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第11部

第八章 そうして、彼女は運命を知る⑦

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 暗い、暗い闇の底で。
 アヤメは、おもむろに目を覚ました。

(……ここは?)

 腕を微かに動かす。
 力がほとんど入らないが、辛うじて動く。
 アヤメは、重い体で周囲を見渡した。
 暗い場所だ。しかし、焔魔堂の者は夜目も利く。
 ここが《黒鉄丸》の操縦席なのは、すぐに分かった。
 彼女は操縦シートからは放り出されて、内壁に持たれかかっていた。

(……私は、何を……)

 アヤメは、眉をひそめた。
 記憶が曖昧だった。
 確か、自分は――。

(……あ)

 記憶が蘇る。
 そうだった。
 自分は、運命に立ち向かって――。

(……私は、負けたのですか?)

 分からない。
 記憶がない。
 ただ、自分が劣勢だったのだけは憶えていた。

(……もし、私が負けたのなら)

 直感がある。
 じきに、彼が現れるはずだ。
 この戦いの戦利品である自分を奪いに。
 そしてその直感は当たった。

 ――バキンッ、と。
 何かが、砕ける音が聞こえたのだ。

 次いで十数秒後に、《黒鉄丸》の胸部装甲が強引にこじ開けられた。
 日の光が目に差し込んでくる。
 アヤメが目を細めると、そこには少年がいた。
 どうしてか、顔や手が土で汚れた黒髪の少年だ。
 アヤメの運命たる少年だった。

「……良かった。無事だった」

 少年―コウタは、ホッとした表情を見せた。
 そしてアヤメの手を取り、そのまま抱きかかえた。
 彼は、大切そうにアヤメを両腕で抱いて、《黒鉄丸》の外に出た。
 外に出たアヤメは、眉をひそめた。
 何故か、そこには大量の岩や、土砂が散らばっていたからだ。

(……これは)

 一瞬疑問を感じたが、すぐに理解する。
 これは《三又ノ火蛇》の残骸だ。
 結局、アヤメの最強の術も、この少年には通じなかったのだ。

(……私は負けた)

 もう疑う余地もない。
 自分は、運命の前に敗北したのだ。

「ここら辺でいいかな」

 少年はそう呟くと、少し開けた場所で、アヤメを降ろした。
 ペタンっと、アヤメは脱力した状態で座り込む。
 いわゆる女の子座りだ。対する少年も、アヤメの前で胡坐をかいた。

「その、大丈夫?」

 コウタが優しい声で尋ねる。
 アヤメは、彼を見つめた。

(……私は)

 自分は敗者だ。もう抗う資格もない。
 けれど、

「……私はどうなっても構わないのです」

 せめて、友人たちの運命だけは救いたかった。

「……私はどんな命令であっても聞くのです。私になら何をしてもいいのです。決してあなたには逆らいません。だから……」

 アヤメは、目尻に涙を溜めて懇願する。

「アンジュとフランだけは、お願いなのです。彼女たちだけは見逃して欲しいのです」

 目の前の少年は、アヤメの運命の相手。
 彼は焔魔さまの生まれ変わりのはずだ。その彼が焔魔堂の長老衆に掛け合えば、アンジェリカとフランの運命も、もしかしたら変わるかもしれない。
 だからこその懇願だった。

 しかし、コウタにしてみれば、彼女が何を言っているのか分からない。
 一体何の話なのか、と困惑するだけだった。
 けど、一つだけ……。

(……シキモリさん)

 彼女が、酷く追い込まれていることだけは分かる。
 細い肩を震わせる彼女が、何かとても重いものを背負っていることが分かった。
 コウタは、双眸を細めた。

(シキモリさん。確か、彼女の名前は……)

 ――アヤメ。
 アノースログ学園の生徒会長が、そう呼んでいた。
 コウタは、静かな眼差しで彼女を見据えた。
 そうして、

「……泣かないで。

 自然と、コウタは、彼女をそう呼んでいた。
 ポロポロと、涙を零す彼女が、とても幼く見えたのだ。
 それこそ、アイリよりも、ずっと幼く見えた。
 とても小さな子が、うずくまって泣いているように見えたのだ。
 アヤメは、涙を零したまま、キョトンとした顔をした。
 コウタは苦笑を浮かべた。

