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第七話 星雲はるかに

雨情のなかの男と女

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 十日降り続いた雨は、それでも氾濫することなく舟寄せ場の敷台がつかっただけである。ちょうど、高梁たかはし川の支流の分岐に近いこともあって、増水した雨水は下流へどっと流れ込んでいったらしかった。
 ふっと安堵の吐息を洩らした源吾は、飯炊きを手伝っている琴江の背を見て、
「宿のほうはどうだ?」
と、声をかけた。
のおかげで、浸水はしてないさ。雨水を溜める大きな池を掘ったおかげだと、みんなも喜んでいたよ」
 琴江はすっかり女房気取りで、源吾に笑いかけた。
 田所たどころ源吾。
 元武士で、いまは、になっている。(第三話「殺らずの雨」参照)。
 そこで、姓を変えた。
 浪人なので、いちいち改姓を届け出る必要はない。それどころか、この舟宿と渡しのある一帯は、一応は神坂こうさか藩領となっているものの、幕領(幕府直轄地)、葉山藩、鹿野藩の飛び地(本領から離れた位置にある領地)などに囲まれており、治外法権的な色彩が濃かった。幕領代官所も、自領内に踏み込まない限り手出しはしない方針で、他藩も同様な対処方針であった。
 すなわち、〈我、関せず〉……なのである。
 しぜんと、この一帯に、浮浪者、犯罪者、あるいは兆散ちょうさん(田畑を捨てて他領へ逃げること)した農民などが肩を寄せ合うように集ってきては棲みつくようになった。急拵きゅうごしらえだが、雨露をしのげる掘っ立て小屋をはじめ、共同厠(もともと便所は共有して使用されるものなのだが)、井戸、炊事場、かまど、材木置場、蔵などが整備されていた。いや、正確には、設置途中であった。
 ちなみに、源吾が選んだ新しい姓は、奥山おくやまであった。
 奥山源吾。
 なにゆえ奥山の姓にしたかは、テラモンから頂戴したのだった。テラモンの流儀の起点は、奥山一刀流であった。奥山新陰流ともいい、流祖、奥山休賀斎きゅうがさいは、本姓を奥平おくだいらといい、奥平家は徳川家康の長女、亀姫の嫁ぎ先でもあった。また、休賀斎は、若き頃の家康に新陰流を教えたこともある……。

 そのような由緒ある姓を、源吾はおのれの新しき一歩を飾る旗印にしたのだった。
 そして、この一帯ではそこそこ名が売れ出した顔役かおやくの一人になっていた。

「あと一刻もすれば、れいの御方おかたがおいでんさるかも」
 琴江が告げると、
「おお、約束していたのは、今日であったか」
と、源吾が指をたぐって数えはじめた。
「部屋は用意できているのか」
「これからは、役宅やくたく……と呼ぶんだそうだよ」
役宅もなにもないだろうが……!」
「でも、テラモンの老師さまのお言いつけだから」
 琴江が言った。
 誰も彼もが、寺田文右衛門を“老師”と呼ぶ風潮は困ったものだと、源吾は苦笑する。見た目の体つきや筋肉の張り具合は、たしかに往年の剣客としての衰えは感じさせない。テラモン本人は、爺、爺と自称することも多いのだが、それはかれ一流の諧謔かいぎゃくであろうと源吾はおもっている。

「……テラさんも来られるのかな」
 源吾がくと、琴江は首を横に振った。
「それがね……」
 と、急に琴江は声をひそめた。
「………いま、病に伏せっておられるとか」
「な、なんと、あのテラさんが……?」

 源吾が声を荒げた。これから大事な要件がある。そのうちにテラモンも馳せ参じてくれるにちがいないと確信していた源吾であった。その目論見もくろみが打ち破れたのだ。

「弥七さんの話じゃ、今回ばかりは覚悟が必要だと……」
 琴江が続ける。
「流行り病かなにかは知らないけどさ、ずっと寝込んだままで……」
「ま、まさか……」
と、源吾は続けようとした言葉を慌てて呑み込んだ。
  ぽっくり逝くことはあるまい……と、口にしようとしたのだ。
「あんた、弥七さんの仲間が、杵築大社きつきのおおやしろに、病魔快復祈願に向かわれたそうだから、まだ、大丈夫だとはおもうけど」
「神仏祈願に頼るほどなのか!」

 源吾はテラモンの近況もなにも知らなかったことを悔いた。たまに、谷崎屋敷の中間ちゅうげんの弥七からさまざまなしらせが届くのみであった。
 ちなみに、杵築大社は、出雲大社のことである(出雲大社の名は、明治維新後に創られた新しい名である)。

 源吾が多忙だったのは、新しく設置される辺境へんきょう仕置陣屋しおきじんや副差配ふくさはいに就任したからである。
 仕置陣屋は、代官所と言い換えても差し支えあるまい。
 ところが代官所というおんは、幕領側の代官所との混同を招きかねず、また、治外法権的な一帯に、いきなり“代官所”を置くと住民たちを刺激しかねないといった判断も働いていたようである。

御差配ごさはいは、確か、井上様と申される方だそうだ。まもなくご赴任になられるのだが、果たして気心が合うかどうか……」

 そこが最大の心配事であった。浪人暮らしの果てに舟船頭になって十年近い源吾が、ふたたび、侍としてやり直そうとおもったのは、なにも抜擢されたからではなかった。老齢になっても、寺田文右衛門のような生き方……つまり、藩士でもなく、家老の用人、家来という身分に甘んじながらも、自遊にやることもできるのだという発見が、源吾に人生の区切りというものをつけるはずみになった……といえばいいであろうか。
 本人もまだはっきりとはこの先の道筋は見えてはいなかったが、治安の悪いこの一帯を少しずつ変えていきたいといった気持ちも強かった。
 上司にあたる、仕置陣屋差配は、井上善右衛門である。(第五話「譲りの善右衛門」参照)。

「譲りの善右衛門……との渾名あだながあると弥七さんがおもしろがっていた、いまじゃ、の善右衛門……と言いなさるそうだけど」 
「はぁ? では、まったく意味が違うだろ?」 
「そうさね、だから、弥七さんも笑っていた……でも、剣の腕前は、テラさんの老師のお墨付きだから、あんたも習ったらいいよ」

 琴江が言う。源吾は藩士になったわけではないが、特別に副差配という役職を臨時で与えられたのだ。そのことが、琴江には誇らしいのだ。
 けれど、一方で源吾は源吾で、頭を悩ましていたことがあった。なにやらテラモンを付け狙っているらしい一団が、この一帯の山側、中腹にある洞窟を拠点に棲みついていたからである……。しかも当のテラモンは病床にあるという。この先起こるであろう大事おおごとが源吾にとっても、ひときわ無気味な様相を呈してきているようにおもえてならなかった……。               
 
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