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虚 実 (三)

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 小雨がぱらついていた。まだ夜は明けない。おそらくこの雨には、多分に不審の色が含まれているにちがいなかった。
 わたしのなかにも、虚と実の雨が降り続いている……。
 一体、なにが本当の事で、そうではない事とはどういう形で関り合い、溶け合いながら、無垢むくなる者らの前に立ちはだかり、束の間の平穏と調和を乱そうとするのだろうか。そんなことばかり考えていた。
 
 数日の間、蒲団ふとんから抜け出せないでいた。
 起き上がろうとすればするほど、からだのあちらこちらが痛み出すのだ。いいや、痛みを感じていると思い込んでいるせいかもしれない。
 襲撃の恐ろしさと死闘の凄さのなかで、わたしはなにも為すことができず、無邪気な傍観者を決め込んでいた。
 そんなおのれの姿が恥ずかしくてたまらない。
 さらにまた、こうして後付あとづけの理由ばかり考えている姿もまた、もう一人のおのれというものが天井の上から眺め返しているような気がしてきて、なかなかに気鬱きうつが晴れないでいた。
 あの襲撃者たちは、芦名小太郎を狙っていたのだろうか。
 それとも、このわたしを、この奥平の城を、混乱させ戸惑わせるのが目的だったのか。
 まさかあの大久保彦左衛門の命をつけ狙う者がいたとはおもわれない。

 ……それに小太郎が“姉上”と呼んだ異国の女人は、何をするために新城にやってきたのだろう。小太郎も異国人の血を受け継いでいるということなのだろうか。とするなれば、夫信昌どのも、このことを知っていたということなのか……。謎は深まるばかりで、そして“敵”のかたち茫洋ぼうようとしたままであった。


 床から離れて外に出られるようになった頃には、笹が異国の女人の情報をもたらしてくれた。小太郎が姉上と囁いた異国女の名は詞葉しよう、父親は日本人だそうである。
 小太郎を矢からかばったとき、肩と脇腹にかなりの深手を負っていたらしかった。

「……小太郎様が終日付き添って看病しておりますよ。あの様子をみるかぎり、ただの配下の者ではありませぬなあ、許婚いいなづけのごときものでは……」

 さすがに笹は詮索好きというだけでなく、人と人との関り合いを見抜く鋭い観察眼を持っている。けれど、小太郎のつぶやきは笹の耳にも入れていない。直接、小太郎に問いただすべきだとおもったからだ。
 急報に馳せ参じてくれた休賀斎の老公が、すべてを差配し曲者くせものどもの詮議せんぎにあたっているとのことであった。
敵の正体もさることながら、助勢して小太郎や彦左を護ってくれた者は、小太郎配下の者だけではない、というのがわたしの直観だった。
 そのことは老公に聴けば判明するだろう。

「……ご老公も、姫さまがお元気になられ次第、談議したいことが山ほどあると申されておられました。あっ、曲者の中には、どうやら、岡崎から来た者もいたようですよ。徒党を組まず、たった一人でした。名は、熊蔵くまぞう、姫さまの家来にしてもらうために来たのだとほざいているようです」

 岡崎といえば、あるいは熊蔵は兄信康の家来衆なのかもしれない。そのことを口にすると、笹は言下に否定した。

「いやいや、それはないでしょう……牢屋に飯と水を運んだとき、ちらりと様子を窺いましたが、あんな薄汚い身なり……、最初の頃の彦左衛門どのの方がよっぽどましという有り様でしたもの」

 おやっと不審におもったのは、あれほど忌み嫌っていた彦左のことを、笹は敬称までつけて持ち上げているようにみえた。
 これはどうしたことだろう。
 思い当たることがあるとすれば、やはり、あの乱闘の中で彦左なりに丈夫ますらおらしく戦った姿が、彦左への評価を一変させたのかもしれない。このわたしも同様に、人に対する見方というものは、ある出来事を共有することで瞬時に変わることもあるのだと気づかされた。
 まことに人の好悪の感情というものは不可解なものだ。
 わたしの家来になりたいと騒いでいるらしい熊蔵という男をみてやろうと、わたしは笹を伴って庭に出た。
 出会いがしらに休賀斎の老公が、
「伺おうとおもっていたところでござった」
と、深刻なまなざしを向けてきた。
 気をかせた笹が、老公を座敷にまねいて、わたしも続いた。

「……ようやく、敵の正体の一部が見えてきたところじゃよ」

 一部とはどういうことだろう。腕組みをしたまま老公は訥々とつとつと語り出した。

「……なんとも面妖なことに、何年も前から、この新城の里村に潜んでいたらしい。ある者は田畑を耕し、ある者は城のまかないい方として雇われ、あろうことか、足軽、鉄砲方としてもぐり込んでいた者まであった……その主力は、大賀弥四郎の残党どもだ……」

 幾年もかけて、里人の周りに溶け込み、友をつくり、ときにはもなし、近在の里人とも親しく交わり、あたかも草木のごとく地に根付いての潜入とは、もう思念の及ぶところではない。
 なんという執念深さ、なんという周到なる計画。急拵きゅうごしらえの衝撃ではなく、じっと息を潜めて機会を窺っていたのだ。そら恐ろしさに体がすくんだ。

「……ひとの怒りや怨みは、ほかの感情をおし包み、おし隠すものじゃ。……楽しみ、嬉しさ、人への思慕、神仏への恐れよりも上位に位置させることで、おのれの目的それ自体を正当化させていく……いわば、相手を敵と思うことで、おのれの生きる意味を見い出していくのじゃよ。なんとも哀しいことだがの」

 ため息混じりの老公の述懐には共鳴できた。それが乱世の運命さだめというのならば、ただじっと耐え、我慢を重ねて嵐が去るのを待つのは嫌だ。
 わたしは、このとき、これまでのような無邪気な傍観者のままでいるのは止めようとおもった。もっとおのれのほうから進んで世の中というものに関わり、世の中の動きを見据え、世の中を変えていく“亀”でありたいと強くおもった。たとえ歩みは遅くとも、そうなりたいと身悶えするほどに固く誓った。

「……うれうべきは、大賀弥四郎の残党どもだけではないことじゃ。やつらがこの里村に棲み出した頃、反織田の京畿の武将の配下が、やたらとうろついていたようだ。あるいは手を組み、利用し、利用しあっていたのかもしれん」

 迂闊うかつであった、と老公はいかにも悔しげにうめいた。
 退出しかけた老公を呼びとめ、異国女人〈詞葉〉のことを訊ねた。

「おお、忘れておった、かの者は、海賊……いや、水軍芦名衆に属しておる……首魁しゅかいは、芦名兵太郎へいたろう!」

 芦名、という姓ならば、やはり芦名小太郎の親族ということなのだろうか。

「……さあ、それは小太郎当人に確かめなさるのがよろしかろうて」

 急にそわそわと言葉をはぐらかしたまま去っていく老公は、すべてを吐露していないことは明白であった。
 なにやらこの老公にすら隠し事があると感じて、ますます人というもののあまりの複雑なありように思わず息が詰まりかけた。
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