42 / 66
暗 躍 (四)
しおりを挟む
「……じつは、亀さまにお伝えしておかねばならないことがございます」
ふたりきりのとき、急に低声になった詞葉が、真剣なまなざしをこちらに向けた。
「……小太郎様の素性、もう御耳にお入れいたしてもさしつかえないと存じます。どうか、驚かずに、お聴きください。……小太郎様の母君は、すでにお亡くなりあそばした藤原の氏の長者、近衛植家さまの姫君で、前関白、近衛前久さまの妹御にあたられます……そして、父君は、十三代将軍、亡き足利義輝公でございます……」
そう聴いても意味がまったく伝わらなかった。再度、たずねた。さまざまな人の名だけが頭裡で錯綜した。
「しょ、将軍様のお子……」
「はい。まことの名は、足利義高さま。小太郎というのはご幼名なのです」
「な、なんと……足利の御曹司でございましたか!」
義輝公は十三代将軍で、十五代義昭公の兄にあたる方だ。十一年前の永禄八年に、かの翁狐、松永弾正さまらに攻められてご自害されている。義輝公の正室は、近衛植家という方の娘で、近衛前久さまの妹にあたるので、近衛前久さまは、小太郎からみれば伯父というわけだった。
なかなかに、血のつながりというのは、わかりにくい。新城の城で、笹たちが噂していた《近衛卿のご落胤……》というのは、事実ではなかったにせよ、それほどかけ離れている内容でもなかったわけだ。
噂というのは、ほんとうに怖ろしいものだ。
義輝公は剣豪将軍ともいわれた。
剣聖と謳われた上泉伊勢守に剣の教えを受け、塚原卜伝という御方から奥義を伝授されたらしいということも、巷の噂になっていた。
どうやら、こういうことらしい、小太郎の正体は、早くから信長様の耳に入っていたらしかったが、義輝公落胤と聴いても、ただ、《ふん、で、あるか!》と、言い捨てただけであったそうである。そんなことまで詞葉は教えてくれた。
……小太郎の正体を知れば、なるほどと頷けることが多々あった。
これまでの不可解な部分が、ある程度、顕わになってきた。
翁狐の城での警護の者たちの会話の核心は、あるいは明国から逃れてきた皇女と将軍家血縁の小太郎を娶せ、十六代将軍に推戴するということではなかったろうか。
翁狐が描いた謀略の大本は、小太郎という個人の持つ秘められた過去にあったのだ。
夫の信昌どのが、自分に子種なきときは、小太郎の子を孕むべし、と云った意味も、ようやく呑み込めてきた。
このあたり、なかなかどうして、信昌どのには、したたかなところもある。義輝公の血をもって、奥平家の礎にする腹づもりであったのかもしれない。
もっとも、この戦国乱世では、なにがしかのしたたかさがなければ、勝ち抜いていくことはできない。
「……でも、どうして小太郎、いや、小太郎様は、新城に居候のように居着いていたのですか?」
「それは奥山休賀斎様の御提案でした。兵太郎様が、一時預かってくださるように休賀斎様に依頼したのです……」
「え? 老公が? なにゆえ……」
なにがなにやら、頭裡のなかをつむじ風のような流れがぐるぐると舞っているような感覚にとらわれた。
なんとまああの老公は、端から共謀者であったのだ。狸爺めと、口汚く罵りたいおもいにかられた。
「……休賀斎様は、小太郎様の父君、義輝公とは、剣をつうじた御同門でございますから。上泉伊勢守という師匠の弟子同士でしたので、その縁で、小太郎様の将来を案じておられたのでは……」
詞葉が言った。あっ、とわたしは思い至った。なるほど、あの老公にもそういう物語があったのだ。
気の毒そうに詞葉が弁解するのを、他人事のように眺めていた。なるほど、そうであるならば、これまで靄がかかっていたことにも得心がいく。政争の具にならないように小太郎は新城の山奥に身を潜めていたのに、おそらくは信長様の密偵がそれを嗅ぎ付け、父家康も大慌てしたのかもしれない。
まさかおのが娘婿が、足利将軍家の御曹司と懇意にしているとあっては、信長様に申し開きがつかないからだろう。
かの服部半蔵さまが、小太郎が出家することをわが事のように喜んでいた理由にも納得がいった。それぞれがそれぞれに小太郎の存在を疎ましく、あるいは腫れ物に触るかのように傍観し、ときに介入し、ときに抹殺まで企んでいたのかもしれない。
かつて熊蔵が、新城は魔の巣窟といったようなことを吐露していたのを思い出した。
小太郎に再会することがあったならば、当人をうんと苛めてやろうとおもった。
ふたりきりのとき、急に低声になった詞葉が、真剣なまなざしをこちらに向けた。
