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第4話 失踪
しおりを挟む八重には十歳の時から任された仕事がある。
天通院家の奥、限られた者しか知らない場所の掃除だ。
血は繋がっていないものの血族の範囲内と考えたのか、当主は八重に掃除を命じた。呪いによって迷宮化していて、決まった順番で襖を開けなければ辿り着けない深部。地下でもないのに暗い、奥の奥。陰の気が満ちたそこは空気が粘りつくようで、一般人なら間違いなく発狂する。
中心には漆喰で塗り固められた、通気口すらない閉ざされた空間がある。そこに何かがいるのは明らかだった。八重はその場所を週に一度、掃除した。
八重が十一歳になったある日、何の前踏まれもなく壁の向こうから声が聞こえた。
『あなた、いいように使われていると分かっているの?』
若い女性のように聞こえる声に、幼い八重は動揺した。「もし音や声を聞いても無視し、返答はするな」と厳命されていた。唸り声や呪詛を聞く覚悟はあったが、そんな言葉を投げかけられるなんて予想外である。
中にいるものが食事をとっているとは考えにくい。人間ではない相手のはずなのに、その声はごく普通の人間と同じような調子で話しかけてきた。八重は若い女性が光のない空間に閉じ込められている様子を脳裏に描いてしまい、慌てて掻き消した。異形は人を惑わせるのが得意だ。同情を誘い取り入ろうとしているに違いない……と退魔師である彼女は気持ちを引き締めて言葉を返しはしなかった。
『真面目ね……まあ黙っているのは賢明だわ。足音からしてまだ子どもなんでしょう? せいぜい考えなさい。臆病者になるの。でないとすぐに死んでしまうから』
幼い退魔師は唇を噛み締めた。異形の声音は淡々としていながら、彼女の〝家族〟のそれよりも、ずっと柔らかく感じられたのだった。
掃除は毎週月曜日の早朝。異形は初めて言葉を投げかけてきてから、毎回何かしら話しかけてきた。内容は『もう退屈で腐りそう』『いちおうここへ来てから日数は数えてるの』など独り言のようなものばかり。返答を期待しているような口振りは最初だけだった。
『そろそろ正月でしょう。私、つきたての餅って好きなのよね』
ある日、異形はそんなふうに零した。何でもない言葉だが、八重の心にグサリと棘が刺さる。壁の向こうの何かが人間と似た味覚を持っているような口ぶりである。
異形は「エネルギーにするためより良い獲物を喰らいたい」という欲求が人以上に強い。しかし「好きな味のものを食べられないのは辛い」という人間に似た感覚があるかどうかは、八重には分からなかった。
───もし、人間に似た感覚があるのならば……何も食べられないのは、とても辛いのかもしれない。
八重の心に「迷い」が芽を吹いたのは、仕方のない事なのかもしれなかった。彼女はそれを心の片隅に押し込めて見なかったふりをして、毎週の掃除を続けた。そのうち八重は霊刀を与えられ、戦闘員として働き始める。
『あらあら、今日は悲惨な様子みたいね、可哀想。いつものような霊力が感じられないもの。怪我でもしたのかしら? 適当なとこで見切りつけて逃げないと死んじゃうわよ』
音や微かな霊力の違いで、異形には大きな体調の変化なら分かるようだった。ソレの声に八重を嘲る調子はない。かといって心配して諭しているのだと素直に信じたりはしないが、八重にそんな言葉をかけてくれる存在は壁の向こうの何かだけだった。
異形は時折、八重の知らないことや、気づいていないことを語る。
『封印を保つために、あなたの霊力でここの澱んだ気を散らしてるんでしょう。負担が大きいからそのうち来なくなると思ったのに、丈夫な人間ね』
『もう五百年くらいこんな陰気なところにいるのよ。臓腑にカビが生えていそうだわ』
───ここに閉じ込められているものは、悪いものなの?
