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信 長 (三)

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 ついに信長様を怒らせてしまった……と、覚悟を決めた。
 ところが老公はいきなり、ハッハッハと大声を発したのだ。これにはさすがの信長様もビクッと肩を震わせたようである。
 老公はゆっくりと、しかしながら声の高さはそのままで言い放った。

「……そこな太刀たち持ちの一刀、身共みどもにお渡しあれば、お手前様の首、瞬息のうちに斬り落としてみせましょうが、如何いかに!」

 すると、信長様は鼻でわらった。

「ふん、ほざきおるわっ!」

 ところがそれが合図だったのか、わたしたちを取り囲んだ侍衛たちは、そのままぐるりと向きを変えて板廊まで下っていった。
 信長様はころりと口調を変え、幼児をあやすような目をわたしに向けた。

「……亀っ、おまえは、奥平の家をつぶすつもりなのか」

 信長様の逆鱗げきりんにふれ、これまでどれだけの武将が、排斥され憎悪され消えていったのか、わたしですらよく知っている。
 けれどここでおくすることなどできない。

「……いまは、奥平の家とはなんら縁あるものではございませぬ」
「ふん、またまた、ほざきおるわっ。おまえのほうから、あの信昌めに、離縁してほしいと文を送ったこと、予の耳にも届いておるぞ!」

 なんでもよく知っている御方だと驚き、次のことばを失った。
 そのとき中庭から、ぽんと、なにかが跳んできて、ころころとわたしの前でとまった。
 蹴鞠けまりであった。

「これは、粗相そそうでおじゃる」

 庭で頓狂な場違いの声がした。
 指貫さしぬき穿き、狩衣かりぎぬをまとい立烏帽子たちえぼしをつけた今川氏真公が、腰を低くして信長様の前に平伏した。

「予は、そのほうを招いたおぼえはないぞ!」

 信長様が一喝しても、氏真公は動じずに、にこにこ笑っていた。
 なにゆえ氏真公が、この場にいるのか、わたしにも不思議でならなかった。

上様うえさまに、余興の者を献上つかまつろうとおもいましてな、庭に連れてまいりましたゆえ、なにとぞ、ご披見くだされたく」

 ちらりと中庭を振り返った。
 汚い身なりの男が二人いた。
 筒袖着をまくり、肩を出し、ふんどしまでもが見えた。頬かむりをしている。どこぞで会ったような気がした。
 アッと驚いた。
 ざわざわと諸侯にも動揺が伝染していった。信長様もようやく気づいて、ほうけたように笑った。
 一人は、わたしの夫、奥平信昌どの、もう一人はその父、すなわち舅の奥平貞能さまであった。

「そちは、奥平信昌だな!」

 信長様が叫んだ。

「はっ。まさしく、御前おんまえに!」
「信昌っ!きさま、予の一字を与えてやったというに、不甲斐ふがいない奴めが!亀に、離縁されたそうじゃな」
「はっ。まことに!それがし、女人を悦ばせるねやの技に不得手ふえてにて、ついには、お亀に愛想を尽かされました次第。まっこと、お恥ずかしきかぎりにてござそうろう

 どっと座がどよめいた。
 信昌どのがたすけに来てくれたのだと、わたしはおもった。
 ……これは茶屋四郎次郎どのの差し金かもしれない。それにしても満座の中で、体面にこだわるあの信昌どのが、おのれを道化者にするとは、さすがに信じられなかった。
 けれども、正直いえば嬉しかった。
 ほんとうに嬉しかった。
 今川氏真公は、相変わらず、とぼけたままだ。ようやくわたしは、氏真公という人の持つ底知れぬ孤独のようなものを感じ取ることができた。
 氏真公は、満座の中で笑われようとののしられようと、その対手あいてを認めていないから、平然としていられるのではないか。と、ふとおもった。つまりは、誰も信じることができず、認めていない対手がどう感じようが、おのれにはまったく関係ないのだろう。
 そんな気がした。
 どこか奥の部分で、氏真公は信長様に似ているところがある、そうおもえてきてならなかった。
 そしてあの翁狐、松永弾正どのとも、どこかで同じ脈をもっている同類のような気がしてきてならなかった……。
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