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第一部
第2話 町田家の日常 2
しおりを挟む臙脂のネクタイを締め、濃紺のジャケットを肩に引っ掛けて階下へ降りる。ダイニングへ駆け込むと、対面式のキッチンからカウンター越しに母が声を掛けてきた。
「あら、おはよう、丞。今朝は随分賑やかだったのね」
「おはよっ、永の馬鹿が余計なことするから遅くなっちまった。悪いけど、朝飯トーストだけでいいよ」
「――誰が馬鹿だって?」
食卓に向かおうとした丞の首を後ろから両腕を絡めてガッシリと捕らえたのは、言わずと知れた永。高三の割に多少小柄な丞は、ただ今絶賛伸び盛りの永(中三)と体格がほとんど変わらなかった。
「お前以外誰がいんだよ。――放せ。もう時間ねぇんだ。終いにゃ、俺だってキレるぞ」
そのまま永をズルズルと引き摺って食卓に近付く。トーストをホットミルクで流し込む兄を見て、永は漸くその首を解放した。
最後のひと口を飲もうとマグカップを持ち上げた丞の耳に、聞き飽きてもはや呆れた溜息しか出ない遣り取りが聞こえてくる。
「――なぁ、恵。今度の土日は?」
「ごめん。金曜から三日間出張なんだ」
「えー? 出張? そんなのサボっちまえよー。風邪ひいたとか言ってさ。――俺は、ちょっとでも長く恵の傍にいたいのに……」
「そんなわけにはいかないよ。――ゴールデンウィークはちゃんと休めるから、その時皆で何処かへ遊びに行こう。ね?」
「皆でなんてやだ。恵と二人っきりがいい」
「覓――。聞き分けのないこと言わないで……」
リビングのソファで縺れ合っている――いや、正確には一人が一方的に縺れているだけなのだが――のは、恵と覓。グレーのスーツを着込んだ恵を半ばソファに押し倒すようにして、上に重なった覓が兄の腰を抱いていた。
見慣れた情景に何を言う気力も萎えるのは、もう毎度のことだ。
「……またやってんのか、覓は」
「そりゃぁね、恒例行事みたいなもんだし。けど、朝っぱらからああやって見せ付けられるとさー、純情な俺としちゃ多大にその影響を受けちゃうわけよ。そこにもってきて、丞のあの寝顔だろ? 多感な中学三年生が、何もしねぇでいられると思う?」
覓に便乗して正面から抱き付こうとする永の頬を、両手で抓って横に引っ張る。
「いへ…っ、いひゃいっへ!」
「何処をどうほじくり返したら、お前が純情だなんて天変地異的な言葉が出てくるんだよ、えぇ? ……まったく覓もお前も、本っ当に傍迷惑な野郎だ」
――そう、これが町田家のいつもの風景。
優しい長兄・恵に恋心を抱く三男・覓は、時も場所も選ばず暇さえあれば傍に寄って、恵に熱烈なラブコールを送る。それを毎回宥めすかす恵の気苦労は半端なものでは無い。
覓の求愛行動をしょっちゅう目にする次男・丞と末っ子・永。家族思いの丞は、行き過ぎそうになる覓の行動を度々制止して兄を守っているが、お気楽主義の永はいつも傍観を決め込んでいる。それどころか、時には覓に感化されて純な次兄をからかうマセガキときているから始末に負えない。今朝のように寝込みを襲うなど、茶飯事すぎて数えていたらキリが無いのだ。
父の陸郎は単身赴任で二年前から家にいない。まあ、いたとしてもかなりノホホンな性格なので、何処から見ても普通では無い四兄弟の生活に口を出すとは、到底考えられないのだが。
母、あかりも然りだ。目の前で繰り広げられる息子達の異常なイチャつきをものともせず、平気な顔で食器を洗うその神経を、丞は何度疑ったか知れない。要するに天然なのだと気付いたのは、ごく最近のことだった――。
抓られて赤くなった頬を摩りながら、永が涙目で言う。
「丞。龍兄ちゃん、来たみたいだぜ」
それに被るように、玄関から「おはよー」という爽やかな声が聞こえてきた。慌ててジャケットと鞄を引っ掴むと玄関に向かう。途中、もう一度だけリビングを見遣った。気にはなるものの、さすがの覓も平日の朝から大それた行動は取らないことを知っている。何を言っても無駄だとは分かっているが、困り顔の長兄の為にひと言だけ声を掛けた。
「覓。いい加減にしねぇと恵が電車に乗り遅れちまうだろ。スーツだって皺になるし…、それにお前も遅刻するぞ? 俺は先に行くからな」
ほとんど三男の耳には入っていないのだろうと思いながら、丞は玄関で待つ幼馴染の元へと急いだ。
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