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僕は何度も君を失った

僕はまたその鐘の音を聞いた

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 同じ言葉を告げた僕に今度もまた彼女は大人しく従った。違っていたのは彼女を客間に閉じ込めて外に出るのを禁じた事だ。一切の危険から彼女を護り抜くにはもうそれしかないと非情な決断をした僕は、鍵を掛けた客間に彼女を監禁した。

 彼女は己の不幸を嘆くでもなく日々本を読み刺繍をしレースを編み、感情の起伏もないままに同じような毎日を過ごしていたが、徐々に窓の外に広がる空をぼんやりと眺めている時間が増えていった。そんな様子を耳にする度にこれで良いのかと僕の心は揺れ動き、もう少しだと自分を律し続けた。今度こそ僕らは春を迎えてみせる。この冬の空が柔らかな春の青さに変わったら僕は彼女を解放しこの腕に抱き締めるのだ。僕は息を潜めてただただ一心に春の訪れを待っていた。

 「いいな、客間の施錠は確実にしてくれ」

 仕事に向かう僕を見送りに来たマイヤにそう言うと、マイヤは『承知しました』と答えつつ責めるような目で僕を見つめていた。マイヤは夕べ、庭園に出ることを許して欲しいと僕に懇願したのだ。

 「ほんの少しで良いのです。あのガーデンテーブルでせめてお茶を一杯召し上がったら奥様の気分も晴れるかも知れません。最近は特に塞ぎ込んでしまわれて、お食事も殆んど手付かずで……」

 嗚咽混じりに言葉を絞り出すマイヤに僕は『駄目だ』と一言言って踵を返した。頼む、お願いだから邪魔をしないでくれ、もう少しなんだとマイヤの肩を掴んで揺すりたいのを堪えながら足早に立ち去った。

 それなのに今度もまた僕らの季節は冬の終わりで潰えた。

 その日彼女は自ら命を絶ったのだ。バルコニーから身を投げて。



 至急帰宅して欲しいとそれだけを告げられて屋敷に戻った僕に駆け寄った執事がそう告げた時。その瞬間言葉の意味を理解するのを拒んだ心は凍りつき、やがてゆっくりと溶け出しながら現実を鋭利な刃物のようにキリキリと僕の胸に刻んでいった。

 彼女を死なせてしまったのは僕だ。僕が彼女を追い詰め自死に追いやったのだ。とうとう僕は、彼女に手を掛けたも同然の事をしてしまったのだ。


 彼女の亡骸を見下ろし冷たくなった彼女の手を握った僕は痩けてしまった彼女の頬の窪みをそっと撫でた。そうだ、マイヤは僕に言ったんだ。塞ぎ込んだ彼女は食事もほとんど手付かずなんだって。でも僕はもうすぐ訪れる春ばかりに気を取られ彼女の変化に気を留めようともしなかったのだ。こんなに窶れてしまう程、僕は彼女を追い詰めていたというのに。

 「僕はどうしたら君を失わずにいられたんだろう?」

 明日になって鐘の音を聞けばまた僕らはあの場所に戻るのだろう。僕はもう、それを疑いすらしない。当たり前のように初夏の青空に舞い散る花弁を見つめるだけだ。

 僕は彼女の前髪を撫で白磁のような額に口づけをした。

 「僕達二人は決して春を迎えられないのかも知れない。だからね、フローレンス。僕は君を失わない為に最後の可能性に掛けてみるよ。僕は君を愛している、愛しているんだ。だから……」

 
 魂の抜けた彼女と足掻き続ける事を胸に誓った僕の今生最後の夜は、静かに更けていった。
 
 

 

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