ、離れてくださっ!」


 静かな洋館に黒鷺の叫び声が響いた。


※※


 それから、数週間。私は動きまわった。

 あの後、すぐにリク医師と連絡をとり、事情を説明して協力を仰いだ。
 すると、あっさり二つ返事をもらえた上に、数日後には日本に来るとか。これは、ラッキーだった。


 次は職場の頭の固い上層部。


 難癖つけて、外部の医師がメインで手術をすることを拒否する。理由は、問題が起きた時に面倒事になるから。大人の事情ってやつで、簡単には許可が下りない。

 けど、今回は世界的にも有名な名医の手術。それを生で拝見できるなんて滅多にない。もちろん、手術を見学したい医師は多い。

 私はそんな医師たちを巻き込み、最後は許可をもぎ取った。



 そして、リク医師が来日する日。



 私は病院の玄関で、そわそわしていた。タクシーが止まるたびに姿勢を正し、空振りに終わる。


「あ、ゆずりん先生!」

「こら、柚鈴ゆり先生でしょ。光輝くん、元気? 今日はどうしたの? 一人?」

「うん、元気! 今日は検査に来たんだ。お母さんは先に受付してる」


 小学生の男の子が、名前負けしない輝きを振りまく。
 長期入院していたが、やっと症状が安定して一ヶ月前に退院した。


「そう。学校は楽しい?」

「うん!」

「良かったね。ここは暑いから、早く中に入って」

「じゃあ、またね」


 光輝が手を振り、自動ドアをくぐる。退院後にこういう姿を見られるのは嬉しい。


「元気そうで良かった」

「シィ、シィ。子どもは元気が一番ですネ」


 独特の訛りがある低くて渋いイケボイス。

 振り返ると、見知らぬイケオジが立っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

後宮出入りの女商人 四神国の妃と消えた護符

washusatomi
キャラ文芸
西域の女商人白蘭は、董王朝の皇太后の護符の行方を追う。皇帝に自分の有能さを認めさせ、後宮出入りの女商人として生きていくために――。 そして奮闘する白蘭は、無骨な禁軍将軍と心を通わせるようになり……。

陽香は三人の兄と幸せに暮らしています

志月さら
キャラ文芸
血の繋がらない兄妹×おもらし×ちょっとご飯ものなホームドラマ 藤本陽香(ふじもと はるか)は高校生になったばかりの女の子。 三人の兄と一緒に暮らしている。 一番上の兄、泉(いずみ)は温厚な性格で料理上手。いつも優しい。 二番目の兄、昴(すばる)は寡黙で生真面目だけど実は一番妹に甘い。 三番目の兄、明(あきら)とは同い年で一番の仲良し。 三人兄弟と、とあるコンプレックスを抱えた妹の、少しだけ歪だけれど心温まる家族のお話。 ※この作品はカクヨムにも掲載しています。

大正ロマン恋物語 ~将校様とサトリな私のお試し婚~ その後

菱沼あゆ
キャラ文芸
咲子と行正、その後のお話です(⌒▽⌒)

お父様、お母様、わたくしが妖精姫だとお忘れですか?

サイコちゃん
恋愛
リジューレ伯爵家のリリウムは養女を理由に家を追い出されることになった。姉リリウムの婚約者は妹ロサへ譲り、家督もロサが継ぐらしい。 「お父様も、お母様も、わたくしが妖精姫だとすっかりお忘れなのですね? 今まで莫大な幸運を与えてきたことに気づいていなかったのですね? それなら、もういいです。わたくしはわたくしで自由に生きますから」 リリウムは家を出て、新たな人生を歩む。一方、リジューレ伯爵家は幸運を失い、急速に傾いていった。

狐姫の弔い婚〜皇帝には愛されませんが呪いは祓わせていただきます

枢 呂紅
キャラ文芸
とある事件により心を閉ざす若き皇帝は、美しくも奇妙な妃を迎える。君を愛するつもりはないと言い放つ彼に、妃は「代わりに、怨霊や呪いの影があればすぐに教えるように」と条件を出す。その言葉通り妃は、皇帝を襲う怨霊を不思議な呪術で退治してみせた。 妃は何者なのか。彼女はなぜ、不思議な力を持つのか。 掴みどころのない妃に徐々に惹かれながら調べるうちに、謎は千年前に呪いを撒き散らした大妖狐へと繋がっていく-- 中華風ファンタジー世界の、謎多き妃×傷を抱えた皇帝のオカルトミステリー!

ドS編集M男と少し売れてる漫画家A子

北条丈太郎
キャラ文芸
不器用で短気な編集M男と面倒くさい少女漫画家A子の仕事以上恋愛未満な物語

天界アイドル~ギリシャ神話の美少年達が天界でアイドルになったら~

B-pro@神話創作してます
キャラ文芸
全話挿絵付き!ギリシャ神話モチーフのSFファンタジー・青春ブロマンス(BL要素あり)小説です。 現代から約1万3千年前、古代アトランティス大陸は水没した。 古代アトランティス時代に人類を助けていた宇宙の地球外生命体「神」であるヒュアキントスとアドニスは、1万3千年の時を経て宇宙(天界)の惑星シリウスで目を覚ますが、彼らは神格を失っていた。 そんな彼らが神格を取り戻す条件とは、他の美少年達ガニュメデスとナルキッソスとの4人グループで、天界に地球由来のアイドル文化を誕生させることだったーー⁉ 美少年同士の絆や友情、ブロマンス、また男神との同性愛など交えながら、少年達が神として成長してく姿を描いてます。

【完結】お父様に愛されなかった私を叔父様が連れ出してくれました。~お母様からお父様への最後のラブレター~

山葵
恋愛
「エリミヤ。私の所に来るかい?」 母の弟であるバンス子爵の言葉に私は泣きながら頷いた。 愛人宅に住み屋敷に帰らない父。 生前母は、そんな父と結婚出来て幸せだったと言った。 私には母の言葉が理解出来なかった。

処理中です...