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第3部

第八章 《悪竜》と《妖星》のダンス⑥

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 そして《ディノ=バロウス》は地を蹴った。
 地面を陥没させるほどの加速。そのすべての力を乗せて処刑刀を振り下ろす!


『――クッ!』


 対するリノは『海流』を操った。
 刃を受け止めるように両手をかざして身構える《水妖星》。その掌で作られた空間内はおよそ二十倍の圧力がある。

 ――ズンッ!

 刃の勢いは急激に落ちた。だが、完全に止まらない。ゆっくりと削ぎ落すように処刑刀は《水妖星》に近付いてくる。明らかに膂力で押されていた。


『……チィ』


 リノは小さく舌打ちすると、再び『海流』を操った。
 濁流のような衝撃が真横から《ディノ=バロウス》に襲い来る!


『――ぐッ!』『あ、あう!』


 今回呻いたのはコウタとメルティアだった。
 そして《ディノ=バロウス》は炎を揺らして横に弾き飛ばされる。
 が、空中で体勢を整え直し、ガガガッと地面に足を打ちつけて停止した。


『逃さぬぞ!』


 そう叫び、《水妖星》は右手をかざした。
 途端、ガコンッと《ディノ=バロウス》の両足が沈み込んだ。悪竜の騎士の周辺のみ、圧力を五十倍にまで引き上げたのである。

 並みの機体なら立つことも叶わないほどの重圧。
 しかし、《ディノ=バロウス》は――。


『な、な、に?』


 リノは大きく目を見開いた。
 ――ズシン、ズシン、と。
 流石に装甲こそ軋ませるが、悪竜の騎士はゆっくりと前に進み始めたのだ。

 これほどの重圧さえ歯牙にもかけないとは……。
 もはやこれ以上、試すまでもない。
 この炎を纏う鎧機兵は、先程までの機体とは完全に別物だった。

 そして《ディノ=バロウス》は吠える!


『――行くよ! リノ!』


 主人たる少年がそう宣言し、悪竜の騎士は再び地を蹴った。
 今度の加速は先程よりも遥かに速い。
 恒力を足裏から噴出する高速移動の闘技――《雷歩》だ。炎の鎧機兵は処刑刀を横に振りかぶりながら一瞬で接近する。

 だが、その動きはすでにリノは読んでいた。
 愛機の尾びれを大きく動かし、上空に回避。処刑刀は空を切った。
 十数セージルほど浮上した《水妖星》は、眼下の悪竜の騎士を睨みつけた。


『舐めるでないぞ! コウタ!』


 リノは少年の名を叫んだ。
 同時に《水妖星》が両手を振り上げた。そしてまずは右腕を振り下ろす!

 ――ガゴンッ!

 その直後、《ディノ=バロウス》から少し離れた場所にて、巨大な鉄鎚に打ちつけられたような跡が地面に刻まれる。
 続けて左腕を振り下ろす《水妖星》。再び地面に衝撃が刻まれた。
 さらに右手、左手と《水妖星》は攻撃を繰り返す。徐々に近付きつつ、次々と刻まれる傷跡はまるで見えない巨人がゆっくりと接近して来るようだった。


『…………』


 対し、無言のまま《ディノ=バロウス》は処刑刀を身構える。わざわざ軌道が分かるようにしているのは何かしらの意図があるのか。
 何にせよ、衝撃を警戒した――その直後だった。


『かかったなコウタ』

『――ッ!』


 ギシギシ、と大きく軋み始める《ディノ=バロウス》の装甲。
 動きがいきなり縛られる。リノの《深海空域》の力だ。しかし、重圧による束縛をする動作など《水妖星》は一切見せていなかったのだが……。


(しまった! この力って別に所作なんて関係ないんだ!)


