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にどめの春

冷たい海と温かい手

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 私は真っ暗な深く冷たい海の中をゆっくりと沈んでいる。もうどれ程の時間こうしているのかわからなかったが、ゆっくりと、でも確実に身体は海底に引き寄せられるように沈んでいく。暗い海の中は何も見えず何の音も聞こえない。


 苦しさも辛さもないけれど、暗くて何も見えず音もない海で独りぼっちなのが心細く寂しくて堪らなかった。寂しくて寂しくていつの間にかはらはらと溢れた涙は海に溶けていく。海底まで沈んだら私の身体も涙のように海に溶けて消えてしまうのではないか?そんな恐怖が頭を過ぎったが、私には指先を動かす力すら無くただひたすら暗い海を沈み続けた。


 そうしてどれ程の時間が過ぎたのか?


 私は右手が温かいものに包み込まれるのを感じた。暗くて何も見えないけれどこれはきっと誰かの手だ。誰の手かわからないのに不思議と恐さも不快感もなく、温かさが心地好い。ゆっくりと漂いながら沈み続けた暗い海からその手は力強く私を引き上げていく。私はもう寂しくなんかなかった。私の手を引いてくれるその手の温かさと優しさで心が満たされていくだけだ。


 突き刺されるようだった海の冷たさは何時しか和らぎ、キラキラと揺らめく日の光が眩しくて顔をしかめた。すると私の手を握っていた誰かはその手を解き、代わりに私の頬を優しく撫でる。はらはらと流し続けていた涙を親指で拭われ、そして大きく息を吐いた。息を?私達は海面に出たの?


 「意識が……」


 囁き声が聞こえてきた時、もう私は海の中にはいなかった。フワフワした心地好い所に横たえられていて、顔をしかめるほど眩しかった日の光も和らいでいる。自然に瞼が開き瞬きを繰り返すとそこは薄暗い部屋だった。自分の部屋でも生まれ育った家でも前世で暮らした家でもない見知らぬ部屋。私は何処にいるんだろう?それに今の私は一体誰なの?前世の私?今生の私?それとも別の誰かになった?考えようとするけれど頭が重くて上手く働いてくれない。ボーッとしたままゆっくりと目を動かしたら、ランプの明かりに照らされて私の横に腰掛けている殿下と目が合った。


 私は再び瞬きを繰り返した。相変わらず重たいままの頭だけれど、自分がベッドに寝かされていて殿下はその縁に腰掛けながら私の手を握り頭を撫でている、という状況に有ることは理解できた。と、いうことは私はピピルなんですね。


 ……ん?ちょっと待て!殿下が?私の手を握り??頭を撫でる???……そんなバカな!?


 有り得ないにも程があるのでやっぱりまだ目が覚めていないに違いない。きっとここはまだ夢の中だ。だってまだ頭がボーッとしているし……現実だったら天変地異が起きちゃいかねない異常事態だよ。やっぱりここはピピルの夢の中なんだわ。


 目が覚めなかった事するべく目を閉じようとしたのだけれど


 「気がついたか?」


 と呼び止められてしまった。


 声にも口調にも棘がない殿下……ということはやっぱりこの人は夢の世界の殿下なんですね。お優しそうで何よりですわ。


 「気分はどうだ?何処か辛いところは?」

 「特に…ありませ…ん……が……ボーッと…します」


 そう答えると、殿下は目を細めて微笑んで冷たい指で私の頬を撫でた。うーん、それとも今度はパラレルワールドに居るのかな?殿下が優しい世界??転生なんかしたくらいなんだからもう何が起こっても不思議じゃないよね?


 「辛ければ無理をしなくて良いんだが、答えられるか?時間が空くと記憶があやふやになる可能性があるんだ」


 私が小さく頷くと殿下は再び頭を撫でながら『すまない』と言った。殿下が謝ると言うことはやっぱり夢の中なのに、事情聴取っていう現実的なことはするんですね。


 「何があったか覚えているか?君はオルレアと名乗る男に連れられてダンスフロアに行った。それから何があったんだ?」

 「貴女は…小鳥……とか言った…人?……あぁ、殿下に……虐げられ…て……冷たい仕打ち…を…されていて……このままでは…心が壊れる……一緒に逃げよう…と………あんまり…面倒だったから……きっぱりと断った…ら……急に…苦しみ出し…て……薬を飲みたいので…水が…欲しいって……」

 「それで君は水の入ったグラスを持っていたんだね」

 「給仕に届けて貰おう…と…したのですが、居なくて自分で……。テラスのベンチで座って…いるのが見えたので……届けようと…でも、よく似た別の人だったんです。そしたら大きな音が……聞こえてきて…テラスから転げ落ちてしまったかと……。階段を降りてみたら……立ってた」

