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空腹ですが、美味しいご飯をもらいました
しおりを挟む日本語訳付きの論文を手に入れた私は、ようやく自分のアパートに帰れた。
あのオシャレな部屋に比べたら、物が散らかり、生活感が溢れまくった汚部屋一歩手前。
そう、一歩手前。ここ、大事。
必要な物は手が届く位置にあり、これはこれで過ごしやすい。
シャワーを浴びた私は、冷蔵庫から缶ビールを出し、その場で開けた。
プシュッという小気味よい音。吸い込まれるように口をつけ、一気に流し込む。
「ぷはぁ! 最高!」
この瞬間のために生きていると言っても過言ではない。至福の瞬間。最高の一杯。
ビールを堪能した私は、ソファーへ移動して論文を手にとった。
「さあて、どういう治療法かしら。あまり時間もかけられないし、日本で承認されている薬を使ったものならいいんだけど……」
論文を読み進めながら、段々と沈む。
(確かに、この方法なら治療できるわ。むしろ完全に治すなら、この治療法しかない。でも、この方法は……)
私は勢いよく顔を上げた。
「いや、まだよ! もう少し詳しく検査をして、この症例通りか診断しないと! もしかしたら、この治療法ができないかも……って、この治療法ができなかったら、それはそれで問題よ! あぁ、もう八方塞がりぃ!」
私は論文を投げた。
※※
翌日の夜。
「どうして、ここに来たんですか? 漫画の監修には、早いのですが」
「監修をするために、来たんじゃないわよ」
どうにか仕事を定時過ぎに終わらせた私は、黒鷺の家に駆けこんだ。なりふりなんて、かまっていられない。
突然の訪問だったけど、黒鷺は私を迎え入れてくれた。
「論文に何か問題でも?」
「ありありの、大ありよ」
私は昨日と同じ椅子に座った。キッチンにいる黒鷺が訊ねる。
「症例が違いました?」
「検査したら、バッチリその通りだったわ」
「なら、良いじゃないですか」
「よくない!」
私はバンバンとテーブルを叩いた。手が痛くなったけど、それより悔しさが勝る。
「できないのよ! あんな難しい手術! 私には、知識も経験も技術もないわ!」
「確かに簡単な手術ではないですね」
力尽きた私は、テーブルにうつ伏せた。無機質な木目が冷たくて気持ちいい。
「夕食は食べました?」
「食べてない」
仕事を早く終わらせるため、昼も食べていない。お腹空いた。
「ちょっと待っててください」
少しして、香ばしく焼ける音と醤油の匂いが漂ってきた。
ぐぅ。
タイミングよく鳴ったお腹に恥ずかしくなる。聞こえてないといいんだけど。
伺うように目だけで黒鷺を見る。すると、にっこりと微笑みを返された。
はい、しっかり聞こえましたね。かなり大きな音でしたもんね。
私は逃げるように顔を反対側に向けた。
「うぅ……三十前のいい大人が、お腹をならすなんて」
嘆いていると、トレイを持った黒鷺がやって来た。
「作り置き用に多めに作っていたので、どうぞ」
お味噌汁と白ごはん。焼きたての豚の生姜焼きに、生野菜のピクルス。あと、肉じゃがまである。
私は思わず生唾を飲んだ。
「い、いいの? こんな、ご馳走を食べても」
「普通の料理ですよ」
「なに言っているの!? これだけ作るのは大変なのよ!」
「そうですか? 慣れもありますが……まあ、疲れている時に、これだけ作るのは面倒ですよね」
料理は同じ和食器で統一され、センスが光る。
「やっぱり、ここはカフェでしょ?」
「だから、違いますって。温かいうちに、どうぞ」
「じゃあ、お言葉に甘えて。いただきまぁーす」
豆腐とワカメのシンプルなお味噌汁。喉を通った味噌が体に溶け込んで癒される。
程よい焼き目がついた豚肉の生姜焼き。噛めば噛むほど、豚肉と生姜が効いたタレが口の中に広がる。
そこに付け合わせのピクルスを一口。
「んー! 美味しい!」
ピクルスの酸味が豚肉の脂をさっぱりと流す。もう、無限に食べられる。箸が止まらない。
「口に合ったのなら、良かったです」
次々と食べていく私を黒鷺が満足そうに眺める。
その視線に気が付いて、私は手を止めた。
「もしかして……これ、あなたの夕飯だった?」
「僕はもう食べましたので。これは、作り置き料理です。もう少ししたら、修羅場になるので」
「修羅場!? 愛憎劇!?」
私の発言に、黒鷺の視線が生温かくなる。いや、だってイケメンに愛憎劇はつきものでしょ?