 両腕の動きや、それに合わせた衝撃はただの囮。
 本命は密かに《ディノ=バロウス》の動きを束縛すること。

 ――いや、それさえも……。


『……ぐうッ!』『きゃあ!』


 コウタが呻き、メルティアが彼の腰をギュッと掴んで悲鳴を上げる。
 迫ってきていた鉄鎚の衝撃が《ディノ=バロウス》に襲い掛かってきたのだ。

 ――これが本命。
 重圧による束縛は、確実に攻撃を当てるための伏線だったのだ。

 ビキビキッと装甲が軋み始める悪竜の騎士。
 天空からの濁流には未だ収まる兆しはない。恐らくこの力は、リノの意思次第で限りなく続くのだろう。これではまるで大瀑布の牢獄だ。


(このままだとまずい!)


 コウタはグッと歯を食いしばり、《ディノ=バロウス》に意志を伝えた。
 悪竜の騎士は軋む機体を大出力で動かし、処刑刀を横に身構える。そして地を強く踏みしめて、全力の《飛刃》を《水妖星》めがけて解き放った!

 不可視かつ巨大な刃は、無音のまま上空にいる《水妖星》に迫る――が、


『ふん。甘いぞコウタ』


 いかに巨大であっても所詮は飛び道具。
 彼女が生み出した『海』の前では無力だった。
 眼にこそ見えないが巨大な《飛刃》はみるみる勢いを失い、《水妖星》にわずかな傷を与えることもなく消えていった。
 それを『海』と通して感じ取り、リノは不敵に笑う。が、


『な、なに!?』


 すぐさま愕然と目を見開く。
 何故なら、すぐ目の前に《ディノ=バロウス》の姿があったからだ。
 炎の鎧機兵は大きく処刑刀を振りかぶっていた。


『――お返しだよリノ!』


 コウタが叫ぶ。《飛刃》は最初から意識をそむけるためだけに放ったのだ。
 迎撃に意識を傾けさせて、大瀑布の牢獄から注意を逸らさせる。
 その隙に《雷歩》で飛翔する。それがコウタの狙いだった。
 そして迫る黒い刃。


『――くうッ!』


 もはや『海』で防御することも間に合わず、《水妖星》は咄嗟に両腕を交差させて処刑刀の一撃を受け止めた。
 金属同士がぶつかり合い、空中では火花が散った。
 が、足場のない空中では防御よりも攻撃の方が有利だった。


『くあっ』


 少女の苦悶の声が《水妖星》から零れ落ちる。
 そして斬撃の勢いは止め切れず、水色の機体は地面に向けて落下した。

 ――ズズウゥン!

 渓谷に響き渡る轟音。


『リ、リノさま!』『――支部長!』『ば、馬鹿な!』


 支部長たる少女の予想もしていなかった劣勢に、部下である黒い鎧機兵達は思わず戦闘を止めるほど動揺した。
 しかし、そんな心配も杞憂に終わる。
 濛々と立ち籠もる砂埃の中、ゆっくりと《水妖星》は浮上したからだ。
 そうして地面から一セージルほどの位置で止まると、


『……わらわに構うな』


 リノは長として部下達に告げる。


『お主らは戦闘に集中せよ』


 対し、部下達は『――はっ』『了解しました』とそれぞれの台詞で応えた。
 同時にズズンと《ディノ=バロウス》が空中から帰還した。
 しばし《水妖星》と《ディノ=バロウス》の間に静寂が訪れる。
 そして数秒ほどが経過し――。


