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急 転 (三)
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氏真公の供は少なかった。
武士が数人、あとは荷物足軽たちだけで、女人の姿もなかった。どう返辞していいかわからず、もじもじとしていると、それでも一方的に、氏真公は次から次へと諸国の噺をしだした。
名品や召し物の話題が多かったようにおもう。粗食に慣れているわたしには、ご馳走のことなどにはさほど興味は沸かなかった。ふいに声高になったかとおもうと、たちまち低い呟きのような抑揚になる。なにか喋り続けることで、自分がここにいることを必死で告げようとしているかのようだった。
わたしは氏真公のことをなんと称べばいいかわからず、〈駿府のお館さま〉と呼びかけた。
「はて、おやかた、とは、なんとも、皮肉な云いざまよ。国を追われ、領地を失った身には、安住の草庵とてなきありさまよ」
そのことばに、つい言い淀んでしまい、わたしは首を垂れた。
「いや、よい。かつては、そのようによばれていたこともあったからのう。なんとでも好きにするがいいぞ」
なぜかはにかみながら、氏真公は力弱く笑った。
「お館さまは、これからどちらに?」
「伊勢の鈴鹿、亀山を通り、草津に抜け、山科、京へとのぼるつもりじゃ」
「京の都は、まだこの目で観たことはない!」
わたしは羨ましさのあまり、思わず吐息を洩らしてしまった。それを見咎めて氏真公は、いかにも公卿ふうといった態で、クスクスッと小さな音を立てて笑った。この前のわたしの旅は、ほとんどが船旅だったもので、京を素通りしてしまった。あのときは、一刻も早く、新城に戻りたいと願っていたのだし、京まで足をのばす余裕などなかったのだ。
「お亀よ!そちも予とともに、京へのぼるのだぞ」
「それは、どういう意味でございまするか」
「意味も、なにもない、家康どののご指示じゃよ。お亀を、京にともなえ、とな。嘘ではないぞ。ここに徳川重臣の平岩からの書状もある。それに、浜松にまいっておった嘉兵衛とか申す商人も、じきにこの新城までもどってくるであろう。その者からも聴くがいい」
狐につままれたような気がして、返すことばもなかった。目の前の氏真公が、冥界から遣わされたあの翁狐の使者のようにすらおもえてきた。
これは陰謀ではないのか、何度もそう疑った。
「じきだ。じきにわかるゆえ、そう驚かずともよいではないか。家康どのは、なにやら、明国から逃れてきた皇女がどうやらこうやらと、ぶつぶつ呟いておられたわ……」
意味ありげに言を濁した氏真公は、うろたえるわたしのさまを眺めて愉しんでいるようだった。そんなわたしよりも驚き、慄いたのは、夫のほうであった。事の次第を告げたとき、信昌どのは歯をかち鳴らして喚いた。
「なにゆえに、あの氏真どののについていかねばならんのだ!」
わたしもそうおもう。
けれど、氏真公が差し出した書状は、あきらかに平岩親吉さまの手跡にちがいなかった。それには、《氏真どのに従い京に上られよ》と、記されていた。
夜になって、嘉兵衛が姿を現し、かれのとなりに佇んでいた人物を見たとき、ようやくこれが氏真公の陰謀ではないことがわかった。
「……殿さんより、亀姫様の護衛を仰せつかりました」
目をしばたき、わたしは服部半蔵さまの貌を喰い入るように眺めた。
小太郎の一件があって、わたしは知らずのうちに鋭い一瞥を対手に投げかけていたのだろう。ぎょろりとした半蔵さまの瞳が微かに慄いていた。
武士が数人、あとは荷物足軽たちだけで、女人の姿もなかった。どう返辞していいかわからず、もじもじとしていると、それでも一方的に、氏真公は次から次へと諸国の噺をしだした。
名品や召し物の話題が多かったようにおもう。粗食に慣れているわたしには、ご馳走のことなどにはさほど興味は沸かなかった。ふいに声高になったかとおもうと、たちまち低い呟きのような抑揚になる。なにか喋り続けることで、自分がここにいることを必死で告げようとしているかのようだった。
わたしは氏真公のことをなんと称べばいいかわからず、〈駿府のお館さま〉と呼びかけた。
「はて、おやかた、とは、なんとも、皮肉な云いざまよ。国を追われ、領地を失った身には、安住の草庵とてなきありさまよ」
そのことばに、つい言い淀んでしまい、わたしは首を垂れた。
「いや、よい。かつては、そのようによばれていたこともあったからのう。なんとでも好きにするがいいぞ」
なぜかはにかみながら、氏真公は力弱く笑った。
「お館さまは、これからどちらに?」
「伊勢の鈴鹿、亀山を通り、草津に抜け、山科、京へとのぼるつもりじゃ」
「京の都は、まだこの目で観たことはない!」
わたしは羨ましさのあまり、思わず吐息を洩らしてしまった。それを見咎めて氏真公は、いかにも公卿ふうといった態で、クスクスッと小さな音を立てて笑った。この前のわたしの旅は、ほとんどが船旅だったもので、京を素通りしてしまった。あのときは、一刻も早く、新城に戻りたいと願っていたのだし、京まで足をのばす余裕などなかったのだ。
「お亀よ!そちも予とともに、京へのぼるのだぞ」
「それは、どういう意味でございまするか」
「意味も、なにもない、家康どののご指示じゃよ。お亀を、京にともなえ、とな。嘘ではないぞ。ここに徳川重臣の平岩からの書状もある。それに、浜松にまいっておった嘉兵衛とか申す商人も、じきにこの新城までもどってくるであろう。その者からも聴くがいい」
狐につままれたような気がして、返すことばもなかった。目の前の氏真公が、冥界から遣わされたあの翁狐の使者のようにすらおもえてきた。
これは陰謀ではないのか、何度もそう疑った。
「じきだ。じきにわかるゆえ、そう驚かずともよいではないか。家康どのは、なにやら、明国から逃れてきた皇女がどうやらこうやらと、ぶつぶつ呟いておられたわ……」
意味ありげに言を濁した氏真公は、うろたえるわたしのさまを眺めて愉しんでいるようだった。そんなわたしよりも驚き、慄いたのは、夫のほうであった。事の次第を告げたとき、信昌どのは歯をかち鳴らして喚いた。
「なにゆえに、あの氏真どののについていかねばならんのだ!」
わたしもそうおもう。
けれど、氏真公が差し出した書状は、あきらかに平岩親吉さまの手跡にちがいなかった。それには、《氏真どのに従い京に上られよ》と、記されていた。
夜になって、嘉兵衛が姿を現し、かれのとなりに佇んでいた人物を見たとき、ようやくこれが氏真公の陰謀ではないことがわかった。
「……殿さんより、亀姫様の護衛を仰せつかりました」
目をしばたき、わたしは服部半蔵さまの貌を喰い入るように眺めた。
小太郎の一件があって、わたしは知らずのうちに鋭い一瞥を対手に投げかけていたのだろう。ぎょろりとした半蔵さまの瞳が微かに慄いていた。
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