「君が何を背負っているかは分からない。けど、ボクに協力できることがあるのなら手伝うから。だから、もう泣かないで」

「……ホ、ホント?」

 アヤメが目を見開いて呟く。
 コウタは「うん」と頷き、

「だから、泣かないで。アヤちゃん」

 優しい声でそう告げる。アヤメは顔を赤くした。
 そして、ごしごしと両手で涙を擦り、

「……アヤちゃんなんて、呼ぶな、です」

 気恥ずかしそうに、そう告げた。
 コウタも少し恥ずかしいのか、頬をかき、

「いや、ごめん。なんか、凄く君が幼く見えて……」

「……それは、暗に私が幼児体型だと言っているのです?」

 ジト目で、コウタを睨みつけるアヤメ。
 コウタは流石に動揺した。

「い、いや、そういう訳じゃ……そ、その」

 どうにか話題転換を試みる。

「あ、そうだ! あれ! あの金棒について教えてよ!」

「金棒は今、森の中なのです」

「う……」

 他に、他に話題を……。

(そ、そうだ!)

 コウタは少し腰を上げて告げた。

「その角! それってどうなってるの? 普段はなかったよね?」

 そう問われて、アヤメはぶすっとした表情で答える。

「これは心角なのです。私の意志で出し入れ可能なのです」

「へえ~」

 コウタは、興味津々にアヤメの角を見た。

「そうなんだ。どういう感じなの? 少しだけ触ってみてもいい? あ、もしかして触ると痛いとか……」

 そう呟くコウタに、アヤメはふうと嘆息した。

「心角には痛覚とかはないのです。出していると身体能力が二倍ぐらいになるのですが、それ以外は飾りと一緒なのです。触りたかったら好きにするといいのです」

 どうせ、自分のすべては、もうこの少年のモノだ。
 いずれは抱かれ、子も孕むことにもなる。心角程度などどうでもいい。
 アヤメは、そう思っていた。

「へえ~、そうなんだ」

 一方、コウタは興味津々だった。
 どうもアヤメを前にすると、少年らしさが前面に出てくるコウタだった。

「じゃあ、ごめん。ちょっと失礼して」

 コウタは、アヤメの心角へと手を伸ばした。
 アヤメは再び嘆息した。まあ、しばらくしたら飽きるだろう。

 ……さて。これからどうすべきなのか。
 アヤメは、考え込む。
 この少年の協力の言質は得た。それは大きなことだ。
 だがしかし、問題は山積みだった。アヤメはもう確信しているが、まずは長老衆に、この少年が焔魔さまの生まれ変わりであることを認めさせなければならない。

 果たして、あの頑固な老害どもをどう説得すべきか……。

(ああ、そう言えば)

 ふと、少年の方を一瞥する。
 彼はまだ、恐る恐る手を伸ばしているところだった。
 この状況に、思い出す。

(心角の試しという詐欺もあったのです)

 いっそ、あれを逆手に取ってみるか。
 この少年相手に、さも試しが成功したようなふりをするのだ。
 長老衆と、あの腐れ師匠が、フウカを落とすために使った手段だ。
 これを否定する訳にもいかないだろう。きっと、ぐうの音も出ないに違いない。

(おお。これは案外、良い手なのかもしれないのです)

 名案に、アヤメが柏手を打とうとする。
 と、その時だった。コウタの手がアヤメの心角に触れたのは。

(え?)

 アヤメは目を見開いた。
 そして次の瞬間には、頭の奥が真っ白になった。

(っ!? っ!? ~~~~っっ!?)

「あ、結構硬いや」

 コウタが、率直な感想を告げる。
 しかし、アヤメはそれを聞いてなかった。
 とても耳に入るような状況ではなったのだ。

(~~~~~~っっ!?)

 言葉も出ない。
 コウタの手が心角に触れた瞬間、いきなり背中に電撃が奔ったのだ。
 凄まじい衝撃だった。全身を、ビクビクッと震わせるほどだ。
 心角に夢中なコウタは気付かなかったが。

(は、あ、はうあっ!?)

 しかも、その後も感じたこともない感覚が、アヤメの全身を襲った。
 ゾクゾクといった感覚が、ずっと背中を伝っているのだ。
 目尻に涙が浮かぶ。唇を強く噛みしめた。

(な、なんなのです!? これは!?)

 分からない。分からない。こんな感覚は知らない。

(――ふわっ!?)

 ゾクリ、と一際大きい感覚が背中を奔る。
 思わず背筋を伸ばしてしまった、その時、

(………あ)

 ある日の姉の言葉を思い出した。

『もう、凄くビビビッて来るのよ』

(どこか『ビビビッ』なのですか!)