『ふふ……』


 唐突にリノは笑みを零した。
 それは見る者、その誰をも魅了するような蠱惑の笑みだった。


『あはは……はははっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっははははははッ!』


 そして彼女は大きな胸を支えるように片手を当てて、実に嬉しそうに笑う。
 そんな少女に困惑したのは、対峙するコウタ達だった。


『……リノ?』


 コウタは訝しげに眉根を寄せる。
 一体、何がそんなにおかしいのだろうか。
 彼の後ろにいるメルティアも、怪訝な顔をしていた。


『くくく、いやなに』


 すると、リノは少し笑うのを抑えて告げる。


『お主の力が想像以上で嬉しくなっただけじゃ。しかしのう……』


 そこで少女は表情を改める。


『こうも押されっぱなしと言うのも少々癪じゃな。それにわらわも《九妖星》の一角。これ以上遅れを取っては沽券にも関わるしの』


 そしてリノは「これはやむを得んのう」と小さく呟き、一方、愛機である《水妖星》は大きく両手を広げた。


『ここは切り札を使うことにしようかの』


 と、リノは真剣な表情で語る。
 コウタの表情もまた緊迫したモノになった。
 どれほど親しいと言ってもやはり彼女は《九妖星》だ。その切り札ともなればどれほど危険なものなのか分からない。警戒しない訳にはいかなかった。


「……コウタ」


 メルティアも不安そうな声を上げる。


「……大丈夫だよメル」


 そっとメルティアの腕に触れ、コウタはそう告げる。
 そんな中、いよいよリノが動き出した。


『死ぬでないぞ。コウタよ』


 少女がそう呟き、同時に《水妖星》が両手をゆっくりと合わせた。
 そして必殺の闘技の名を厳かに呟く。


『――来たれ。《死界領域》』

『――ッ!』


 その直後、コウタは息を呑んだ。
 傍らのメルティアは大きく目を見開き、唇を噛みしめている。
 いきなり《ディノ=バロウス》の全身が軋み始めたのだ。
 ――いや、それだけではない。周囲の石が渦を巻くように浮き上がり、大岩は次々と崩れ落ちる。その欠片は猛烈な勢いで悪竜の騎士に襲い掛かった。

 そして《水妖星》を中心に空間はますます苛烈さを増す。
 恒力値が三万五千ジンを超す《ディノ=バロウス》でさえも立っているのがやっとの大嵐が、その場に生み出された。


『……ぐううゥ』


 コウタは渋面を浮かべて呻き、メルティアは少年の邪魔にならないように、必死に悲鳴を抑えた。その間も《ディノ=バロウス》の機体は軋みを上げ続ける。

 それは『重圧』と『海流』を合わせもつ大技。
 空間系とも呼ぶべき《黄道法》の闘技――《死界領域》。

 強敵のみに使用する《水妖星》リノ=エヴァンシードの切り札であった。


(まずい……このままだと何も出来ずに圧潰される!)


 竜巻のごとき猛威を前にして、コウタは冷たい汗を流す。
 やはり《九妖星》を名乗る者は等しく化け物だ。改めてその認識を強めた。
 だが、ここで易々と敗北するつもりもない。
 ズシンと地を踏みしめ、《ディノ=バロウス》は《水妖星》を睨み据えた。
 もはやこの状況を打開するにはこれしかない。


(……リノ。ごめん。少し痛くするよ)


 そして渦巻く空間の中で轟く雷音。悪竜の騎士は渾身の力を以て《雷歩》を使い、この大嵐の主に斬りかかる――が、


『やれやれ。甘いのうコウタよ』


 リノは不敵に笑った。途端、《ディノ=バロウス》の全身がギシリと悲鳴を上げた。突進の速度が一気に減速し、遂には《水妖星》の直前でたたらを踏んだ。
 刀身は無情にも《水妖星》には届かず、直前で止められてしまったのだ。


『わらわの《死界領域》は《水妖星》に近付くほど強力になる。いかにその機体でも間合いが遠すぎたのう』


 と、リノが言う。そして《水妖星》はそっと処刑刀の刀身に触れた。
 すると、一筋の大きな亀裂が剣腹に走り、バキンッと音を立てて処刑刀は半ばから砕け散ってしまった。


『ふふ、これでお主は無手になったの』


 リノは微笑みさえ浮かべてそう告げた。
 これで最大の武器は奪った。彼女は勝利を確信していた。
 しかし、その直後のことだった。
 少年の不敵な声が、彼女の耳に届いたのは。


『ははっ、甘いのはお互い様だよ。リノ』

『……なんじゃと?』


 リノは眉根を寄せた。すると、ギシギシと軋みを上げながらも悪竜の騎士が動き出したではないか。炎の鎧機兵は腕を震わせて折れた処刑刀を横に振りかぶった。


『なんと! まだ動けるとはの』


 リノは少し驚いた。この大圧力と破壊の渦の中、ここまで《水妖星》に近付いてなお動けるとは七万二千ジンの恒力値は伊達ではないということか。

 しかし、それも悪あがきだ。
 今さら折れた剣を振りかぶったところで意味はない。短い刀身など間合いを少し外せば簡単に回避できる。リノは愛機を一歩ほど下がらせた。

 そして同時に《ディノ=バロウス》が折れた処刑刀を振り抜いた。
 が、予測通り間合いの外だ。
 結局、コウタの最後の攻撃は空振りに終わる――はずだった。


『――なッ!』


 その時、リノは大きく双眸を見開いた。
 突然悪竜の騎士が纏っていた炎が刀身を伝い、折れた部位を補ったからだ。
 それは、まさに《悪竜の劫火》を宿す大剣であった。

 そして《ディノ=バロウス》はその劫火の大剣を横に薙ぐ!


『――ぬおっ!』


 予期せぬ攻撃に、思わず硬直するリノ。
 が、それでも《九妖星》の一角。すぐさま衝撃に備えて身構える――が、


(……? なんじゃ?)


 煌々とモニターを覆い尽くす炎を前にして、リノは眉根を寄せた。
 眩しいまでの輝き。しかし、何故か衝撃は来なかった。


「これはどういうことじゃ?」


 愛機の中で眉をひそめる――が、次の瞬間、彼女は青ざめた。
 何故ならば赤い輝きが消えた時、目の前にそっと愛機の胸部装甲に手を添える《ディノ=バロウス》の姿があったからだ。

 ――ま、まさか、先程の炎は……。


『ふふ、引っかかったね、リノ』


 と、どこかいたずら小僧のように告げてくるコウタ。
 そしてリノが何かを言う前に、強い衝撃が《水妖星》を揺らした。


「く、ああ!」


 リノは小さな呻き声を上げた。
 続けて、後方に引きずり込まれるような衝撃が操縦席を襲う。
 さらに連続して地面に叩きつけられる衝撃。一瞬後には《水妖星》は十数セージルも吹き飛ばされてしまっていた。


「……ぐ、うゥ。ぬかったわ」


 ふらつく頭を強引に抑え、リノは渋面を浮かべた。
 先程の炎の剣。あまりにも豪快な技だったため、見誤ってしまった。
 あれは結局ただの目くらましだったのだ。炎で一瞬だけ視界を奪うと急接近し、隙だらけの《水妖星》に至近距離からの《穿風》を叩きつけたのだろう。

 完全に嵌められてしまった。
 まさかこんな手段で《死界領域》が破られるとは……。


(……むむ。コウタよ)


 わずかに眉をしかめ、ギュッと下唇をかみしめる。
 いかに愛しき人といえど、必殺の技を破られるのは面白くない。
 見事と賞賛する気持ちもあるが、少しばかりプライドが傷ついてしまった。


「やってくれたな、コウタよ」


 リノはポツリと呟く。


「ふん。これは少々お仕置きが必要じゃな」


 続いてそう嘯き、彼女は《水妖星》を立て直し始めた。
 仮にも《黒陽社》最強の機体の一機。この程度では戦闘不能にはならない。
 そして再びゆらゆらと宙に漂う《水妖星》。
 その主人たる少女は鋭い眼光で《ディノ=バロウス》を睨み据えた。彼女の美麗な顔はとても艶やめいている。

 この時、少女のテンションはこの上なくヒートアップしていた。もはや自制さえも効かないぐらい、ただ真直ぐコウタだけを見つめていた。

 このままでは殺し合いにまで発展しそうなほど、彼に夢中になっていたのだ。


『ふふ、コウタよ。まだまだダンスは終わらせんぞ』


 と、明らかに高揚した様子でリノは告げる。
 対するコウタの操る《ディノ=バロウス》も処刑刀を投げ捨て身構えた。
 渓谷の一角に、張り詰めた空気が訪れ、互いに間合いを計る二機。

 と、その時だった。

 ――ズズウゥンッッ!

