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第12部

第八章 御子の使命⑤

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 そこには、闇があった。
 深い、深い闇。
 まさしく黒一色で塗りつぶされた世界だ。
 生物の姿もない静かな世界。
 そこに、彼は居た。

 ただ一人――いや、一頭のみでそこに存在した。
 真紅の鱗に、山河さえも上回る巨躯。
 四肢と巨大な竜尾。さらには三つの鎌首を持つ獣。
 全身に無数の傷を持つ怪物だった。
 その六つの瞳に睨み据えられれば、人など消し飛ぶかもしれない。
 傷ついてなお、それほどの威容を放っていた。
 だが、この孤独な世界においては、彼に威容にひれ伏す者もいない。

『…………』

 彼は無言のまま、山脈が如き竜尾を揺らした。
 仮にステラクランならば、大気を震わせ、大地を鳴動させるような所作も、この世界では何の意味もない。とても虚しく感じる。

『……ムウ』

 実に退屈そうに、彼は嘆息した。

『……流石二、タイクツダ』

 ゴフウッ、と。
 膨大な炎の息を零し、思わずそう呟く。
 この世界は、次元の狭間と呼ばれている。
 異界同士の間にいつしか生まれた世界。
 何もなく、ただ魂のみが行きかうだけの場所だ。

 ――魂の回廊。
 そのようにも呼べる場所なのだが、そこに居座る彼自身には、死の概念がない。

 肉体が激しく損傷したとしても、故郷へと渡ればいずれ癒える。

 死とは、別世界への旅立ちだ。
 生の限られた者には旅立つ前の世界に戻ることなどできないが、異界渡りと呼ばれる権能を持つ彼にとっては、自在に行き交うことが可能だった。
 何度でも戻れる。何度でも蘇る。
 それゆえの不死である。

 だが、とある世界で心臓を射抜かれた時、彼はその力を『奴ら』に妨害された。
 結果、彼は異界――故郷へと渡ることが出来ず、このどこでもない狭間で、魂から再生することになってしまったのである。

 異界渡りの権能を持つ彼も、この狭間の回廊に迷い込んではどうしようもない。そもそも、ここはいかなる異界にも属さない場所なのだから、渡りようがない。

 彼は、この牢獄に囚われてしまった。
 もう数千年にも渡ってである。

 永遠の命。無敵の巨躯。無双の爪牙。
 それらも、この世界においては無用の長物であった。

『……忌マワシキ、「奴ラ」メ』

 牙を軋ませ、かつての敗北を思い出す。
 あの頃の自分は、怒りと憎悪に囚われていた。
 彼の世界で起きた、あの悪夢。
 どうしても『奴ら』が許せず、『奴ら』に関わるモノをすべて滅ぼそうと考えていた。
 世界を滅ぼし続ければ、いずれ『奴ら』へと届くと思っていた。
 だが、その結果、『奴ら』の中では、唯一の例外とも言えた『彼女』とまで対峙することになったのである。

 ……愚かだったと思う。
 そのため、まだ若き魔王であった友まで巻き込んでしまった。

 とある世界にて、見初めた青年だった。
 その生き様に心打たれ、異例中の異例だったが、彼とは交友があった。
 だからこそ、彼は母とも呼べる『彼女』を裏切ってまで、自分に味方してくれた。

 あの戦いの果て、彼は一体どうなったのか。
 それだけは、ずっと気がかりであった。
 不死の自分と違い、恐らく、彼の死は免れない。
 だが、その魂まではどうなったのか。

 友の行為は極刑に値する。その魂を消されてもおかしくない。
 けれど、慈悲深い『彼女』ならば、もしくは――。

『……詮ナキコトカ』

 考えても、こればかりは知ることも出来ない。
 とはいえ、この世界で許されるのは思考だけなのも事実だ。
 考えてしまうのも、仕方がないことだった。 

『……退屈ハ、魔王モ、コロスカ』

 そんなことを呟く。
 と、その時だった。

『……ヌ?』

 おもむろに、大河のような三つの鎌首を動かした。
 一瞬だけ、遥か先に光が見えたのだ。

『……光ダト?』

 彼は、巨躯から巨大な翼を生やして、光の元へと飛んだ。
 音よりも遥かに早い飛翔だ。
 それでもなお遠いが、近づくほどに、その光ははっきりと目に届いた。
 あれは、数千年間において初めて現れた導きの光だった。
 そうして、

『……コレハ……』

 三組の双眸を細める。
 辿り着いた先。そこには小さな光があった。
 微かではあるが、とても暖かい光だ。

『……命ノ、匂イ?』

 絶大な自信を誇る嗅覚が、そう告げている。

『……新タナ、命ノ概念ガ、ウマレタノカ?』

 いずこかの世界で、全く新しい命の概念が生まれた。
 その輝きが、彼をここに導いたのである。
 彼は、恐る恐る巨大な掌で光を囲った。
 すると、

 ――寂しい。寂しい。寂しい――

 そんな声が耳に届いた。
 それは、少女の泣き声だった。
 彼は訝しみつつ、さらに光に掌を近づけた、その瞬間。
 彼の意識は、光に包まれた。
 ………………………。
 …………。

 
 気付いた時、彼は見知らぬ部屋の中にいた。
 かなり驚く。かの牢獄から飛び出たことにも驚いたが、それ以上に、自分が入れるような部屋があるということにだ。

「……ココハ……」

 彼がそう呟くと、

「――起動しました!」

 不意に、少女の声が聞こえてきた。
 次いで、少女が顔を覗き込んでくる。

 ――何という巨大な少女か!
 彼は驚いた。
 まだ幼い少女だが、その頭のサイズは、彼よりも大きいのではないか?

「成功です! 遂に成功しました!」

 紫がかった銀髪の少女は、ネコミミを、ピコピコと動かして喜んでいる。

「……ヌ?」

 彼は首を傾げた。
 違和感を覚えて、両手で首に触れる。おかしい。首が一つしかない。
 いや、そもそも手が小さい。何故か紫色の鎧を着ているようだ。

「……ヌヌ?」

 困惑する。
 ここまで来ると、流石に自分の体が全く別物になっていることに気付く。
 山脈のようだった自分の巨躯に比べると、恐ろしく小さくなっているのだ。
 すると、

「良かった。本当に良かった」

 ぎゅうっと。
 幼い少女が、彼に抱き着いてきた。

「あなたは私の初めての子です。だからお願いです」

 彼女は言う。

「ずっと、ずっと私の傍にいてください」


 それが、あの子の最初の命令オーダー
 懐かしい。
 とても懐かしい言葉だった。
 悠久の時を生きた自分でさえ懐かしく感じるのは、その日から始まった忙しさゆえか。

 最初は彼だけだった。
 けれど、あの子は、沢山の兄弟たちを造ってくれた。
 彼をこの世界へと導いてくれた、新しい命の概念たち。
 我が愛しき弟たちである。

「……? どうかしましたか?」

 その時、少女が屈みこんで声を掛けてくる。
 紫銀の髪と、ネコミミを持つ少女。
 初めて出会った日から、美しく成長した少女だった。
 彼にとっての救い主。守るべき者である。

「……ヌ。少シ考エゴトヲ、シテイタ」

「そうですか」

 彼女はそう呟くと、彼が座っていた長椅子に腰をかけた。
 彼は、横を見やる。
 それから、周囲にも目をやった。
 少年少女たち。ここにいる者のほとんどは、彼女の友人だった。

 かつて孤独だった幼い少女。
 成長した彼女は、沢山の友人に囲まれるようになった。

 けれど、その横顔は、とても暗い。
 彼は、少し申し訳ない気分になった。
 今回の件は、言ってみれば、自分の身内・・がしでかしたことだ。
 退屈がトラウマレベルで嫌いになった彼にとっては、実に面白い展開ではあるが、彼女にこんな顔をさせてしまうのは、どうにもいただけない。

「……許セ。メルサマ」

 彼は謝罪する。

「え?」

 少女は、キョトンとした表情で彼の方に振り向いた。

「唐突になんですか?」

「……今回ノコトハ、反省シテイル。ダガ、コレダケハ、知ルガヨイ」

「……? 何の話ですか?」

 話が見えない彼女は、小首を傾げる。

「……コウタノ、使命ニツイテダ」

「コウタの使命?」

「……ソウ。コウタノ使命ダ。コウタノ、一番ノ使命トハ」

 彼――零号は言う。

「……メルサマヲ、幸セニ、スルコトナノダ」
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