 思わず、アヤメは姉に文句を言った。
 流石に気付く。これこそが――。

(し、心角の試し……)

 悪質な詐欺と思っていたあれは、真実だったということだ。
 そして、これにより確信だったものが、遂に確証へとまで至ってしまった。

 ――そう。やはりこの少年こそが、アヤメの運命の主人であって……。

「へえ、先端はあんまり尖ってないんだ」

 一方、コウタは、至って呑気なものだった。
 本当に、のほほんとしている。
 アヤメの変化にも気づかず、心角の感触を堪能していた。
 黒い瞳が、キラキラと輝いている気もする。

(も、もう、やめて……)

 心角を通じて、自分のすべてを剥がされていくような感覚を抱く。
 羞恥で、顔が赤くなるのが止められない。
 流石にこれ以上は無理、と懇願しかけた時だった。

「なるほど。あ、こっちも同じなのかな?」

 コウタの呟きに、アヤメはハッと気付く。
 ――そうだった。自分には心角が二本あったのだ。

「何か違いがあるのかな?」

 コウタが、もう片方の心角にも手を伸ばした。
 アヤメは目を見開いた。

(や、やめて! 違いなんてないのです! 待って! 待って! もう無理――)

 しかし、それを口にする前に、コウタは左側の心角にも触れた。

(――――っっっ!?)

 アヤメは再び、全身を震わせた。
 ――違う。一本目とはまるで違う。
 アヤメは口を開き、目を大きく見開いた。

(ふあ、ふあっ……)

 呼吸さえも、止まりそうになる。
 魂の根幹が震えた。
 体が、血が、自分を形作るすべてが。
 これまでの存在と変わる。生まれ変わっていく。
 彼の女として、自分のすべてが創り替えられていく――。
 そんな感覚を抱いた。

「うん。なるほど。これが犀の人の角なんだ」

 コウタは、この期に及んで、そんなことを呟いていた。

「ありがとう。アヤちゃん。ごめん。ちょっと失礼なことを……」

 と、アヤメに告げようとしたところで、ギョッとする。

「――アヤちゃん!?」

 アヤメが、あまりにも、ぐったりとしていたからだ。
 視線は虚ろで呼吸も荒い。全身には玉のような汗をかいている。唇の端からは、銀色の糸まで零していた。意識を失っているのではないかと思うぐらいに脱力していた。
 その時、アヤメが、ふらりと後ろに倒れた。

「ええっ!? どうしたの!? アヤちゃん!」

 コウタは、慌てて両手を伸ばし、彼女の小さな背中を支えた。
 ぐいっとアヤメの体を抱き寄せる。
 すると、彼女は赤い顔のまま、大きく息を吐いた。

(ま、まだ、なのです……)

 消えそうな意識の中、アヤメは最後の意地を見せることにした。
 ――そう。まさに最後の意地だ。
 負けたとはいえ、運命に抗った者の底力だ。
 せめて、これだけは言ってやる。
 自分の意志で告げてやらないと気が済まない。
 アヤメは、コウタの肩を両手で必死に掴んで、強引に彼から離れた。
 コウタが心配そうに眉根を寄せる。

「アヤちゃん? 大丈夫?」

「う、うるさい、のです」

 少年の眼差しを正面から受けて、鼓動が跳ね上がるのを感じた。
 体中が熱い。
 もう腕の力を抜いてしまいたい。このまま彼の腕の中で眠りたい。
 強く、強くそう思うが、グッと堪えた。
 今にも蕩けてしまいそうな眼差しを、どうにか引き締め直す。

「……よく、聞くのです」

 ふうゥ、ふうゥ、と荒い吐息を繰り返した。
 そして、

「……全部、くれてやる」

 アヤメは、両手に力を込めた。

「……だから、私を……」

 コウタを睨みつける。
 そして、彼女は自分の運命の相手に、

「……幸せに、しやがれ……なのです」

 そう呟いた。
 コウタは「え?」と、目を丸くするだけだ。
 アヤメの頑張りはそこまでだった。
 くたあ、と。
 今度こそ、全身の力が抜けた。

「ア、 アヤちゃん!」

 コウタは、彼女を受け止めた。

「しっかりして! アヤちゃん!」

 そう呼びかけるが、力尽きたアヤメは何も答えない。
 ただ、コウタの腕の中の彼女は、とても安らかな表情を浮かべていた。

 こうして。
 運命に抗った少女は、運命を受け入れたのである。

 ただ、結局のところ。
 彼女の運命とは、途方もなく優しくて温かいものだったのだが。
 そして、

「アヤちゃん!? しっかりして、アヤちゃん!」

 運命かれが彼女の名を呼ぶ。
 その優しい声を子守歌に。
 今は、微睡に包まれるアヤメであった。
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