 そんな途轍もない轟音が、渓谷に鳴り響いたのは。


『――え?』

『な、何じゃ! 何事じゃ!』


 唖然とした声を上げるコウタとリノ。周辺で戦闘していた者達もギョッとし、静観していたメルティアも目を丸くした。


「え、な、何ですか……あれは?」


 コウタの腰を掴みながら、メルティアは呟く。
 彼女の視線の先。丁度《ディノ=バロウス》と《水妖星》の中間辺りの地面だ。
 そこに突如、巨大な槍が撃ちこまれたのだ。

 それは、黄金に光輝く槍。
 恐らくは鎧機兵用だとは思うが、まるで《夜の女神》が所有する黄金の神槍を彷彿させるような美しく神々しい槍だった。

 その場にいる誰もが目を奪われる――が、しばらくすると、その黄金の槍は光の粒子と成って消えていった。

 そして戦場に静寂が訪れる。
 一体、今の黄金の槍は何だったのだろうか。
 コウタやメルティアも含めて全員が困惑していた。

 が、そんな状況の中で――。


(……まったく。意外とお節介じゃのう。あの女も)


 リノは大きく息を吐き出し、少し呆気に取られていた。
 それから皮肉げに口元を綻ばせる。


(何とも暇な奴じゃな。どこぞで見物しておったのか?)


 心の中でそう思い、ちらりと崖上に目をやった。
 突如、撃ちこまれた黄金の槍。
 誰もが困惑したが、リノだけは今の槍の意図を理解していた。
 あの黄金の槍は、戦闘を停止させるために撃ちこまれたのだ。
 頭に血が上り始めたリノを止める冷水代わりに撃ちこまれたのである。


(やれやれじゃな)


 リノは愛機の中で深呼吸をした。
 おかげで高揚していた心が、少しだけ落ち着いているのを感じる。
 あのままでは最悪、自分かコウタ、もしくは二人とも死ぬまで戦闘を続けていたかもしれない。それぐらいリノの頭には血が昇っていた。

 だからこそ『彼女』は止めてくれたのだろう。


(全くもって世話好きな『お姉さん』じゃの)


 黄金の槍が放たれたであろう崖の上をもう一度見やり、この国で少しだけ親しくなった黒髪の女性を思い出しながら、リノは苦笑を浮かべた。
 ともあれ、これで引き際を見誤ることもなさそうだ。

 リノは未だ困惑している《ディノ=バロウス》を見つめる。
 愛しい人が操る異形の鎧機兵。実に手強い相手だった。
 名残惜しくはあるが、今日はここまでだ。


『……コウタよ』

『え?』


 名前を呼ばれ、《ディノ=バロウス》が《水妖星》に視線を向けた。
 対し《水妖星》――リノは語る。


『悪いが今日はここまでじゃ。これ以上、時間が経過しては少々やばいからの』

『………リノ』


 コウタは躊躇うように少女の名を呼んだ。
 ここで戦闘を続行するのか、彼もまた迷っていた。
 正直これ以上の戦闘は命のやり取りになるような気がしていたのだ。

 しかし、騎士として彼女を見逃すのは――。
 と、悩んでいた時だった。

 不意にリノが《水妖星》の中で、ニカッと笑ったのだ。
 それは晴天を思わせるほどの実に清々しいまでの笑顔だった。


『ふふ、じゃが、こうして戦い、改めて決めたぞ!』


 そして、菫色の髪の少女は意気揚々と語り出す。


『今ここに宣言するぞ! コウタ=ヒラサカよ! 炎を纏いし悪竜の騎士よ! お主は誰よりも強くなれ! そして――』


 そこで一拍置いて、コウタの生真面目な迷いなど見事に粉砕するぐらいの、とんでもない台詞を彼女は言い放つのだった。


『わらわを奪うのじゃ! わらわの心も身体も力もじゃぞ! わらわのすべてを奪い尽くし自分のものにせよ!』

『………え?』


 いきなり過激かつ想定外なことを言う少女に、コウタは目を丸くした。
 彼の後ろに座るメルティアなど完全に絶句している。


『な、な、何言ってるのさリノ!?』


 思わず愕然とした声を上げるコウタ。
 が、少年の動揺には一切構わず、リノは瞳を愛しげに細めて続ける。


『わらわはお主を愛しておる。コウタよ。だからこそお主に奪われたいのじゃ。わらわの背負う深い「闇」ごとな』


 今度は真直ぐなまでの愛の言葉。


『え、えっと、リ、リノ……?』


 続く言葉が思いつかない。
 鈍感王でさえ誤認しようもないぐらい直球な言葉を叩きつけられ、流石に動揺するコウタであったが、街中での彼女の笑顔も脳裏に蘇り、思わず顔が赤くなる。

 しかし、同時に違和感も覚えた。
 何故だろうか、彼女の言葉はどこか……。


『……ふふ、ではさらばじゃ。我が愛しき主さまよ』


 そう言ってリノは、《水妖星》を浮上させた。


『え? ま、待ってよリノ!』


 と、呼び掛けるが《水妖星》は止まらない。
 そして数十セージルまで昇ると、眼下の部下達に命じる。


『これ以上の戦闘は無意味じゃ。撤退するぞ』


 それは決して大きくない声だったが、黒い鎧機兵達の対応は迅速だった。
 各機が対峙した敵機を押しのけると、一斉に煙幕弾を放ったのだ。


『――クッ!』『くそ! ここまで来て逃げる気かよ!』


 いきなり視界を白い煙幕でふさがれ、私設兵団の戦士達が怒号を上げた。
 しかし、迂闊に動くことも出来ない。
 そして数秒後、ようやく煙幕が晴れた時、渓谷には誰もいなかった。
 黒い鎧機兵も。上空に君臨していた《水妖星》の姿もだ。
 月光が注ぐ渓谷は静寂に包まれた。


『お、終わったのか……?』


 誰かがそんなことを呟く。
 こうして月下の渓谷の戦闘は終わりを迎えたのだった。

 ――ただし。


「……うふふ」


 その時、ギリギリ、と爪を突き立てメルティアは笑い出した。
 もう一つの戦いが今まさに始まろうとしていた。


「メ、メル……?」


 コウタは頬を引きつらせた。日々訓練は行い、身体は鍛え上げているので少女の爪は大して痛くない。だが、何故かダラダラと嫌な汗が噴き出してくる。
 戦闘は終わったと言うのに、どうして自分はここまで緊張しているのか。
 先程から喉はカラカラで、わずかに腕は震えていた。


