20 / 40
20 狼狽の淀辰
しおりを挟む
そのときおときは、その座敷の円卓に備えられた椅子に腰をおろし、きょろきょろと視線を転がしていた。淀屋の夏座敷は、それこそ美しいきらめきに満ちていたが、おときにはどうも居心地の悪さのほうが気になって仕方がないのだ。めったに目にすることがない振袖に帯を吉弥結びにしたおときの姿は、近松の目にはことのほかまぶしく映っている。
お民の一件が落着するまで、おときはあえて町娘の姿で通すらしい。それがおときなりのお民への供養のかたちなのだろう。近松はそれと察している。かれは幾分緊張していたものの、それを悟らせないように無我の境地を実践していた。無表情、無感覚を装い続けるのである。
突然現れた淀辰は、ふてぶてしいまでの笑みを浮かべて佇んでいた。
「おときはん、久しぶりでんなぁ」
淀辰が言った。そうなのだ、おときは二年前に辰五郎と会っていた……。
「あれから二年とちょい経ちましたやろか。しばらく見んうちに、ほんまに、べっぴんさんになって……」
辰五郎は三十路半ば。世間では、毎夜が酒池肉林三昧だと、やっかみ半分で囁かれているが、二年前に会ったときのおときの印象では、そんなふうには見えなかった。そんなふうに、というのは、ぎらぎらと脂ぎった豪快さではなく、どちらかといえば、神経質そうにさえみえたのだ。
辰五郎の痩せ気味の頬に、ときおり縦筋が走り、ピクピクとせわしそうに顎のあたりが動くさまを見て、この人はなにかに苛立っているんだろうと、初めて会った二年前に思った。
二年前。
大洪水の被害者に公儀御蔵米の放出を提案したときであった。そのとき、辰五郎は二つ返事で請け負ってくれた。義援金集めにも賛同してくれて、後日、淀屋から大枚の金子と魚や野菜などが馬車に曳かれて届いた。意外にも、きめ細かい息遣いが感じられた。二年前の印象と比べても、いま目の前にいる淀辰は、頬がこけ、顔の艶が失せて別人のようにもおもえてくる……。
「さて、きょうは、どういった用件でっしゃろ。これでも忙しい身ぃですよって、はようすませておくれやっしゃ」
おときは、一度、近松の顔を見てから、辰五郎に向き合った。
「無礼は承知で口をきかせてもらいます。影絵茶屋とよばれるところで、人が死ぬ事件が続いているのは、ご存じやとおもいます。その小屋、淀辰はんがやってはるんですか?」
「ほんまに、物騒な世の中になりましたなあ。気味が悪い話やおまへんか。でもな、おときはん、このわてが、あんな小屋なんかに手を出すとお思いですかぃな?心外なことですわ。そないなことを触れ回っている輩がおるそうやけど、まったく迷惑な話でおますわ」
淀辰は、おときの視線を正面からとらえて、逸らさない。ときおり、頬から顎にかけて、肉がぴくひくと動いている。生まれつきの癖なのかもしれない。
「……たしかに、大和川の川違え工事で、以前にも増して人が集まるようになりました。それを目当てに、一山も二山も当てようとする輩が、ぎょうさんいることはたしかやけど、この淀屋が、そんなけちくさいことをすると思うてはるんやったら、迷惑な話でっせ」
そらとぼけているのか、本当に何も知らないのか、淀辰は淡々とした口調で喋り続ける。
「……ただな、おなごはんの前やけどなあ、世の中にはスケベな男が多いさかい、ああした遊びもはやりますねん。それはそれで、浮世の憂さ晴らしでんなぁ」
「そんならお民ちゃんのことは?淀辰はんが、囲ってはったという人もおますけど」
「お民?なんで、お民のことを?」
ふいに淀辰の顎のぴくぴくが止まり、目をしばたいておときを睨んだ。
「お民ちゃんは、うちの幼馴染みなんや!お民ちゃんには、幸せになってもらおうとずっと思ってたんや。寺島の若いもんをお民ちゃんの婿はんにでも、と考えていたのに、あんなことになってしもうて……なんか、うち、むちゃくちゃ、悔しゅうてならへんのや。お民ちゃんが、男はんと心中するなんて、そんなことは絶対ないと、いまも信じとります。お民ちゃんがなんであんなことになったか、それを突き止めたいだけなんです……」