八重の言う善悪なんてものは人間の価値観でしかない。異形には人間の論理や倫理は通用しないと理解している。何者なのか理解しないまま封印し続けて良いものだろうかという迷い。同時に、人間にとって害をなすものならば絶対に出してはいけないという使命感も存在する。
強い意志で、返事をするなという命令を守ったまま、八重は成長した。十八歳になった時、彼女は滅多にないチャンスを掴んだ。普段は酔うまで飲まない長兄が、自棄酒をして酔いに酔った状態なのを縁側で見つけたのだ。周りに人がいないことを確かめ、八重はベロベロの彼に質問をした。
「私がお相手している奥のあれは、何なのでしょう」
いつもならば、お前が知る必要はない、余計なことを聞くなと怒られる。殴られる時も多い。しかしこの時は酔いによって口が滑ったらしい。
「座敷童みたいなもんだ。置いとけばうちは安泰なんだよ」
次期当主の言葉に、八重の迷いは深くなった。
* * *
大学教授をしている野中は、警察からの聴取というものを初めて受け緊張していた。いつもの研究室に居るのに、居心地が悪いような感覚がある。
「家出では、ないのでしょうか?」
「書き置きもなく連絡がつかないそうです。率直にお聞きしますが、天通院さんが自殺する可能性はあると思いますか?」
野中は天通院八重と最後に会った時のことを思い返した。
───では、総務に提出してきます。今まで本当にお世話になりました。
束ねた卒業論文を持って頭を下げてきた八重。卒業論文の出来栄えは見事だった。大学院進学を薦めたのは間違いではなかったと思えるくらいの内容だ。彼女は野中に、今までの御礼だと言って彼の好きなウイスキーをプレゼントしてくれた。卒業式は出るのかと聞くと、八重は任意参加なのでやめておきますと言って苦笑いする。
───私、どうもそういう場が苦手なので。すみません。ですので会うのは最後になるかもしれません。どうかお元気でこれからもご活躍してください。
野中は最後の八重の笑顔を思い出す。童顔だがどこか達観したような雰囲気の彼女は、とても穏やかに笑っていた気がする。
「少なくとも私は、彼女が進学や就職をするという話を聞いていません。何か悩んでいた可能性はおおいにあると思います。けれど……彼女は芯が強いと感じていましたから、自殺するようには……」
そうですか、と言いながら警察官はメモを取る。その後、少しばかり日頃の様子を聞いて、聴取はアッサリと終わった。
警察官を送り出して一人になると、野中は椅子に身を預けて大きく息を吐く。
天通院八重が失踪したのは卒業論文を提出してから数日後だと警察官は語った。一月の半ばということになる。
野中には違和感があった。天通院家からは何も連絡が無かったのだ。本当に探す気があるのかよく分からない。警察官が調べているということは失踪届は出ているはずだが……警察も、どの程度本気で調べるのか計りかねる。
八重は良い子だった、と野中は思う。彼女に友達と言えるくらい親しい学生はいなかったように見えた。しかしそれは、時間が無かったことと、人と距離をとろうとしていたことが要因だ。その壁を取り払えば、すぐに友達も恋人もできるだろうと思われた。退魔師の仕事が無くなったと聞き、これでやっと友達を作り穏やかに生きていけるのだなと考えていたのに、八重の顔は晴れなかった。
野中は家出であってほしいと願う。家という柵から抜け出し、自由に生きていてほしい。一般人である野中には探す能力がないから……というのは建前で。本音を言えば、目をかけていた学生とはいえ、必死になって足を動かし探し回るほどの情熱は湧かないのだ。
だから無責任に無事を祈るくらいしかしない。しかしそれは、大多数の人間がとる行動で、周りに責められるものでもない。
彼は天通院八重という女性のことを、心の中のアルバムに記録して本棚へ仕舞い込んだ。次にそのアルバムが開かれるのはいつなのか……数ヶ月後か、数年後か……それは彼にも分からない。
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