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15 おとき、淀辰に会いに行く
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淀屋橋をめざして歩いているおときの足取りには、いつものような軽やかさは微塵もなかった。
かけ出しては止まり、歩き出してはまた走り出す……。
なにも〈淀辰〉に会うことをためらっていたわけではなかった。
むしろ、周りの反対を押しきったのは、おときのほうだった。けれどお民の姿が頭のなかで形になってはっきりと浮かび上がってきた途端、突然、足がガクガクと震えてきたのだ。
淀辰への話の切り出し方に不安を覚えたわけでもなかった。つい一刻(約二時間)前に、久富大志郎が遣わした奉行所の手代から、お民の死は、殺しではなく、相対死と奉行所は裁断したと報せてきたのだ。その判定への怒りの処理というものに、おときは為すすべがなかった。
しかも、それほど重大なことを、大志郎は直接おときに伝えるのを避け、わざわざ手代に押し付けた。このことにも、怒りを納めきれないでいた……。
〈相対死〉とは、すなわち〈心中〉のことである。
男が包丁でお民を刺したあと、毒物を飲んで自殺した……というのが、町奉行所の判断であった。けれども、納得しなかったのは大志郎も同じことで、かれが地道に聴き込みを続け、目撃者らの証言をすり合わせると、二人ともに他殺、という線がもっとも筋道のつく説明であった。よしんば百歩譲ったとしても、男は自殺の可能性もあるにはあるが、お民は別の人物による他殺としか考えられない。しかも、死んだ男の素性はいまだに明らかではない。
また、短期間ではあったが、お民が影絵茶屋で働いていたことは確認済みであった。
……このような経緯と推理を何度もおときにも伝え、下手人捜しのために全力を尽くすと誓っていたあの大志郎ですら、手のひらを返したように、上司の与力の判定に唯々諾々として従ったことに腹を立てていた。
ゆるせない。やるせない。
お民と一緒に自分もそろって大勢の顔なき連中から凌辱されてしまったかのような屈辱と憤怒。
なさけない。腹立たしい。やるせない。ゆるせない……。
行き場のない激情が捌け口を探して、脚や肩や頸の付け根のあたりに溜まり、それが痛みとなっておときを苦しめ苛なませている。
それに。
おときの傍らには、いつも居るはずの伊左次の姿はなかった。
二日前、分部宗一郎から内密に呼び出されてのち、伊左次は帰って来ていない。分部家の中間が、“事情があって伊左次はしばらく大坂を離れる”と、伝言があった。どんな理由か知りたかったが、問いただす相手はいないのだ。
おときがいま感じている激情というものは、本来は伊左次が埋めてくれていたはずの隙間がぽっかりと空いたことにも起因しているようであった。
けれど、いま、居るべき伊左次の代わりに、おときのうしろを、つかず離れず従っている者がいた。近松門左衛門である。
おときの気性の激しさというものに、たびたび驚かされた近松だったが、納得のいかないことには、とことんまで喰いさがっていく行動力には、論理を超えた爽快感すら感じていた。
さながら一陣の風が、人のまわりを舞っているかのような爽やかさ。いや、おときこそが、風なのだと近松は思った。心中事件の題材で扱うような、ある種世間の枠組みからはずれ、しとどに思い悩む女ではなく、そんな枠組みそのものをおのが力で作り変えようとする、ふてぶてしいまでの熱さを感じていた。
いま五十一歳の近松には、十七歳のおときの若さがまぶしく、羨ましくさえあった。
かけ出しては止まり、歩き出してはまた走り出す……。
なにも〈淀辰〉に会うことをためらっていたわけではなかった。
むしろ、周りの反対を押しきったのは、おときのほうだった。けれどお民の姿が頭のなかで形になってはっきりと浮かび上がってきた途端、突然、足がガクガクと震えてきたのだ。
淀辰への話の切り出し方に不安を覚えたわけでもなかった。つい一刻(約二時間)前に、久富大志郎が遣わした奉行所の手代から、お民の死は、殺しではなく、相対死と奉行所は裁断したと報せてきたのだ。その判定への怒りの処理というものに、おときは為すすべがなかった。
しかも、それほど重大なことを、大志郎は直接おときに伝えるのを避け、わざわざ手代に押し付けた。このことにも、怒りを納めきれないでいた……。
〈相対死〉とは、すなわち〈心中〉のことである。
男が包丁でお民を刺したあと、毒物を飲んで自殺した……というのが、町奉行所の判断であった。けれども、納得しなかったのは大志郎も同じことで、かれが地道に聴き込みを続け、目撃者らの証言をすり合わせると、二人ともに他殺、という線がもっとも筋道のつく説明であった。よしんば百歩譲ったとしても、男は自殺の可能性もあるにはあるが、お民は別の人物による他殺としか考えられない。しかも、死んだ男の素性はいまだに明らかではない。
また、短期間ではあったが、お民が影絵茶屋で働いていたことは確認済みであった。
……このような経緯と推理を何度もおときにも伝え、下手人捜しのために全力を尽くすと誓っていたあの大志郎ですら、手のひらを返したように、上司の与力の判定に唯々諾々として従ったことに腹を立てていた。
ゆるせない。やるせない。
お民と一緒に自分もそろって大勢の顔なき連中から凌辱されてしまったかのような屈辱と憤怒。
なさけない。腹立たしい。やるせない。ゆるせない……。
行き場のない激情が捌け口を探して、脚や肩や頸の付け根のあたりに溜まり、それが痛みとなっておときを苦しめ苛なませている。
それに。
おときの傍らには、いつも居るはずの伊左次の姿はなかった。
二日前、分部宗一郎から内密に呼び出されてのち、伊左次は帰って来ていない。分部家の中間が、“事情があって伊左次はしばらく大坂を離れる”と、伝言があった。どんな理由か知りたかったが、問いただす相手はいないのだ。
おときがいま感じている激情というものは、本来は伊左次が埋めてくれていたはずの隙間がぽっかりと空いたことにも起因しているようであった。
けれど、いま、居るべき伊左次の代わりに、おときのうしろを、つかず離れず従っている者がいた。近松門左衛門である。
おときの気性の激しさというものに、たびたび驚かされた近松だったが、納得のいかないことには、とことんまで喰いさがっていく行動力には、論理を超えた爽快感すら感じていた。
さながら一陣の風が、人のまわりを舞っているかのような爽やかさ。いや、おときこそが、風なのだと近松は思った。心中事件の題材で扱うような、ある種世間の枠組みからはずれ、しとどに思い悩む女ではなく、そんな枠組みそのものをおのが力で作り変えようとする、ふてぶてしいまでの熱さを感じていた。
いま五十一歳の近松には、十七歳のおときの若さがまぶしく、羨ましくさえあった。
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