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あたらしい秋とめぐりくる春
百倍嬉しいのは
しおりを挟むドアがノックされる音と共に『旦那様』と呼び掛ける声が聞こえ、サティフォール伯、改めてエリィは立ち上がりドアを開けに行った。そしてティワゴンを押す音に振り返った私は思わず悲鳴を上げた。恐怖のじゃない、歓喜の悲鳴だ。叫びながら声の主に飛びついてぎゅうぎゅう抱きしめる。
「ラーナ、どうしてここにいるの?」
ラーナが答えるよりも先にエリィは私の腰に腕を廻しラーナから引きはがした。何をするのかと睨めば哀しそうな目をして見下ろして来る。
「わたしとの再会の百倍は嬉しそうにするなんてひど過ぎます」
「だって実際百倍嬉しいのですもの!」
無理矢理腕を解きもう一度ラーナに抱き着いて、エリィは無視することにした。
「膝は?痛くないの?」
「えぇ、ドレッセンで旦那様がお医者様を呼んでくれましてね。かなり良くなりました。それよりも姫様、お顔の色も良くなられたし、少しはお太りになられて何よりですわ。でももう少しお太りになられているかと思いましたのにまだまだですわね。もっとお太りにならなければいけませんわ」
ラーナさん、確かにそうなんだけど太るって言い方はやめて!
「ラーナは何も知らされないまま貴女の世話をしていただけだったので直ぐに釈放しました。暫く大使館で働いていたのですが、色々話をするうちに一緒にここについて行きたいと言ってくれましてね」
「だって、姫様がお戻りになるっていうじゃありませんの。他に行きたい所なんて一つもないですわ。さぁ、姫様がお好きなベリーのお茶をおいれしましたからね。召し上がり下さい」
私はエリィに促されソファに戻った。エリィは当然のように隣に座る。まぁいい、それよりもだ。
「ラーナ、今度こそ姫様って呼ぶのをやめましょうよ」
カップをテーブルに置くラーナに耳打ちするとラーナよりも先にエリィが口を開いた。
「これだけは変えられないそうですよ。領民達からも姫様と呼ばれているのでしょう?構わないではないですか」
「構わないでいられませんよ!大問題だわ」
『それなら』とエリィは私の肩に手をかけて顔を近付けた。
「一つだけ方法がありますよ」
「……?」
エリィの瞳には首を傾げぱちぱちと瞬く私がいた。彼はスッとその目を細め嬉しそうに笑う。
「領主と結婚すればルゥは奥方様と呼ばれますから」
「…………」
私はカップを持って立ち上がり無言のまま向かい側のソファに移動してストンと座った。それからゆっくりと一口紅茶を味わい静かにカップを置いてからラーナに向かって歎いた。
「どうしたら良いのかしら?こんな人ではなかったのよ。もっと真面目でカッチコチにお堅い方だったの。お仕事のし過ぎでどうかしちゃったのかしら?」
**********
夕食を取った後、宛がわれた私室で風呂を済ませそろそろ寝ようかという時にエリィに呼び出された。馬車に揺られっぱなしでやっとたどり着いたかと思えば、すっかりどうかしちゃった様子のハイドナー氏改めサティフォール伯改め『エリィ』に精神的にゴリゴリと削られ疲労困憊だったので、ベッドに飛び込めば即眠れるくらい眠かったのだけれど、領主様のお呼びだしなので仕方なしにサロンに向かう。
「すみません、急ぎの書類があったのを忘れておりまして」
エリィが持つしっかりした厚みの紙の束を目にして睡魔と戦い抜けるか不安が過ぎったがやるしかない。私は書類にザザッと目を通してはエリィからかい摘まんだ説明を受けサインをしていった。
もうあと数枚を残すだけになり手を伸ばそうとした時、『少し休憩しましょう』と言いながらエリィが果実酒を運んできた。このまま一気に終えてしまいたいけれど、彼も説明をして喉が渇いたのだろう。私はグラスを受け取り甘味の強い果実酒をちびちびと口にした。というのもセティルストリアでは18歳からお酒を飲めるのだけれど、私はなかなかのアルコールの弱さなのだ。薬物耐性の低さも関係有るのかも知れないが何しろ直ぐに眠くなる。