「……小太郎様の素性、もう御耳にお入れいたしてもさしつかえないと存じます。どうか、驚かずに、お聴きください。……小太郎様の母君は、すでにお亡くなりあそばした藤原の氏の長者、近衛植家さまの姫君で、前関白、近衛前久さまの妹御にあたられます……そして、父君は、十三代将軍、亡き足利義輝公でございます……」
そう聴いても意味がまったく伝わらなかった。再度、たずねた。さまざまな人の名だけが頭裡で錯綜した。
「しょ、将軍様のお子……」
「はい。まことの名は、足利義高さま。小太郎というのはご幼名なのです」
「な、なんと……足利の御曹司でございましたか!」
義輝公は十三代将軍で、十五代義昭公の兄にあたる方だ。十一年前の永禄八年に、かの翁狐、松永弾正さまらに攻められてご自害されている。義輝公の正室は、近衛植家という方の娘で、近衛前久さまの妹にあたるので、近衛前久さまは、小太郎からみれば伯父というわけだった。
なかなかに、血のつながりというのは、わかりにくい。新城の城で、笹たちが噂していた《近衛卿のご落胤……》というのは、事実ではなかったにせよ、それほどかけ離れている内容でもなかったわけだ。
噂というのは、ほんとうに怖ろしいものだ。
義輝公は剣豪将軍ともいわれた。
剣聖と謳われた上泉伊勢守に剣の教えを受け、塚原卜伝という御方から奥義を伝授されたらしいということも、巷の噂になっていた。
どうやら、こういうことらしい、小太郎の正体は、早くから信長様の耳に入っていたらしかったが、義輝公落胤と聴いても、ただ、《ふん、で、あるか!》と、言い捨てただけであったそうである。そんなことまで詞葉は教えてくれた。
……小太郎の正体を知れば、なるほどと頷けることが多々あった。
これまでの不可解な部分が、ある程度、顕わになってきた。
翁狐の城での警護の者たちの会話の核心は、あるいは明国から逃れてきた皇女と将軍家血縁の小太郎を娶せ、十六代将軍に推戴するということではなかったろうか。
翁狐が描いた謀略の大本は、小太郎という個人の持つ秘められた過去にあったのだ。
夫の信昌どのが、自分に子種なきときは、小太郎の子を孕むべし、と云った意味も、ようやく呑み込めてきた。
このあたり、なかなかどうして、信昌どのには、したたかなところもある。義輝公の血をもって、奥平家の礎にする腹づもりであったのかもしれない。
もっとも、この戦国乱世では、なにがしかのしたたかさがなければ、勝ち抜いていくことはできない。
「……でも、どうして小太郎、いや、小太郎様は、新城に居候のように居着いていたのですか?」
「それは奥山休賀斎様の御提案でした。兵太郎様が、一時預かってくださるように休賀斎様に依頼したのです……」
「え? 老公が? なにゆえ……」
なにがなにやら、頭裡のなかをつむじ風のような流れがぐるぐると舞っているような感覚にとらわれた。
なんとまああの老公は、端から共謀者であったのだ。狸爺めと、口汚く罵りたいおもいにかられた。
「……休賀斎様は、小太郎様の父君、義輝公とは、剣をつうじた御同門でございますから。上泉伊勢守という師匠の弟子同士でしたので、その縁で、小太郎様の将来を案じておられたのでは……」
詞葉が言った。あっ、とわたしは思い至った。なるほど、あの老公にもそういう物語があったのだ。
気の毒そうに詞葉が弁解するのを、他人事のように眺めていた。なるほど、そうであるならば、これまで靄がかかっていたことにも得心がいく。政争の具にならないように小太郎は新城の山奥に身を潜めていたのに、おそらくは信長様の密偵がそれを嗅ぎ付け、父家康も大慌てしたのかもしれない。
まさかおのが娘婿が、足利将軍家の御曹司と懇意にしているとあっては、信長様に申し開きがつかないからだろう。
かの服部半蔵さまが、小太郎が出家することをわが事のように喜んでいた理由にも納得がいった。それぞれがそれぞれに小太郎の存在を疎ましく、あるいは腫れ物に触るかのように傍観し、ときに介入し、ときに抹殺まで企んでいたのかもしれない。
かつて熊蔵が、新城は魔の巣窟といったようなことを吐露していたのを思い出した。
小太郎に再会することがあったならば、当人をうんと苛めてやろうとおもった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
明治仕舞屋顛末記
祐*
歴史・時代
大政奉還から十余年。年号が明治に変わってしばらく過ぎて、人々の移ろいとともに、動乱の傷跡まで忘れられようとしていた。
東京府と名を変えた江戸の片隅に、騒動を求めて動乱に留まる輩の吹き溜まり、寄場長屋が在る。
