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疑 義 (五)

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 信昌どのと彦左からの返状はないままに、束の間のおだやかなときが過ぎていった。
 越後国御館城に籠城していた上杉景虎様が、ついに景勝様に滅ぼされた、という報せが届いたのは、三月二十八日のことであった。
 なんと武田勝頼公は、最初は景虎様に味方していたらしいが、おそらく真田昌幸どのに渡した金子がものをいい、勝頼公が景勝様側についたことも勝因となったらしい。
 ほどなく茶屋四郎次郎どのが立ち戻ってきた。

「優華様は、ご無事なのでしょうか」
「たぶん」

 素っ気無く云い放つと、四郎次郎どのはぷいと横を向いて、そのまま足早に通り過ぎようとした。呼び止めても、聴こえぬていで奥の執務館に籠もったまま、わたしを近づけようとはしなかった。
 不審に思い、茶屋衆の一人にたずねると、
「五人、斬られもうした!浅い傷だったが、味方に裏切られて皆怒っておりますぞ」
と、その者がためらいながらも教えてくれた

「……詳しくは茶屋様に、おたずねくだされませ。こちらはむちでしばかれるやら、腕や脚を斬られるやらで、散散な目にわされました……」

 誰もがわたしを避けるように駆け出すものだから、四郎次郎どのがわたしを無視している理由がなんとなくつかめてきた。
 嘉兵衛と笹が集めてきた個々の断片をつなぎ合わせると、景勝様側から優華様を譲り受けた四郎次郎どのは、そのまま馬で運び去ろうとしたらしいのだ。それを佐助と弥右衛門が制止しようとしていさかいになったそうである。死人はいないということなので、おそらくは弥右衛門が配慮して急所をはずした、というのがことの真相であった。佐助の鞭の技も、おそらくかなり手加減したのだろうとおもった。
 茶屋四郎次郎どのは優華様をそのまま安土へ連れていく腹づもりであったらしいので、立腹の理由はほぼ理解できた。
 しかも、弥右衛門も佐助も、もとはといえば四郎次郎どのが雇っていた茶屋衆であったにもかかわらず、いまではわたしのめいにしか従わなくなっていることにも腹を立てていたのだ。
 この二人を遣わせるとわたしが真田昌幸どのに伝えたとき、おそらく四郎次郎どのは内心ほくそ笑んでいたにちがいない。二人に金子さえくれてやれば、いいなりになると思い込んでいたのだろう。
 さらに嘉兵衛が探りを入れたところでは、上杉景勝様から別口で昌幸どのは金千両ほどをせしめたということであった。

「……真田昌幸というお方は、ほんに、ずるい、あくどい、と皆が口々に申しておりました。金をおのれの懐に入れて私服を肥やす、悪才にたけた不忠の輩だと、茶屋様ご家来衆は、えらい剣幕でございましたよ……その上に、真田様はさらに景勝様とはべつな密約も交わされたという噂でございます」
「密約?まさか。あの真田様は、上杉に寝返ろうとされておられるのですか?」
「いいえ、そうではなく、いまは上杉の手にある上野国沼田城を、ゆくゆくは武田に引き渡せ、といったようなことらしいですが、茶屋衆の方々には、それ以上のことは教えていただけませなんだ……上杉の家督争いに乗じ、沼田城でも景勝様方、景虎様方に分かれ骨肉の争いを繰り広げていたようでございますよ」

 嘉兵衛のおかげで、かなりの内容がつかめた。
 当主を失った家中の骨肉相食こつにくあいはむがごとき争いは、どちらが勝利をおさめたとしても目に見えないしこりを残すのだろう。悲惨で陰鬱なさまは、想像するだけでいやな気分にさせられる。真田昌幸どのに寄せられた茶屋衆の非難の矛先ほこさきが、このわたしに向けられているようであった。
 どうやら茶屋四郎次郎どのは、わたしと決別することを決めたらしい。
 顔を合わせようが喋りかけられようが、そこにいても居ないものとして扱う腹なのだろう。それはそれで構わないとおもった。茶屋衆からの詳しい報せが聴かれなくなるのは残念なことだけれども、四郎次郎どのにはかれなりの思惑があるのだろう。なにも皆が一様に同じ方向を向き、同じように思念するということが、もともと無理なことなのだ。それでも図々しくこのまま屋敷に居座ろうとしたのは、弥右衛門と佐助が辿り着くべき屋敷がなければいけないとおもったからで、そのうちにつなぎの者を寄越してくれるだろうと考えたからである。


 四月に入って、まだ大和国周辺では、反信長様の動きは終焉していないことを知った。
 茶屋四郎次郎どのは、畿内全域が完全に織田一色になったというような云い方をしていたけれど、摂津国有岡城にはいまだ荒木村重さまが健在で、もとより大勢たいせいは決していたとはいえ、どういうわけか信長様は一気にかれらを滅ぼそうとはしなかったらしい。

「……安土の天守閣が成りますと、それが信長様の畿内平定を象徴する出来事として、広く、長く、後世にまで語り継がれることになりましょう。さすれば、もはや京畿では、どこのどなたも信長様にあらがう気は起こしますまい」

 嘉兵衛はそんなことをつぶやいた。

「語り継がれる……」
「まさしく、さようでございます」

 このときわたしは、再びいつかのような想像の旅のなかにいた。
 語り継がれるべき物語。そうなのだ、なにも秘匿ひとくするべきものではないのだ。
 たとえば、詞葉の父、按二郎のことは誰も知らないけれど、詞葉にまつわる物語を数多くの人が聴けば、きっと按二郎のことにも思いを馳せてくれるひとが現れるにちがいない、とおもった。
 逝ってしまった芦名兵太郎のことも、足利義高様こと小太郎のことも、それぞれにまつわる個々の物語こそ、語り継がれるべきではないのか。
 わたしはおもった、安土の天守閣を披露する信長様の前で堂々と対決すれば、かりにこの生命を信長様に奪われようとも、人々はひそやかに、長く、この亀の物語を語り継いでくれるかもしれないと……。

 徳川家康の長女ではなく、また奥平信昌どのの室でなく、ただの〈亀〉という名の女人の物語を、誰かが語り継いでくれるにちがいない。
 ……信長様を対手あいてに、後の世に語り継がれるべき対決を為し得ることができたならば、徳川や奥平に累を及ぼすこともさほどないのではないか……。
 
「いかがいたされましたか?」

 身を乗り出して不思議そうにこちらを覗き込んでいた嘉兵衛が、詞葉から使いがきたと知らせてくれた。
 詞葉のふみには、安土に南蛮寺を建てることを信長様が許可したこと、オルガンチノという方の指示で、土地の検分と宿の手配などで詞葉が安土へ赴くことになったことなどが記されていた。
 それなら、嘉兵衛と笹を詞葉の供に加えてもらおうとおもった。二人を呼び事情を説明すると、
「はい、お店を出すのなら、安土がいいのではと相談していたところです」
と、二つ返事で承諾してくれた。
 まず笹たちに、安土に拠点を設けておいてもらおうと考えたのだ。
 神立衆、筒井衆、旧天満屋衆からも数人ずつ若者を選び、同行してもらうことにした。
 詞葉の文には、芦名小太郎、いまは南光坊天誉さまの居所も記してあった。

〈……洛西の柊庵しゅうあんに逗留されておられるようです〉

 この嬉しい報せに驚喜したわたしは、急ぎ巣鴨に旅支度をするようにと告げた。
 
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