黒鷺が呆れたように説明をする。
「ネームが出来たら、原稿が完成するまで漫画に集中します。なので、料理は極力時間をかけずにできるものを、下準備しておくんです」
「ネーム?」
「漫画の下書きです」
「へぇ」
「ですので、気にせずに食べてください」
「は、はい」
私は再び食べ始めた。
よく考えれば大学生の男子が作ってくれた料理に、がっつくアラサーって……
いや、考えたらダメ。考えたら負けよ……って、この白米。粒がたって艶があって、お米の味がして、最高。こんなに美味しいお米を食べたのは、久しぶりだわ。
私の思考は、あっさりと料理に占領された。
「ご馳走様でした」
美味しい物でお腹いっぱいになると、こんなにも満たされるのね。久しぶりの幸福感。満腹、満足。
「では、本題に入りましょうか」
「本題?」
「……ここには、ご飯を食べに来たんですか?」
「あ、お会計? いくら?」
黒鷺がジロリと睨む。ちょっと、お茶目をしただけなのに。くすん。
私は姿勢を直して黒鷺に訊ねた。
「でも、解決策ってあるの?」
「その論文の作者の名前は見ました?」
「えぇ。リク・アイロネーロ。イタリア人医師。世界でも有名な脳外科医でしょ? この論文を読んでから調べたけど」
「そうです。あと、リクは漢字で瑠璃の璃と空の空で璃空と書きます」
初耳すぎて目が丸くなった。
「え? そんな情報どこにもなかったけど。日本人なの?」
「正確にはイタリア人と日本人のハーフです」
「詳しいのね」
感心する私に黒鷺が話を続ける。
「で、イタリア語でアイロネは鷺。ネーロは黒」
「鷺……黒…………黒鷺!?」
「そう」
目の前にいる黒鷺と、偶然にも同じ名前…………偶然?
「親戚?」
黒鷺が吹き出すように笑った。なにがツボったのか、お腹を抱えている。
私は頬を膨らまして睨んだ。
「そこまで笑わなくても、いいじゃない。こっちは真剣なんだから」
「ですが、鈍すぎて……あ、僕の本名を言ってなかったか」
「黒鷺雨音じゃないの?」
「それはペンネームです。本名は、漢字で天の音と書いて天音・アイロネーロです」
「あぁ、それで黒鷺ってペンネームに……え? 同じファミリーネーム? やっぱり親戚?」
「親戚ではなく、父ですよ。父は英語が苦手なので、論文を書く時に手伝ったんです。だから、発表前の論文の内容を知っていて、漫画に取り入れることが出来た。というわけです」
あっけにとられた私は、すぐに言葉が出なかった。
(なに、その反則技!? でも……それって)
「じゃあ、この手術も……」
「父なら出来ますね」
私はテーブルを越えて、黒鷺に掴みかかった。
「それ、先に言いなさいよ! お父様はどこにいるの!? 直接、話をさせて!」
「また、それですか!?」
「直接、話して状態を説明する方が早いの!」
「待っ、ちょっ、離れてくださっ!」
静かな洋館に黒鷺の叫び声が響いた。
※※
それから、数週間。私は動きまわった。
あの後、すぐにリク医師と連絡をとり、事情を説明して協力を仰いだ。
すると、あっさり二つ返事をもらえた上に、数日後には日本に来るとか。これは、ラッキーだった。
次は職場の頭の固い上層部。
難癖つけて、外部の医師がメインで手術をすることを拒否する。理由は、問題が起きた時に面倒事になるから。大人の事情ってやつで、簡単には許可が下りない。
けど、今回は世界的にも有名な名医の手術。それを生で拝見できるなんて滅多にない。もちろん、手術を見学したい医師は多い。
私はそんな医師たちを巻き込み、最後は許可をもぎ取った。
そして、リク医師が来日する日。
私は病院の玄関で、そわそわしていた。タクシーが止まるたびに姿勢を正し、空振りに終わる。
「あ、ゆずりん先生!」
「こら、柚鈴先生でしょ。光輝くん、元気? 今日はどうしたの? 一人?」
「うん、元気! 今日は検査に来たんだ。お母さんは先に受付してる」
小学生の男の子が、名前負けしない輝きを振りまく。
長期入院していたが、やっと症状が安定して一ヶ月前に退院した。
「そう。学校は楽しい?」
「うん!」
「良かったね。ここは暑いから、早く中に入って」
「じゃあ、またね」
光輝が手を振り、自動ドアをくぐる。退院後にこういう姿を見られるのは嬉しい。
「元気そうで良かった」
「シィ、シィ。子どもは元気が一番ですネ」
独特の訛りがある低くて渋いイケボイス。
振り返ると、見知らぬイケオジが立っていた。
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