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冬の終わり

私、立ち止まりました

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 離婚は当然だと思っていた。未遂とはいえ事件に巻き込まれ尚且つ両親が犯罪に大きく加担していたのだ。それなのにマックスが求めたのは婚姻関係そのものが無効であったことの証明。私は止まっていた視線を下に送り申請内容に目を通した。

 「実際のところは君たち二人だけにしかわからないことだ。だがね、たとえ本当に白い結婚だったとしてもこんな理由は聞いたことがない。君に一切の非が無いことは良くわかる、実に良くわかるさ。これ以上ない程のわかりやすさだ。でもなぁ……」

 我々は白い結婚でその理由は全て夫である自分の身体的な機能不全に由るものだ、書面にはそう記されていた。

 「婚姻を無効にするには審議が必要になる。理由も明らかにされる。だから普通はもっとこう……ぼんやりしたそれらしい言い訳にするものだろう?」

 普通がどんなものなのか良くわからないが、陛下の仰りようを見る限りまぁそうなのだろう。

 「何故こんな漢の沽券に関わるような重要な事をわざわざ明け透けにするのか?これではマクシミリアンは社交界で好奇の目に晒されることになるじゃないか。だがね、奴さんはそれで良い、誰もが自分一人だけを白い目で見るようになれば良いとそう言い張るんだよ」

 私の手からヒラリと抜け落ちた書類がテーブルの下をくぐり抜け陛下の足元で止まった。その端を足でしっかりと踏んだ陛下は手を伸ばすとそのまま書類を持ち上げて、息を飲む私の目前でビリビリと派手な音を立てながら破いていった。

 「おや失礼、大切な書類が……ただの紙吹雪になってしまったね」

 なってしまったね、と言う陛下の手にはまだ大きく裂け目が入っただけの書類があったのだけれど、陛下はニヤリと笑い素早く引き裂いて一つを私に手渡してきた。そしてさぁやるぞとでも言うように私に目配せしをして次々と千切り紙吹雪にしていく。陛下の千切り方は思いの外丁寧で細かくて、私は何だかそれが可笑しくて肩を震わせながら手元の紙を千切り始めた。

 テーブルに紙吹雪の小山が出来ると陛下は半分を手に取り私の手に乗せ残りをかき集めて両手に包んだ。それから『チュッチュッ!』と舌を鳴らして白猫の気を引くとサンルームの硝子の天井目掛けて舞い散らせる。しっぽを膨らませた白猫はひげを前に向け目を真っ黒にして紙吹雪を捕まえようと何度も跳び跳ねた。続けて投げた私の紙吹雪にも同じように挑み、今度は床に落ちた紙吹雪をパシパシと前足で押さえながら走り回っている。白猫は真剣そのものなんだけれど、陛下と私はその様子を見て大笑いした。

 ひとしきり笑い笑いすぎて涙まで拭った陛下は呼吸を整えるにも一苦労で、ソファの背もたれにぐたっと寄りかかった。それでも本当に楽しかったのだろう。満足そうに目を細め微笑みながら口を開いた。

 「どうして君と別れようとするのか理解に苦しむね。こんなにも愛しているくせに。フローレンス、気になってたまらないから今すぐに理由を確かめてきてくれないか?」
 「そうさせて頂きます。ですが……突き止めた理由は二人だけの秘密ですわ。陛下には内緒です」

 陛下は再びゲラゲラと笑いながら侍従を呼び、私を屋敷に送るように命じると白猫を従えて弾むような足取りでサンルームを後にされた。


 ∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗


 屋敷に向かう馬車の中からぼんやりと街並みを眺めていた私は、結婚式を挙げたあの聖堂の門の前に停められていた一台の馬車に目を留めた。乗っていた馬車を降り急いで駆け寄ると御者台でバートン爺がうつらうつらと居眠りをしている。

 「バートン爺、駄目よ。風邪を引いちゃうわ」

 飛び上がらんばかりに驚いたバートン爺は目を白黒させながら『奥様……』と言って声を詰まらせた。

 「いきなりこんな所でお目にかかるとは、本当に本物の奥様ですかな?いや、天使様になった奥様じゃなかろうか?まさか……まさかわしは奥様にお会いしたいと願うあまりに奥様を追いかけて天国に来てしまったか?!」
 「バカなこと言わないの!私もバートン爺も死んでなんかいません。ねぇ、旦那様はどこ?聖堂に行かれたの?」
 
 バートン爺はごしごしと目元を拭い『左様で』と答えた。

 私は先に屋敷に戻るように言い残し聖堂に向かった。もうすっかり日が暮れて空には星が瞬き始めている。重いドアをゆっくり引くと薄暗い聖堂の中に蝋燭に照らされた祭壇の前の席で座るマックスの後ろ姿が目に入った。バージンロードとしてお父様と歩いた中央通路を私はゆっくりと進んで行く。コツコツコツという足音にピクリと肩を揺らしたマックスが振り向き、私達は視線が絡み合うようにお互いに見つめ合った。

 「どうしてなの?」

 あぁ、ここだ。あの日この場所で私はお父様から手を離しマックスに差し伸ばし、マックスは私の手を取り優しく握ってくれたのだ。

 ーーその貴方がどうして私との別れを望んでいるの?

 「離婚なら応じるわ。それなのにどうしてあんな嘘……」
 「嘘?」
 「そうよ、嘘に決まっているじゃない。だって私、お腹に赤ちゃんがいたのよ?貴方と私の赤ちゃんが……」
 「フローラ……」

 マックスはそう言うなり表情を失くし呆然とした。

 「マックスもあの時の……いいえ、あの時だけじゃない。何度も時を巻き戻った貴方でしょう?」
 「フローラも……戻っていたの?」

 私は前に進み出て立ち止まった。夫婦の誓いを交わした祭壇の前で。

 「私、自分一人が巻き戻りを繰り返していると思っていたの。でも肺炎になって生死をさ迷い帰れなくなりそうになる度にマックスが呼び戻してくれたでしょう?まだ早過ぎる、冬の終わりまではまだ時間があるんだよって。だから私は帰って来られた。そして気が付いたの、冬の終わりに私が死ぬことをマックスは知っているんだって……」
 「そうか……。それなら、フローラは僕が憎いだろう。何度も何度も虐げて自ら死を選ぶほど追い詰めた僕が……」

 マックスが静かに立ち上がり私の隣に並ぶ。言葉を途切らせた私達の耳には揺らめく蝋燭の炎がチリチリと蝋を吸い上げる音が聞こえてきた。

 「いいえ……恨んでなんかいないわ、私には幸せなんて望めないんだって諦めていたから。私はただ哀しかっただけ。でも……初めの貴方は優しかった。それに二度目の貴方だって……。いつか優しい貴方にまた会えるんじゃないかと期待した時もあったけれど、いつからかそんな期待をするのも止めてしまったわ」
 「何度も何度も君を傷つけたのはわかっている。ごめん、本当にごめん」

 私は唇を噛んで項垂れるマックスの横顔を見上げた。

 「それは……もうどうでも良いわ。だけど理由くらい教えてくれるかしら?」

 私のお願いにマックスは深く頷いた。

 
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