目を腫らしつつあるおときのさまを見て、淀辰は意外だという顔を向けた。そうして、視線をおときの顔からはじめてそらせた。
「そうか、そうやったんか……」
急に口をすぼめ、もう一度、辰五郎は、おときの顔を正面から見た。その熱い視線のやり場に困って、おときは目を伏せた。
「……それで、あんたは、事の真相を調べようとしてはるわけなんや。どうやら、今のいままで、わては、大きな勘違いをしてましたわ」
淀辰は続ける。
「……わては、また、あんたが、この淀屋辰五郎を、世間の笑いもんにしようと画策しているとばかり思ってましたんや。なるほど、そういうことでしたら、すっかり、しゃべりまひょ。ただ、今から語ることは、どうか、ここだけの話にしておくれやっしゃ」
そう念を押されて、おときはこっくりとうなづいた。意外な成り行きに、近松も知らずのうちに身を前に乗り出した。
「……お民はなあ、わての可愛い女やったんですわ」
「やっぱり。淀辰はんのお妾はんになったという噂、ほんまのことやったんやね」
「世間ではもうそんなことまで云うてますのんか……それは知らなかった。あれは、去年の夏の終わりの頃でしたわ……」
喋り出すと辰五郎はしみじみとした表情で口を動かし続けた・・・・。
お民の一件が落着するまで、おときはあえて町娘の姿で通すらしい。それがおときなりのお民への供養のかたちなのだろう。近松はそれと察している。かれは幾分緊張していたものの、それを悟らせないように無我の境地を実践していた。無表情、無感覚を装い続けるのである。
突然現れた淀辰は、ふてぶてしいまでの笑みを浮かべて佇んでいた。
「おときはん、久しぶりでんなぁ」
淀辰が言った。そうなのだ、おときは二年前に辰五郎と会っていた……。
「あれから二年とちょい経ちましたやろか。しばらく見んうちに、ほんまに、べっぴんさんになって……」
辰五郎は三十路半ば。世間では、毎夜が酒池肉林三昧だと、やっかみ半分で囁かれているが、二年前に会ったときのおときの印象では、そんなふうには見えなかった。そんなふうに、というのは、ぎらぎらと脂ぎった豪快さではなく、どちらかといえば、神経質そうにさえみえたのだ。
辰五郎の痩せ気味の頬に、ときおり縦筋が走り、ピクピクとせわしそうに顎のあたりが動くさまを見て、この人はなにかに苛立っているんだろうと、初めて会った二年前に思った。
二年前。
大洪水の被害者に公儀御蔵米の放出を提案したときであった。そのとき、辰五郎は二つ返事で請け負ってくれた。義援金集めにも賛同してくれて、後日、淀屋から大枚の金子と魚や野菜などが馬車に曳かれて届いた。意外にも、きめ細かい息遣いが感じられた。二年前の印象と比べても、いま目の前にいる淀辰は、頬がこけ、顔の艶が失せて別人のようにもおもえてくる……。
「さて、きょうは、どういった用件でっしゃろ。これでも忙しい身ぃですよって、はようすませておくれやっしゃ」
おときは、一度、近松の顔を見てから、辰五郎に向き合った。
「無礼は承知で口をきかせてもらいます。影絵茶屋とよばれるところで、人が死ぬ事件が続いているのは、ご存じやとおもいます。その小屋、淀辰はんがやってはるんですか?」
「ほんまに、物騒な世の中になりましたなあ。気味が悪い話やおまへんか。でもな、おときはん、このわてが、あんな小屋なんかに手を出すとお思いですかぃな?心外なことですわ。そないなことを触れ回っている輩がおるそうやけど、まったく迷惑な話でおますわ」
淀辰は、おときの視線を正面からとらえて、逸らさない。ときおり、頬から顎にかけて、肉がぴくひくと動いている。生まれつきの癖なのかもしれない。
「……たしかに、大和川の川違え工事で、以前にも増して人が集まるようになりました。それを目当てに、一山も二山も当てようとする輩が、ぎょうさんいることはたしかやけど、この淀屋が、そんなけちくさいことをすると思うてはるんやったら、迷惑な話でっせ」
そらとぼけているのか、本当に何も知らないのか、淀辰は淡々とした口調で喋り続ける。
「……ただな、おなごはんの前やけどなあ、世の中にはスケベな男が多いさかい、ああした遊びもはやりますねん。それはそれで、浮世の憂さ晴らしでんなぁ」
「そんならお民ちゃんのことは?淀辰はんが、囲ってはったという人もおますけど」
「お民?なんで、お民のことを?」
ふいに淀辰の顎のぴくぴくが止まり、目をしばたいておときを睨んだ。
「お民ちゃんは、うちの幼馴染みなんや!お民ちゃんには、幸せになってもらおうとずっと思ってたんや。寺島の若いもんをお民ちゃんの婿はんにでも、と考えていたのに、あんなことになってしもうて……なんか、うち、むちゃくちゃ、悔しゅうてならへんのや。お民ちゃんが、男はんと心中するなんて、そんなことは絶対ないと、いまも信じとります。お民ちゃんがなんであんなことになったか、それを突き止めたいだけなんです……」
目を腫らしつつあるおときのさまを見て、淀辰は意外だという顔を向けた。そうして、視線をおときの顔からはじめてそらせた。
「そうか、そうやったんか……」
急に口をすぼめ、もう一度、辰五郎は、おときの顔を正面から見た。その熱い視線のやり場に困って、おときは目を伏せた。
「……それで、あんたは、事の真相を調べようとしてはるわけなんや。どうやら、今のいままで、わては、大きな勘違いをしてましたわ」
淀辰は続ける。
「……わては、また、あんたが、この淀屋辰五郎を、世間の笑いもんにしようと画策しているとばかり思ってましたんや。なるほど、そういうことでしたら、すっかり、しゃべりまひょ。ただ、今から語ることは、どうか、ここだけの話にしておくれやっしゃ」
そう念を押されて、おときはこっくりとうなづいた。意外な成り行きに、近松も知らずのうちに身を前に乗り出した。
「……お民はなあ、わての可愛い女やったんですわ」
「やっぱり。淀辰はんのお妾はんになったという噂、ほんまのことやったんやね」
「世間ではもうそんなことまで云うてますのんか……それは知らなかった。あれは、去年の夏の終わりの頃でしたわ……」
喋り出すと辰五郎はしみじみとした表情で口を動かし続けた・・・・。
0
お気に入りに追加
15
あなたにおすすめの小説
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
叛雨に濡れる朝(あした)に
海善紙葉
歴史・時代
敵は信長か?それとも父・家康なのか! 乱世の不条理に敢然と立ち向かえ!夫も子もかえりみず、ひたすらにわが道を突き進むのみ!!!💬
(あらすじ)
○わたし(亀)は、政略結婚で、17歳のとき奥平家に嫁いだ。
その城では、親信長派・反信長派の得体の知れない連中が、ウヨウヨ。そこで出会った正体不明の青年武者を、やがてわたしは愛するように……
○同い年で、幼なじみの大久保彦左衛門が、大陸の明国の前皇帝の二人の皇女が日本へ逃れてきて、この姫を手に入れようと、信長はじめ各地の大名が画策していると告げる。その陰謀の渦の中にわたしは巻き込まれていく……
○ついに信長が、兄・信康(のぶやす)に切腹を命じた……兄を救出すべく、わたしは、ある大胆で奇想天外な計画を思いついて実行した。
そうして、安土城で、単身、織田信長と対決する……
💬魔界転生系ではありません。
✳️どちらかといえば、文芸路線、ジャンルを問わない読書好きの方に、ぜひ、お読みいただけると、作者冥利につきます(⌒0⌒)/~~🤗
(主な登場人物・登場順)
□印は、要チェックです(´∀`*)
□わたし︰家康長女・亀
□徳川信康︰岡崎三郎信康とも。亀の兄。
□奥平信昌(おくだいらのぶまさ)︰亀の夫。
□笹︰亀の侍女頭
□芦名小太郎(あしなこたろう)︰謎の居候。
本多正信(ほんだまさのぶ)︰家康の謀臣
□奥山休賀斎(おくやまきゅうがさい)︰剣客。家康の剣の師。
□大久保忠教(おおくぼただたか)︰通称、彦左衛門。亀と同い年。
服部半蔵(はっとりはんぞう)︰家康配下の伊賀者の棟梁。
□今川氏真(いまがわうじざね)︰今川義元の嫡男。
□詞葉(しよう)︰謎の異国人。父は日本人。芦名水軍で育てられる。
□熊蔵(くまぞう)︰年齢不詳。小柄な岡崎からの密偵。
□芦名兵太郎(あしなへいたろう)︰芦名水軍の首魁。織田信長と敵対してはいるものの、なぜか亀の味方に。別の顔も?
□弥右衛門(やえもん)︰茶屋衆の傭兵。
□茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)︰各地に商店を持ち、徳川の諜報活動を担う。
□佐助︰大人だがこどものような体躯。鞭の名人。
□嘉兵衛(かへい)︰天満屋の番頭。
松永弾正久秀︰稀代の梟雄。
□武藤喜兵衛︰武田信玄の家臣。でも、実は?
足利義昭︰最後の将軍
高山ジュスト右近︰キリシタン武将。
近衛前久(このえさきひさ)︰前の関白
筒井順慶︰大和の武将。
□巣鴨(すがも)︰順慶の密偵。
□あかし︰明国皇女・秀華の侍女
平岩親吉︰家康の盟友。
真田昌幸(さなだまさゆき)︰真田幸村の父。
亀屋栄任︰京都の豪商
五郎兵衛︰茶屋衆の傭兵頭
江戸の櫛
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
奥村仁一郎は、殺された父の仇を討つこととなった。目指す仇は幼なじみの高野孝輔。孝輔の妻は、密かに想いを寄せていた静代だった。(舞台は架空の土地)短編。完結済。第8回歴史・時代小説大賞奨励賞。
毛利隆元 ~総領の甚六~
秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。
父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。
史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。
どこまでも付いていきます下駄の雪
楠乃小玉
歴史・時代
東海一の弓取りと呼ばれた三河、遠州、駿河の三国の守護、今川家の重臣として生まれた
一宮左兵衛は、勤勉で有能な君主今川義元をなんとしても今川家の国主にしようと奮闘する。
今川義元と共に生きた忠臣の物語。
今川と織田との戦いを、主に今川の視点から描いていきます。
忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
戦国異聞序章 鎌倉幕府の支配体制確立と崩壊
Ittoh
歴史・時代
戦国異聞
鎌倉時代は、非常に面白い時代です。複数の権威権力が、既存勢力として複数存在し、錯綜した政治体制を築いていました。
その鎌倉時代が源平合戦異聞によって、源氏三代、頼朝、頼家、実朝で終焉を迎えるのではなく、源氏を武家の統領とする、支配体制が全国へと浸透展開する時代であったとしたらというif歴史物語です。
朝敵、まかり通る
伊賀谷
歴史・時代
これが令和の忍法帖!
時は幕末。
薩摩藩が江戸に総攻撃をするべく進軍を開始した。
江戸が焦土と化すまであと十日。
江戸を救うために、徳川慶喜の名代として山岡鉄太郎が駿府へと向かう。
守るは、清水次郎長の子分たち。
迎え撃つは、薩摩藩が放った鬼の裔と呼ばれる八瀬鬼童衆。
ここに五対五の時代伝奇バトルが開幕する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる