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父の悲願
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西陽の照り返しのあまりの眩しさに、思わずちえは掌でまぶたを覆った。
早く早く陽が落ちるほど、四半刻(約30分)でも、半刻でも、いつもよりも早い明日がやってくる……はずだとちえは、毎夕、そうやって、
(落ちろ、落ちろ、陽よ、早く落ちろ!)
と、祈ってきたのだった。
その一方で、
(でも、まだ、花が咲かないから……)
……むしろ明日という日が遅くやってくるほうがいいのかもしれないなどど、まったく真逆のことを考えたりするのだった。
庭に植えた“世之介石竹”は、ちえの父、東谷世之介が手塩にかけて育種した、新種のなでしこで、それまで存在しなかった蜜柑色の花を見事に創出できたのだった。藩公からも特別の報奨を賜ったほど、世之介の花づくりの力量とその育種技術は四方に知れ渡っていた。
秋の訪れとともに、“世之介石竹”は一斉に咲き出したのだが、世之介が島流しになるときに、そっと父から手渡された種を育ててきたちえは、本当に咲いて欲しいものがまだ蕾すらつけていないことに苛立っていたのだ。
(去年もだめだった、その前の年も……)
三年間、葉だけは育っても、蕾をつけない、咲かない……のは珍しい。
いや、これは、父があえてそういう新種を造り出したのかもしれない……などと、何度もちえは、そう思い込もうとしてきた。
むろん、そんなことはない……と、もう一方の頭では
それは……咲けば、黒い花をつけるはずであった。
それが藩公から直々に命じられた世之介の挑戦だった。
黒……は、藩公のお気に入りの色である。
この藩にかぎっては、黒は世間一般が忌み嫌う色ではなかった。なぜなら、藩公の先祖は、秦の始皇帝の末裔……といった伝承があったからである。
古代秦帝国の色は「黒」であった。
鎧も旗も衣服も黒一色。
これは五行説にいう水徳の王朝だと秦帝国はみずからを位置づけていたからで、水は、五色においては「黒」を象徴するからである。そして、季節は「冬」を示していた。
藩公は、
〈真冬に咲く黒花のなでしこを造るべし……〉
と、世之介に命じていたのである。
よしんば冬期に咲かなくとも、まずは黒花を……というのが、至上命令であった。
ちえの父、世之介は武士ではない。
もとは藩営養生所で、薬草管理をしていて、仕事の合間の趣味が嵩じて、石竹、すなわち、唐なでしこの新種づくりに邁進した。ついには自己流の育種で名を成し、その功によって、とくに苗字帯刀を許されたのだった。
隣接する二つの藩でも、特産品の創出に力を注いでいて、世之介に負けじと育種を推奨したが、なかなかかたちにはならなかった。そこで自藩の富商を仲介人に立て、世之介に後妻を世話するとか、金品を与えるとか、『こちらの藩に身を寄せれば、正真正銘の武士に取り立てて、育種奉行にしてやるぞ』……などと、ひっきりなしに引き抜きの誘いがあとを絶たなかった。
ちえの母親は、産褥熱で逝ってしまい、少女は母の顔は知らない。むしろ、父が育ててきた花々こそが、ちえにとっては母の代わりのようなものであったかもしれない。
世之介にしても、他藩から狙われるほどの技術保全のため、余人には一切手伝わせず、ちえを助手として黙々と挑戦を続けていた。
そんな矢先に藩を揺るがせる事件が起こったのである。
三人の不審者が、世之介の育種小屋に忍び込んだその夜、ちえが堆肥づくりに使う残飯の一部を小屋に持っていったまさにその時、襲われたのだ。
一瞬の出来事で、物音を聴きつけた世之介が駆けつけ、その一人を植木鋏で刺し殺してしまったのである……。
早く早く陽が落ちるほど、四半刻(約30分)でも、半刻でも、いつもよりも早い明日がやってくる……はずだとちえは、毎夕、そうやって、
(落ちろ、落ちろ、陽よ、早く落ちろ!)
と、祈ってきたのだった。
その一方で、
(でも、まだ、花が咲かないから……)
……むしろ明日という日が遅くやってくるほうがいいのかもしれないなどど、まったく真逆のことを考えたりするのだった。
庭に植えた“世之介石竹”は、ちえの父、東谷世之介が手塩にかけて育種した、新種のなでしこで、それまで存在しなかった蜜柑色の花を見事に創出できたのだった。藩公からも特別の報奨を賜ったほど、世之介の花づくりの力量とその育種技術は四方に知れ渡っていた。
秋の訪れとともに、“世之介石竹”は一斉に咲き出したのだが、世之介が島流しになるときに、そっと父から手渡された種を育ててきたちえは、本当に咲いて欲しいものがまだ蕾すらつけていないことに苛立っていたのだ。
(去年もだめだった、その前の年も……)
三年間、葉だけは育っても、蕾をつけない、咲かない……のは珍しい。
いや、これは、父があえてそういう新種を造り出したのかもしれない……などと、何度もちえは、そう思い込もうとしてきた。
むろん、そんなことはない……と、もう一方の頭では
それは……咲けば、黒い花をつけるはずであった。
それが藩公から直々に命じられた世之介の挑戦だった。
黒……は、藩公のお気に入りの色である。
この藩にかぎっては、黒は世間一般が忌み嫌う色ではなかった。なぜなら、藩公の先祖は、秦の始皇帝の末裔……といった伝承があったからである。
古代秦帝国の色は「黒」であった。
鎧も旗も衣服も黒一色。
これは五行説にいう水徳の王朝だと秦帝国はみずからを位置づけていたからで、水は、五色においては「黒」を象徴するからである。そして、季節は「冬」を示していた。
藩公は、
〈真冬に咲く黒花のなでしこを造るべし……〉
と、世之介に命じていたのである。
よしんば冬期に咲かなくとも、まずは黒花を……というのが、至上命令であった。
ちえの父、世之介は武士ではない。
もとは藩営養生所で、薬草管理をしていて、仕事の合間の趣味が嵩じて、石竹、すなわち、唐なでしこの新種づくりに邁進した。ついには自己流の育種で名を成し、その功によって、とくに苗字帯刀を許されたのだった。
隣接する二つの藩でも、特産品の創出に力を注いでいて、世之介に負けじと育種を推奨したが、なかなかかたちにはならなかった。そこで自藩の富商を仲介人に立て、世之介に後妻を世話するとか、金品を与えるとか、『こちらの藩に身を寄せれば、正真正銘の武士に取り立てて、育種奉行にしてやるぞ』……などと、ひっきりなしに引き抜きの誘いがあとを絶たなかった。
ちえの母親は、産褥熱で逝ってしまい、少女は母の顔は知らない。むしろ、父が育ててきた花々こそが、ちえにとっては母の代わりのようなものであったかもしれない。
世之介にしても、他藩から狙われるほどの技術保全のため、余人には一切手伝わせず、ちえを助手として黙々と挑戦を続けていた。
そんな矢先に藩を揺るがせる事件が起こったのである。
三人の不審者が、世之介の育種小屋に忍び込んだその夜、ちえが堆肥づくりに使う残飯の一部を小屋に持っていったまさにその時、襲われたのだ。
一瞬の出来事で、物音を聴きつけた世之介が駆けつけ、その一人を植木鋏で刺し殺してしまったのである……。
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