ブランデーを飲んでいたエリィはコトリとグラスを置いてこちらに顔を向け『一つ聞いても?』と尋ねた。
私が頷くと、エリィは言い辛そうに口を開いた。
「今でも……前の生に未練はありますか?」
「無いですよ」
私の即答が余りにも予想外だったのかエリィは呆気に取られていた。
「これだけ色々な経験をすると……もう今生で手一杯ですし。記憶が戻った頃は混乱したし戸惑いましたが、あれはあくまで私ではなく『中原由佳里』という人の人生なのだと思うんです。家族は今でも元気かしらくらいは考えますけれど」
「……そうですか」
エリィはグラスを取り上げて揺らしながらしばらく眺めていたが、視線を上げて私を見つめた。
「我が子を抱きたいとは思わない、そう言っていましたがその気持ちは?」
「あぁ、それなんですよね……なんというか……母性本能を使い果たしてしまった、みたいな感じ?」
「はぁ……」
「シンプルにごく単純に『もう結構』なんです。前世は別人の人生だって言ったのとは矛盾しているんですが……我が子というのはそれだけ別格の強烈な存在だったのかも知れません。ご承知の通り私は子どもが好きですし子どもからも好かれます。でも子どもを産み育てるって本当に大変な事なんですもの。アレをもう一度なんて、そんな気力とてもとてもありませんから」
多分そこなんだろうと思う。私が『足りない』のは子どもを望んでいないから。だから本能的に誰も愛さないし愛せない。
「…………」
「ルゥ?」
エリィに肩を叩かれてビクっと跳ね上がった。考えているうちにウトウトしてしまったらしい。ごめんなさいと言いながら目を擦ると、持っていたグラスを取り上げテーブルに書類を広げた。
「疲れているのに申し訳無かった。ルゥが領主館に滞在する許可の申請書、これに署名を貰えば終わります」
エリィは先に自分の名前を書き入れ私にペンと書類を渡してきた。指差された署名欄に『ピピル・アシュレイド』と書き込んでエリィに渡すと彼は満足そうに笑った。何だかやたらとご満悦だけど私は眠気の限界でこの人のご機嫌なんてもうどうでも良かった。塔にいた頃の眠れなかった自分にこの眠気を分けてあげたい。
部屋には辿り着いたけれど、そのままソファで寝落ちしているのを心配して様子を見に来たラーナに見つかったそうだ。しかも揺すっても呼び掛けても一向に起きないので困っていたら、気配を察したのかエリィがやって来てベッドに寝かせてくれたのだと聞いたのは、翌日の昼近くの事だった。
「よっぽどお疲れでしたのでしょう。王都に戻ったのにとんぼ返りしていらしたのですもの」
「だからってこんな時間まで目が覚めないなんて……。しかも運んで頂いたのも知らなかったのよ。呆れちゃうわ」
酔い潰れた割に二日酔いは無くて良かった。色々やらなくてはならない事があるのに寝込んでいる場合じゃあないのだ。シルセウスの冬はあっという間にやって来る。それまでに可能な限り仕事を進めておかなければならない。
**********
私は前々から腕が良いと見込んでいた街の女性数人に声を掛け学院の校舎でピピル刺繍の手解きを始めた。シルセウス刺繍技術者養成所の第一歩。有り難い事に王都の商会からはまた作品を取り扱いたいという申し出を受けたので、彼女達に教えながらアシスタントをしてもらう。そして技術を磨き彼女達も技術者として作品を造り、いずれ開く養成所の講師になって貰うのだ。
エリィは領内を忙しく飛び回っていた。邪な考えで領主になった事は否めないが、国の中枢で辣腕を振るった程の能力の高い人なのだ。シルセウスにとっては棚ボタと言える素晴らしい領主様である上に、国から毟り取った巨額の助成金を携えて来ている。この者ならばと託された助成金なのだから、エリィを新領主に迎える事ができたシルセウスは本当に幸運だと思う。
先ずは領民に援助を行き渡らせ生活を軌道に乗せ、それから色々な改革を進めていくという。やはり領民が歓迎してくれるからとパートリッジ氏同様エリィには私もちょこちょこ視察に同行させられた。それもだ、パートリッジ氏は一人で馬に乗らせてくれたのに、エリィは危ないからと自分の馬に乗せる。くっ、練習の甲斐あってかなり上達したというのに!
