6 / 99
おやゆび姫
秘密
しおりを挟むしくしく泣いている私を見下ろすデボラさんの目も今にも涙が溢れそうになり慌てて顔を背けて指で拭っている。泣き顔を見られたくないとかそういう理由じゃなくて、ポトッと頬を伝い落ちた涙が私に命中した日にはずぶ濡れになる!と案じてくれての事なのだ。
私の前にデボラさんの白い指が置かれた。私から見れば諏訪大社の御柱サイズだけれどきっと白魚のような美しい指なのだと思う。で、どうして置かれたかというと抱きしめて慰める代わりに私が指先に抱きつくのだ。
デボラさん、子どもの頃ハツカネズミを育てたことがあったそうで。ちっちゃなネズミが可愛くてたまらなくなって、手作りの首飾りを首に掛けたのだそうだ。だけどハツカネズミは大パニックを起こし、急いで捕まえて外してやったけれどぐったりしていて弱って死んじゃったんだって。その時デボラさんは猛烈に後悔した。小さな生き物にむやみに触ってはいけなかったんだって。気遣いの女神みたいなこの人間性は子どもながらに完成していたんでしょうね。
だからデボラさんは決して自分から私に触れずこうして私から接触するのを待ってくれる。悲しい子ども時代の思い出だけれど気遣いの女神が輪を掛けて配慮して下さるのは有難い限りだ。ここがデボラさんのお家じゃなかったら私はとっくに死んでいたと思う。
苦しさで一杯の私は遠慮なくデボラさんの指に縋り付いて泣いた。この苦しさはアンネリーゼのもの。でも今の私には実はもう一つの心苦しさがある。
『そこで目が覚めた』
デボラさんにはそう言ったけれど本当はもうちょっとだけ続きがある。図書館で見つけた図鑑は書架の上の方にあった。どうやら急激に背が伸びる前だと思われるまだまだ小さな12歳の私はどうやって取ろうかと顔をしかめていた。脚立はあるけれどおチビさん一人で運んで来ることなんてできるだろうか?司書に頼めば解決するが何しろアンネリーゼは引っ込み思案の人見知り。出来れば知らない人に頼み事なんてしたくない。
精一杯手を伸ばした先のほんの僅かなところに憧れの図鑑があるのに。涙で滲む図鑑の背表紙を見つめ茫然としていると不意に後ろから誰かの手が伸びた。そして手を取った図鑑を私に差し出したのだ。
「これで合ってる?」
優しげな声で囁くように問いかけたのは少し年上に見える少年だった。白銀のように輝く髪に宝石みたいな碧紫の瞳をした見たこともないくらい美しい男の子。兄さまが超絶美型なのは身内の贔屓目ではなく紛れもない事実だけれど、この男の子の美貌は畏れすら感じるものだった。『王子様みたい……』って思わず見惚れてしまったのだもの。
私はコクコクと頷いた。男の子の存在感に圧倒されて声が出せなかったのだ。それでも男の子は優しく微笑み片手を上げて背を向けた。スタスタと去っていく後ろ姿も美しく私はボンヤリとそれを目で追った。
「……ところであの子、ここで何していたのかしら?」
ようやく我に返った私は両手に乗せられた図鑑を見下ろしながら小首を傾げた。
ーーってさぁ。随分とベタな出合いだよね?
『気分転換にはお風呂が一番!』
そう言って用意してくれたドールハウスのバスタブでお湯に浸かりながら、私は乙女チックにも程がある自分の脳内に我ながら呆れていた。
それからも男の子は私が図書館に行く度に何処からともなく姿を見せた。はじめは出会った日のように手の届かない高い場所にある本を取り私に手渡すとスタスタと居なくなったが、段々と図鑑を読む私の隣に座り自分も本を読むようになった。そして気がつけば顔がくっつきそうな近距離で図鑑を覗き込んでいるのだ。
「花が好きなの?」
興味津々で覗いている男の子……彼はリードと名乗った……に尋ねるとくすりと笑って首をふる。
「いや、今までは興味も関心もなかった。バラとチューリップとユリくらいしか名前も知らなかったし。でも近頃急に気になるようになったんだ」
「ふーん……」
私達はまた図鑑に視線を戻した。言葉を交わすのはほんの少しだけれどリードと寄り添って過ごす時間は穏やかで、いつしか私は一人で抱えている苦しみが癒されているように感じていた。そして私達はちょっぴりずつ打ち解け人見知りの私もリードを友人と呼べるくらいに仲良くなっていた。
ーーとはいえアンネリーゼだってこのビジュアルだし、麗しき美少年とお友達になっても不思議じゃないかもね……あくまでもこれは私じゃなくてアンネリーゼの記憶だから。
私はパシャパシャと顔を洗いながら気合いを入れ直した。
どうも……どうもね。記憶が戻るにつれて中の人である私がアンネリーゼになっていくような、というよりも私は元々アンネリーゼなんだと無意識に思い込んでしまっている感が強まっているのが気になるのよね。
このまま夢を見続けたらいつか私はアンネリーゼの記憶に呑み込まれてしまうのだろうか?それが良いことなのかそうではないのかという判断すらできない現状なのが情けないったらありゃしないけど。
夫の不倫に苦しんだ私は睡眠障害に悩まされていた。ぐっすり朝まで眠ったのはいつだったか思い出せないくらいだ。それなのに転生してからはベッドに横になった途端に意識が遠退きアンネリーゼの夢を見る。まるで夢を見せる為に眠らされているかのように。
けれどもこの日を最後に、アンネリーゼの夢を見ることは無くなった。同じように眠るのに目を覚ますともう朝が来ている。
そうして一週間が過ぎた夜、私は再び夢を見た。
私は戻ったのだ。兄さまが待つあの屋敷に。
0
お気に入りに追加
16
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる