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翁 狐 (五)
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咳が止まらなくなったわたしの背に手を当てて、耳元で
「いましばしのご辛抱を!」
と、詞葉が囁いた。思わず返答しかけたとき、大きな声をあげたのは相手のほうだった。
「これはとんだ粗相をいたしました、おゆるしくださいまし」
わたしの声を遮った詞葉は、あえて翁狐に聴こえる声で言った。こちらの動揺を翁狐に悟らせないためであったろうか。
畳を拭くしぐさをしてから、詞葉がわたしを窺いみたので、唇を二度ばかりくいしばってみせた。互いの合図のようなものだった。
詞葉が去ると、わたしは無表情に戻った。
茶の湯の作法は知らない。
茶の世界というものを管掌しているのは、殿方の特権であって、本来、女人は茶室に立ち入ることはできないのだ。
だから作法を知らなくても恥じ入ることはないし、まして、大陸の皇女に扮しているわたしは、ただそこに座っていてさえすればよかった。
「……明の姫子よ!ことばは解せずともよい、茶を点てて進ぜようぞ」
こちらを値踏みするかのように、翁狐がぼそりと言った。緊張をほぐそうとしてくれているのか、それとも、わたしの扮装を疑っているのか、杳としてわからない。このとき翁狐が放っていたのは、妖気ではなく、好々爺のような罪のない優しさに充ちていたような気さえしてきた。
いやそれも、翁狐の妖気のなせるわざなのかも知れない。
「……遠からず、必ずや姫の夫となる高貴な御仁が、我も我もと争って名乗り出てこようほどにの」
そんなことまで翁狐は言った。
やはり警護の武士たちの雑談のなかに出てきた、わたしの、いや皇女と有力な大名の子息と婚姻させるという計略は、翁狐から出ているようだった。
すると、高山右近さまが、不審げにつぶやいた。
「はて……皇女は甲斐の武田家へ遣わすのでは?武藤喜兵衛どのとやらが、気勢をあげておられたようですが……」
すかさず翁狐が、ふふんと鼻で笑った。
「いやいや、誰ぞ麗しき女人を、秀華姫に仕立てあげ、武田にくれてやればすむこと」
そんなことを平然と翁狐は言う。これには右近さまも驚いたようで、左肩をずらして翁狐のほうを向いた。
「ま、まさか、織田様をも、同じように騙そうとしておられるのではごさいませぬのか!」
これには答えず、翁狐は、口許に笑みをたたえたまま、じっと右近さまを見つめ返した。忖度せよと言っているのだろうか。
「弾正様、わが主、荒木村重までも騙そうとされておられるのではありますまいな」
やや語調を強めて右近さまが問うと、茶杓を置いた手を握ったり伸ばしたりしながら、翁狐がこちらに顔を向けた。
「……いやいや、荒木どのは、反織田連合の京畿の要ゆえ、そのような懸念は無用と申すものじゃよ。のう、右近どのは、たしか、齢、二十五であられたの。六十七歳のわしからみれば、可愛くてたまらんのじゃ。右近どのが、二十年早く産まれておらば、この弾正とともに、とうに天下を盗めたかもしれぬの」
翁狐の述懐には、高山右近さまの若さに対する妬みが含まれていたのではなかったか。
「それにしても、右近どのは、いま、微妙な立ち位置におられる……、吉利支丹武将として、おのれの信仰と、主への忠誠……、はてさて、信仰をとるか、この現実の主をとるか……難しい選択を迫られらやも知れぬの」
この翁狐の一声に、右近さまは大きなため息を洩らすのみだった。
わたしには、吉利支丹の教えのことはわからない。
ただ、父家康が、〈南無阿弥陀仏〉の六文字を、一心に写経している姿を何度も見かけたことがある。父がなにかにすがる気持ちがあるとするならば、それは、信じようとするおのれの姿そのものであったのではなかったか。ふと、そんなことをおもった。
「いましばしのご辛抱を!」
と、詞葉が囁いた。思わず返答しかけたとき、大きな声をあげたのは相手のほうだった。
「これはとんだ粗相をいたしました、おゆるしくださいまし」
わたしの声を遮った詞葉は、あえて翁狐に聴こえる声で言った。こちらの動揺を翁狐に悟らせないためであったろうか。
畳を拭くしぐさをしてから、詞葉がわたしを窺いみたので、唇を二度ばかりくいしばってみせた。互いの合図のようなものだった。
詞葉が去ると、わたしは無表情に戻った。
茶の湯の作法は知らない。
茶の世界というものを管掌しているのは、殿方の特権であって、本来、女人は茶室に立ち入ることはできないのだ。
だから作法を知らなくても恥じ入ることはないし、まして、大陸の皇女に扮しているわたしは、ただそこに座っていてさえすればよかった。
「……明の姫子よ!ことばは解せずともよい、茶を点てて進ぜようぞ」
こちらを値踏みするかのように、翁狐がぼそりと言った。緊張をほぐそうとしてくれているのか、それとも、わたしの扮装を疑っているのか、杳としてわからない。このとき翁狐が放っていたのは、妖気ではなく、好々爺のような罪のない優しさに充ちていたような気さえしてきた。
いやそれも、翁狐の妖気のなせるわざなのかも知れない。
「……遠からず、必ずや姫の夫となる高貴な御仁が、我も我もと争って名乗り出てこようほどにの」
そんなことまで翁狐は言った。
やはり警護の武士たちの雑談のなかに出てきた、わたしの、いや皇女と有力な大名の子息と婚姻させるという計略は、翁狐から出ているようだった。
すると、高山右近さまが、不審げにつぶやいた。
「はて……皇女は甲斐の武田家へ遣わすのでは?武藤喜兵衛どのとやらが、気勢をあげておられたようですが……」
すかさず翁狐が、ふふんと鼻で笑った。
「いやいや、誰ぞ麗しき女人を、秀華姫に仕立てあげ、武田にくれてやればすむこと」
そんなことを平然と翁狐は言う。これには右近さまも驚いたようで、左肩をずらして翁狐のほうを向いた。
「ま、まさか、織田様をも、同じように騙そうとしておられるのではごさいませぬのか!」
これには答えず、翁狐は、口許に笑みをたたえたまま、じっと右近さまを見つめ返した。忖度せよと言っているのだろうか。
「弾正様、わが主、荒木村重までも騙そうとされておられるのではありますまいな」
やや語調を強めて右近さまが問うと、茶杓を置いた手を握ったり伸ばしたりしながら、翁狐がこちらに顔を向けた。
「……いやいや、荒木どのは、反織田連合の京畿の要ゆえ、そのような懸念は無用と申すものじゃよ。のう、右近どのは、たしか、齢、二十五であられたの。六十七歳のわしからみれば、可愛くてたまらんのじゃ。右近どのが、二十年早く産まれておらば、この弾正とともに、とうに天下を盗めたかもしれぬの」
翁狐の述懐には、高山右近さまの若さに対する妬みが含まれていたのではなかったか。
「それにしても、右近どのは、いま、微妙な立ち位置におられる……、吉利支丹武将として、おのれの信仰と、主への忠誠……、はてさて、信仰をとるか、この現実の主をとるか……難しい選択を迫られらやも知れぬの」
この翁狐の一声に、右近さまは大きなため息を洩らすのみだった。
わたしには、吉利支丹の教えのことはわからない。
ただ、父家康が、〈南無阿弥陀仏〉の六文字を、一心に写経している姿を何度も見かけたことがある。父がなにかにすがる気持ちがあるとするならば、それは、信じようとするおのれの姿そのものであったのではなかったか。ふと、そんなことをおもった。
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