大体エリィは本当にどうかしちゃったらしいのだ。私は当たり前のように領主館に住むことになっていたけれど、エリィの部下達は普通にここ迄通勤しているんだもの。若い娘が一人では、と言われると……それに侯爵家から預かった大切な令嬢なのだから責任がある、と言われてしまうとぐうの音も出ないのを良いことに、だから外には出せないのだと困った顔をするのは狡いと思う。
その結果、当然のように朝食を一緒に食べ、仕事を終えて帰って来るとまた当然のように夕食を共にし、お休みの日にはなんだかんだと当然のように一日中側にいる。私はエリィと家族になりたくて遠路遥々やって来たわけではないのだけれど?
おまけに宣言通り一切の遠慮もなくどストレートに想いをぶつけてくるから、私の中のカタブツ大真面目のイメージは音を立てて崩れ去り困惑もいいところだ。箍が外れるってこんなにも恐ろしいのね。
それでもエリィとのシルセウスの生活は充実していた。色々な可能性を示しながら何をどう活かせば良いのか、話は尽きなくて時間があっという間に過ぎていくのだ。繰り返すがエリィは邪スタートながら有能な領主だ。私が任された刺繍事業について真剣に相談に乗ってくれるし助言もしてくれる。そして私の判断を尊重してくれるこの上なく尊敬できる上司なのだ。
ただし、直ぐにエリィがどうかしちゃって中断されるのには辟易とするが。
秋も深まり王都から追加で派遣された人達も加わりエリィの部下は一気に増えた。そして刺繍の工房も着々と人数が増え熱心な生徒達の技術も向上し、より多くの注文を請け負えるようになった。養成所の立ち上げに伴う作業も沢山あり私はてんてこ舞いだ。そんな中で自ずと領の経営に関しては一方的にエリィから話しを聞かされる事が多くなり、何だか私はそれが無性に寂しく感じるようになった。
一段と冷え込んだ朝、ヒラヒラと舞い降りる初雪を眺めていた私は、突然訳もなくどうにもならない空虚感に押し潰されそうになって泣き崩れていた。そこに入って来たラーナは当然の事ながら慌てふためいてオロオロしている。
「何なのかしら?わからないんだけど、心に穴が空いているみたいに感じたの。そこに雪が積もって行くみたいで胸が冷たくて……」
ひくひくとしゃくりあげる私の背中を撫でながらラーナは笑った。
「穴はね、姫様がご自分で空けっぱなしになさっているではないのですか!」
「私が?」
ラーナはエプロンの裾で私の涙を拭うと私の髪を撫でながら言った。
「ルナリー姫様にもそんな事がありましたわ。民の事ばかりに夢中になってご自分を見失ってしまわれたのでしょうね」
「それで姫様はどうなさったの?」
ラーナはご立派という他ない胸に私を抱いて両腕で包み込む。
「ご自分に向けられた愛情に気付かれましてね。そして受け入れられました。婚約された姫様はそれはお幸せそうでしたわ。残念ながらお相手はセティルストリア侵攻の時に亡くなられ、姫様もあのような事になってはしまいましたが」
「ラーナ。私思うのだけれど……。ルナリー王女は……王女だけが自害されたのではないかしら?」
不思議でならなかった。あれだけ身を守る術を持った城で、更に脱出手段も持ちながら何故国王夫妻と王女は城内で自害していたのか。シルセウスの未来をたった一人案じていた王女、彼女が最善と信じる選択を……元凶である両親を殺めたのではないか?
「わかりません。発見された時には皆様亡くなっておりましたからね。ですが短剣が胸元深くに刺さっていらしたのは確かに姫様だけでした。わたくしが知るのはそれだけですわ。苦しむ領民に目を向けるようになってくれた婚約者が亡くなったという知らせを受けて絶望されたのかも知れません。でもご存知なのは姫様のみ」
ラーナは腕を解き立ち上がるとお茶を入れた。私が好きなベリーのお茶をコトリとテーブルに置く。
「ラーナはね、何としてでもこの姫様にだけは幸せになって頂きたいのですよ。でもアルフレッド王子ではダメですわ。あんなに姫様を想っていながら守ろうとしなかったなんてもっての他です」
「でも結局は危険を承知で王都に行ってくれたわ。だから許してやって。カイル達もよ」
ラーナは心底呆れたように大きな溜息をついた。
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