 「苦しんでいたはずのあの男がだな」

 「そうです。首がチクッと痛んで声が……出なくなって…力も抜けて……眠くて眠くて……。割れたグラス…があれば、何かあったと…気がつかれるかと……階段に投げました」


 私の手を握る殿下の親指が手の甲をそうっと撫でた。そして私をじっと見下ろし息を殺して次の言葉を待っている。私は上手く回らぬ舌で話を続けた。


 「裏庭に連れて行かれるみたい…だったので、靴…を片方ずつ落として……足が痛くなったけれど…こっちに来たって……わかるかなって」

 「あぁ、わかったよ。しかしそのせいで君の足は傷だらけだったんだね」

 「噴水の側で別の男達…に抱えられそう…になって……暴れて水の中に…入りました」

 「どうして噴水に入ったんだ?逃げようとしたのか?」


 小さく首を振っただけなのに天地がわからないほど頭がクラクラして小さく悲鳴を上げてしまう。殿下は気遣わし気に顔を歪めて頬に手を添えてきた。


 「あの噴水の水……冷たいから。眠気が…覚めるかと思って……少しでも長く意識を…保っておきたかった。それに…ドレスが濡れれば……重くなります。運ぶのは大変……でしょう?逃げるの…はきっと……無理だから…どうにかして…せめて時間稼ぎを……しようと……。ついでに…男達も水の中…に……倒して…やりました。服が濡れ…て動き辛そうで…それに寒くてガタガタ震えて……いましたよ」


 洗い終わった洗濯物だって結構重いんだから、ずぶ濡れになって水を含んだドレスなんてどれだけ凄いことか。しかも自分達もびしょびしょで寒くて震えていたんだから思うように動けなかったに違いない。


 「その後は……眠くて…どうしても目が開けて…いられなくなって……音も聞こえなくなったし……もうわからない…です。私は……どうしたの?…どう…なったの?」


 殿下に頬を拭われて、自分が今もまだ涙を流していたことに気がついた。私はなんで泣いているんだろう?


 「何も心配はいらない。君はその後馬車に乗せられそうになっているところを助け出された。関わった者達も拘束している。君は……本当に良くやったね」

 「ハイドナー様は……怒って…ない?」

 「ジェフリーが?どうして?」

 「テラスに出たか…ら」


 殿下は笑いながら私の頬をくにゅっとつまんだ。

 やだ、私に向かっての笑顔なんて本邦初公開だよ。やっぱりここ、パラレルワールドなんだわ。


 「そうだね、僕の所に戻ってくればこんなことにはならなかったが、仕方がなかったと思う。目の前で人が苦しんだんだろう?ジェフリーも解っているよ」

 「アル…は?」

 「アルバートもだ」

 「そう……」


 ずっと我慢していたのに、堪え切れなくなった嗚咽が漏れた。きっと沢山の人に迷惑をかけてしまっているはずだけれど、自分がしたことを肯定してもらえた事にホッとしたのだと思う。それが不安で堪らなかったのか。殿下はつまんでいた頬を離しまた頭を撫でてくれた。この殿下、甘すぎてむしろ怖い。ついでに気味が悪い……。


 渡されたタオルを目に押し当ててしゃくりあげて泣いて居るうちに、目が覚めてきたのか頭がハッキリしてきた。落ち着いて冷静に眺めると殿下のアクアマリンの瞳を縁取る睫毛の一本一本までハッキリ見えて曖昧な部分なんて一つもない。ということは、つまりどうやらここは少なくとも夢の中ではない、のですか?


 「ひょっとして…………殿下?」

 「今まで誰だと思って話をしていたんだ?」


 やはりこの殿下とあの殿下はどうやら同じ殿下のようだ、多分。今微妙に口調が刺々しくなったものね。


 現実だと判ったからには一つ確認したい事がある。忘れる前に聞いておこうと私は殿下に尋ねた。


 「あの……この世界に………奥歯に仕込む…薬物…は……ありますか?」


 動揺のあまりついうっかり転生者目線の質問になってしまったよ。殿下は一瞬怪訝な顔をしたけれど、私が朦朧としているせいだと解釈したのかその表情はすぐに消えた。


 「あの男は奥歯を噛み締めたのか?」

 「はい……そうしたら…急に……苦しみ出し…たの…で……。」

 「そういう事か。だったら君が離れた隙に解毒剤を飲んだんだろう」


 やっぱりか!持病が有るように見せ掛けて薬を飲みたいだなんて。あいつめ、人の親切を仇で返したわね。辛そうに顔を背けたあの時歯を食いしばったのは、仕込んだカプセル状の容器を割って薬を飲むためだったんだ。人の親切心に付け込んで恩を仇で返すなんて!あの男、何かとてつもなく不運な呪いをかけてやりたい。とてつもない不運…どんな内容が良い…かし…ら………


 「…………」

 「ピピル、どうした?」

 「……えっ…と……」


 どうやらまた眠気が振り返したみたいだ。何だか抵抗しようにもどうにもならない眠さ。開けようとして必死に頑張るけれど勝手に瞼が落ちてきてしまう。


 「でん…か……、ごめんな…さい……とっても…眠…く…て……」


 閉じてしまった瞼はもう開けることができず、何か柔らかいものが額に触れたけれど、それが何か確かめられないまま私は眠りに落ちていったのだった。



 


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