「あのニセネコ女が言ったことはどういう意味なんです? コウタ。詳しい話を聞かせてもらえますよね?」


 メルティアの声は、とても優しいモノだった。
 が、コウタの嫌な汗は止まらない。
 逆にここまで優しい声を出すメルティアを知らないからだ。

 恐らく彼女は、かつてないほど激怒している。それが嫌でも理解できる。
 正直言って、振り返るのが怖ろしかった。


「え、えっとね……」


 が、それでも放置だけはまずいと思い、何か言い訳しようとするが、


「さあ、魔窟館に帰りましょう。そこでたっぷり聞かせてもらいます」


 と、やはり優しい声でメルティアが遮った。


「……はい」


 すでにコウタには了承することしか出来なかった。

 かくして。
 少年にとって、今夜における第二戦が始まったのである。


       ◆


「……ふふ」


 その時、崖の上で一人の女性が笑みを浮かべていた。


「どうやらリノちゃんは退いてくれたようね」


 そう言って眼下に目をやるのは、長い黒髪と黒曜石のような瞳が印象的な女性――《ディノ=バロウス教団》の盟主であるサラだった。

 戦場を射抜いた黄金の槍。それをある特殊な力を用いて放った本人である。
 彼女の傍には影のように従うジェシカの姿もあった。


「あのままだとちょっと危なさそうだったしね。止まってくれて助かったわ」


 と、サラは満足げに微笑む。
 するとその時、ジェシカがおもむろに口を開いた。


「……しかし、姫さま」

「ん? 何かな?」


 言って、長い髪を揺らして振り向く主君に、ジェシカは尋ねる。


「お会いにならなくて本当に宜しいのですか?」

「…………」


 ジェシカの問いかけに、サラは沈黙で返した。
 護衛の女性剣士は崖の下――渓谷に目をやる。
 そこには、燃え盛る炎を纏う異形の鎧機兵の姿があった。
 ジェシカはその姿を見つめてすっと瞳を細めた。


「折角ご存命が知れた弟君おとうとぎみではありませんか。宜しいのですか? サクヤさま」

 と、サラの本名を呼んで再度尋ねる。
 サクヤ=コノハナ。この名前こそがサラの本名だった。


「………そうね」


 そしてサラ――サクヤは小さく嘆息する。


「本音を言えば会いたいわ。けど、あの子とはまだ会うべき時ではないと思うの。私も盟主として色々とやらなければならないこともあるしね」


 と、サクヤは答える。その声は彼女にしては珍しく無感情な趣だった。
 言外に、この話は終わりと言っているのだ。


「……そうですか。不躾な質問、申し訳ありません」


 と、ジェシカは主君の意志に従い、頭を垂れる。
 そしてとりあえず最も気になる話題に変えることにした。
 彼女は再び眼下に目をやった。
 無意識の内に、彼女は忠誠を誓うかのように胸元に手を置いていた。


「しかし、弟君のあの鎧機兵。なんと禍々しくも美しい機体なのでしょうか……」


 そう呟き、ジェシカは炎に覆われた《ディノ=バロウス》を陶然と見つめる。


「あの美しさ。何よりもあの《九妖星》にも劣らない圧倒的なまでの強さ。まさしく弟君こそ《悪竜の御子》と呼ぶに相応しきお方です」


 と、かなり熱の籠った声で断言する。
 姉であるサクヤとしては苦笑を浮かべるだけだ。
 確かに、初めて見た弟の実力は目を瞠るようなものであった。
 まさか《九妖星》の一角と、正面から渡りあえるとは思いもよらなかった。
 が、それとは別に、サクヤは一応念を押しておく。


「あのねジェシカ。リノちゃんいわく二十代は側室として認めないそうよ」

「………え?」


 サクヤの念押しに、ジェシカは目を丸くした。
 だが、すぐに顔を赤くして――。


「い、いえ、私は別に弟君に思慕を抱いている訳では……」

「あははっ、冗談よ冗談。分かっているってば」


 そう言って、サクヤは森の奥へと向かった。
 やや頬を染めつつも、ジェシカも彼女の後に続いた。
 二人は森の奥を黙々と進む。
 が、木の間隔が少し開けた場所に出ると、おもむろにサクヤは足を止めた。
 そして上空を見上げる。そこには満天の星が輝いていた。


「ふふ、本当にあの子は、いい子に育ったわ」


 優しげに双眸を細めて、サクヤは弟の成長を喜ぶ。
 それから、遥か南方の空に目をやって彼女は笑った。


「きっとあなたもそう思うでしょう。ねえ、トウヤ」
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