そこで、『仕舞屋』と呼ばれる裏稼業を営む一人の青年がいた。
彼の名は、手島隆二。またの名を、《鬼手》の隆二。
金払いさえ良ければ、鬼神のごとき強さで何にでも『仕舞』をつけてきた仕舞屋《鬼手》の元に舞い込んだ、やくざ者からの依頼。
破格の報酬に胸躍らせたのも束の間、調べを進めるにしたがって、その背景には旧時代の因縁が絡み合い、出会った志士《影虎》とともに、やがて《鬼手》は、己の過去に向き合いながら、新時代に生きる道を切り開いていく。
*明治初期、史実・実在した歴史上の人物を交えて描かれる 創 作 時代小説です
*登場する実在の人物、出来事などは、筆者の見解や解釈も交えており、フィクションとしてお楽しみください
『潮が満ちたら、会いに行く』
古代の誇大妄想家
歴史・時代
4000年前の縄文時代の日本、筋ジストロフィーに罹った少年と、同い年の主人公とその周りの人たちを描いた作品です。
北海道入江・高砂貝塚で発見された遺骨を元に、書きました。
何故、筋ジストロフィーに罹った彼は、生きる事を選んだのか。周りの人たちや主人公が身体的に発達していくのにもかかわらず、絶望せず、生き抜いたのか。
そして、村の人たちは何故、彼を村の一員として埋葬したのか。
歴史・病気・心理・哲学的思考を元に考えた、私の古代の誇大妄想です。
ですが、少しでも事実が含まれていたらうれしい。そんな物語です。
清朝の姫君:『川島芳子』は、ハッピーエンドです
あさのりんご
歴史・時代
🙇♂️時は、大正そして昭和。【男装の麗人】のモデルとなった芳子は、満州で安国軍の総司令として、勇敢に戦います。やがて、日本は敗戦。芳子は、中国で銃殺刑に💦ところが👍2009年頃、【川島芳子生存説】が浮上。当時の中国主席、温家宝は生存説を否定しませんでした。様々な本を読むうちに、確信したのです。★☆★彼が、芳子を獄中から救い出した★☆★と。🍀リアリティを追及した時代背景と共に、甘くほろ苦いラブストーリーを展開します💖※<エピソード>は、一話完結です。スキップしても、一話のみでもお楽しみいただけます🥰
直刀の誓い――戦国唐人軍記(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)
牛馬走
歴史・時代
(時代小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品)倭寇が明の女性(にょしょう)を犯した末に生まれた子供たちが存在した……
彼らは家族や集落の子供たちから虐(しいた)げられる辛い暮らしを送っていた。だが、兵法者の師を得たことで彼らの運命は変わる――悪童を蹴散らし、大人さえも恐れないようになる。
そして、師の疾走と漂流してきた倭寇との出会いなどを経て、彼らは日の本を目指すことを決める。武の極みを目指す、直刀(チータオ)の誓いのもと。
令和ちゃんと平成くん~新たな時代、創りあげます~
阿弥陀乃トンマージ
歴史・時代
どこかにあるという、摩訶不思議な場所『時代管理局』。公的機関なのか私的組織なのかは全く不明なのだが、その場所ではその名の通り、時代の管理に関する様々な業務を行っている。
そんな管理局に新顔が現れる。ほどよい緊張と確かな自信をみなぎらせ、『管理局現代課』の部屋のドアをノックする……。
これは時代管理局に務める責任感の強い後輩『令和』とどこか間の抜けた先輩『平成』がバディを組み、様々な時代を巡ることによって、時代というものを見つめ直し、新たな時代を創りあげていくストーリーである。
零式輸送機、満州の空を飛ぶ。
ゆみすけ
歴史・時代
ダクラスDC-3輸送機を米国からライセンスを買って製造した大日本帝国。 ソ連の侵攻を防ぐ防壁として建国した満州国。 しかし、南はシナの軍閥が・・・ソ連の脅威は深まるばかりだ。 開拓村も馬賊に襲われて・・・東北出身の開拓団は風前の灯だった・・・
【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。
彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。
入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。
ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。
※2023.9.21 編集しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる