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慈 雨 (ニ)
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信長様のご息女徳姫さまと兄との婚儀が整ったとき、わたしはどんな心持ちでその報せを受け止めただろうか。
いまだにはっきりとは思い出せずにいる。
嫉妬に似た感情が湧かなかったといえば、嘘になる。けれど、むしろ兄の前途洋々たるさまに称揚の声を挙げたことだけは記憶に新しい。
(……ようやく兄にも、陽のあたる登り坂を歩む機会が訪れた……)
そのことを我が身のごとく慶び、はしゃいだはずである。
ちなみに兄は、九歳で元服し、信長様から〈信〉の一字を与えられていた。父家康の〈康〉字を併せ〈信康〉と名乗るようになっていた。
どうやらこの新たな名は、兄はそれほど好きにはなれなかったようだ。その心根が痛いほど察せられただけに、わたしはずっと〈三郎〉の幼名を口にしてきた。
『……お亀は、いまもおれのことを三郎とよんでくれる。それが、何よりも嬉しいずら。余の者にはわからないだろうが……。ああそう言えば、おまえの〈亀〉という名は、そもそも、父上の初恋の相手だったというぞ!』
……その噂は、わたしも耳にしている。
母の妹の亀姫さまのほうを父は好いていたという。
わたしを亀と名付けたのは、妻に対する当てつけだ、という者もいた。
父と母との間に横たわる越すに越されない大河のようなものだ、と指摘する者もいた。
名門今川家の血をひく母が、その今川家を滅ぼした父への恨みを捨てきれないために、父が母を叱咤する気持ちで、あえて亀の字を選んだに違いない、ともっともらしく講釈する侍女さえいる……。
真相というものは誰にも判らないだろう。
人の興味を引く噂話というものは、当時者の思惑をはずれて、周囲のさまざまな好悪の感情が入り混じり、膨らんでいくものだから。
『……名など無くてもいい。亀であろうが、なかろうが、三郎兄さまのたった一人の妹というだけで充分……』
そんなことを告げたはずである。
菅生川の川面から照り返す光を浴びて、兄の双眸はきらきらと輝いて見えた。
ふいに兄は羽織を脱ぎ捨てた。
褌一枚になって、ドボンと川に飛び込んだ。
『ほどよく冷たいのん。お亀もおいでん。川にはいりん!』
三河言葉まる出しの兄には、無邪気な一面もある。けれど、はい、と頷けるはずもなかった。無造作に脱ぎ捨てられた衣服を拾い、すばやくたたんだ。
初夏の蒸せるような若草のにおいを嗅いだような気がした。鼻腔を刺激するそれは霞のようにとらえどころがなかった。
『衣を着せておくれん』
川から這いあがってきた兄の体躯を見て、アッと息を呑んだ。背中から右太股にかけて皮膚が縮み膨れたような跡が刻まれていた。
『……火傷の跡だ。このこと、ここだけの秘密だぞ!』
あまりの語気の強さに驚かされた。
と、すぐに兄は舌を出して、クスッと笑った。いつもの含蓄の笑みだ。
兄は照れるとそんな表情になる。兄によれば、その火傷を負ったのは、元服前のことであったらしい。
沸騰した湯釜に向かって、母が突然灰を投げ入れたとき、兄は熱湯を浴びた……そうだ。慌てて介抱しようと侍女が水で冷やそうとしたが、あまりの痛さに兄は土間に転げ落ちた。土間の隅に積まれていた薪に当たった振動で灰のほこりが舞い上がってからだにかぶさり、膿んで皮膚が爛れた痕らしい。
それにしても、なぜ母は湯釜に灰を投げ入れたのだろう……。
『……いまなら、わかる。側妾を置いた父上が、母上の閨を訪れなくなって、嫉妬と悋気にお苦しみだったのであろうよ……お亀、このこと、二人だけの内緒だにぃ』
黙ったままこくりと頷き、そっと火傷のあとを撫でた。目にたまった涙が、兄の肌を濡らした。緊張のせいか、自分の鼓動の高鳴りが風になって漏れ飛んでいくような気がした。
いまだにはっきりとは思い出せずにいる。
嫉妬に似た感情が湧かなかったといえば、嘘になる。けれど、むしろ兄の前途洋々たるさまに称揚の声を挙げたことだけは記憶に新しい。
(……ようやく兄にも、陽のあたる登り坂を歩む機会が訪れた……)
そのことを我が身のごとく慶び、はしゃいだはずである。
ちなみに兄は、九歳で元服し、信長様から〈信〉の一字を与えられていた。父家康の〈康〉字を併せ〈信康〉と名乗るようになっていた。
どうやらこの新たな名は、兄はそれほど好きにはなれなかったようだ。その心根が痛いほど察せられただけに、わたしはずっと〈三郎〉の幼名を口にしてきた。
『……お亀は、いまもおれのことを三郎とよんでくれる。それが、何よりも嬉しいずら。余の者にはわからないだろうが……。ああそう言えば、おまえの〈亀〉という名は、そもそも、父上の初恋の相手だったというぞ!』
……その噂は、わたしも耳にしている。
母の妹の亀姫さまのほうを父は好いていたという。
わたしを亀と名付けたのは、妻に対する当てつけだ、という者もいた。
父と母との間に横たわる越すに越されない大河のようなものだ、と指摘する者もいた。
名門今川家の血をひく母が、その今川家を滅ぼした父への恨みを捨てきれないために、父が母を叱咤する気持ちで、あえて亀の字を選んだに違いない、ともっともらしく講釈する侍女さえいる……。
真相というものは誰にも判らないだろう。
人の興味を引く噂話というものは、当時者の思惑をはずれて、周囲のさまざまな好悪の感情が入り混じり、膨らんでいくものだから。
『……名など無くてもいい。亀であろうが、なかろうが、三郎兄さまのたった一人の妹というだけで充分……』
そんなことを告げたはずである。
菅生川の川面から照り返す光を浴びて、兄の双眸はきらきらと輝いて見えた。
ふいに兄は羽織を脱ぎ捨てた。
褌一枚になって、ドボンと川に飛び込んだ。
『ほどよく冷たいのん。お亀もおいでん。川にはいりん!』
三河言葉まる出しの兄には、無邪気な一面もある。けれど、はい、と頷けるはずもなかった。無造作に脱ぎ捨てられた衣服を拾い、すばやくたたんだ。
初夏の蒸せるような若草のにおいを嗅いだような気がした。鼻腔を刺激するそれは霞のようにとらえどころがなかった。
『衣を着せておくれん』
川から這いあがってきた兄の体躯を見て、アッと息を呑んだ。背中から右太股にかけて皮膚が縮み膨れたような跡が刻まれていた。
『……火傷の跡だ。このこと、ここだけの秘密だぞ!』
あまりの語気の強さに驚かされた。
と、すぐに兄は舌を出して、クスッと笑った。いつもの含蓄の笑みだ。
兄は照れるとそんな表情になる。兄によれば、その火傷を負ったのは、元服前のことであったらしい。
沸騰した湯釜に向かって、母が突然灰を投げ入れたとき、兄は熱湯を浴びた……そうだ。慌てて介抱しようと侍女が水で冷やそうとしたが、あまりの痛さに兄は土間に転げ落ちた。土間の隅に積まれていた薪に当たった振動で灰のほこりが舞い上がってからだにかぶさり、膿んで皮膚が爛れた痕らしい。
それにしても、なぜ母は湯釜に灰を投げ入れたのだろう……。
『……いまなら、わかる。側妾を置いた父上が、母上の閨を訪れなくなって、嫉妬と悋気にお苦しみだったのであろうよ……お亀、このこと、二人だけの内緒だにぃ』
黙ったままこくりと頷き、そっと火傷のあとを撫でた。目にたまった涙が、兄の肌を濡らした。緊張のせいか、自分の鼓動の高鳴りが風になって漏れ飛んでいくような気がした。
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