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第7部

第八章 夜に吠える狂犬⑤

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(け、けっちゃく……?)


 朦朧とした意識の中、イアンの耳にはその言葉が届いた。
 わずかにだが、心が躍動する。


(わ、わた、わたしは……私は……)


 血涙を流しながら、イアンは少しだけ正気を取り戻した。
 それは彼にささやかだが、《樹形図ユグドラシル》の適性があった証拠であった。
 だが、所詮それも気休め程度でしかない適性ではあるが。
 とは言え、それでもこれはこの世界を統べる女神の慈悲だったのかもしれない。
 最後の敵を前にして、ほんの一時でも正気を取り戻せたことは。


(そう、か。私は今こいつと戦って……)


 イアンは袖で自分の血涙を拭った。
 そして悟る。明らかに自分は賭けに負けた。
 結局、薬物に頼ってさえも『獅子』にはなれなかったのだと。


(……ふん、所詮、私は『犬』だったということか)


 イアンは皮肉気に笑う。
 もはや、あとは死を待つだけだろう。
 自業自得とはいえ、これが自分の人生の結末だった。


(随分と間抜けな最期だな)


 と、イアンが俯瞰的に考えた、その時だった。


『おい、聞いているのか、イアン』


 どこからから声をかけられた。
 イアンが呆然とした表情で前を見やると、そこには恐ろしいほどの威容を放つ真紅の鬼が佇んでいた。夜を切り裂くような煌々とした姿だ。


(……《双金葬守》?)


 そしてイアンが唖然としていると、真紅の鬼は語り出す。


『さっさとかかって来いよ。イアン。俺にもお前にも、もう時間はないんだぞ』


 そこで、鬼はクイクイと右手を動かして、


『さっき、最後まで付き合ってやるって言っただろ。ほら、まだ正気があんなら全力を尽くせよ。俺も全力で応えてやっからよ』


 そんなことを告げてきた。
 どうやら眼前の敵は、放っておいても自滅する自分に付き合ってくれるらしい。
 イアンは一瞬キョトンとしていたが、


(ははっ、意外と甘い男なんだな)


 不意に口元を綻ばせた。
 自称『鬼』のくせに、何とも慈悲深い対応だ。
 だがしかし、これは彼にとってこの上ない申し出であった。
 どうせ死ぬのならば、せめて最後は戦士として死を迎えたい。


『ぞ、ぞうごん、そうじゅ……』


 イアンは、言葉もままならない喉で答える。


『ざいご、のしょうぶ、だ』


 言って、愛機・《ガラドス》を身構えさせる。
 両手を地に着き、まるで『獅子』のような構えを取った。


『ああ、そうだな』


 対するアッシュもまた《朱天》に拳を身構えさせた。
 そして数瞬の沈黙が続いたその直後、
 ――ズガンッッ!
 突如、《ガラドス》の足元の土が弾け飛んだ。
 凄まじい加速をした黒犬は真直ぐ《朱天》には向かわず右に跳躍する。続けて再び地を蹴って今度は左へと。さらに時には円を描いて地を駆け、空中では肘の大筒を使って軌道を変える。イアンの操る機体は《朱天》を中心に縦横無尽に駆け抜けた。


『……へえ、やるじゃねえか』


 それは、アッシュの視覚でも負い切れない。
 まるで狼の群れにでも囲まれたようなその光景に、アッシュは感嘆の声を零す。
 もはや《ガラドス》の姿は、分身でもしているかのようだった。


(しかしよ)


 不意に、白髪の青年は目を細めた。


(確かに最後まで付き合ってやるとは言ったが、俺の首をくれてやる気はねえぞ)


 アッシュには守るべき者がいる。
 この国に来て、さらにその数は増えた。
 死にゆく狼のためにくれてやるほど、自分の命は安くない。


(決着をつけさせてもらうぞ、イアン)


 そしてアッシュは《朱天》に、ほんの少しだけ拳を落とさせた。
 ――と、その直後だった。
 それを隙だと判断した《ガラドス》が眼前に現れ、右の爪を振り下ろしたのは。


(やっぱり喰らいついたか!)


 しかし、アッシュは不敵な笑みを崩さない。
 ――ガァンッ!
 右腕で力強く爪を払うと、瞬時に左の拳を固めた。
 そして隙だらけになった《ガラドス》の脇腹に叩きつけようとする――が、


『がああああああああああッああああああああああああああああああああああああああああああああああああああァあああッッ!!』

『――ッ!』 


 突如、咆哮を上げたイアンに息を呑む。
 その直後、《ガラドス》は大きくアギトを開いて《朱天》の喉元を狙ってきた。
 それはイアンの最後の攻撃だった。


『――チィ!』


 アッシュは眉間にしわを刻み、《朱天》を動かす。
 真紅の鬼は拳を固めたまま、左腕をアギトの前に差し出した。
 ――ガゴンッッ!
 そして鋭利な牙は、左腕の手甲に深々と突き刺さった。
 さらにはそのまま捩じり、バキバキッと音を立てる。続けて《朱天》の体を渾身の力で蹴りつけ、真紅の鬼から左腕そのものを奪い取っていった。
 左腕を咥えたまま、後方に跳んだ《ガラドス》はズシンッと着地した。
 ――が、そこで《ガラドス》は、両膝を地に着いた。
 続けて全身から白煙を上げる。奪い取った左腕もゴトンッと地面に落とし、それ以上動く気配もない。まさに全力を尽くし、精も根も使い果たした姿だった。

 一方、アッシュは、まじまじと愛機の左肘を見つめていた。
 火花を散らす関節の先には何もない。


『……まさか、片腕を持っていかれるとはな』


 そう言って、アッシュは皮肉気に笑った。
 手心を加えたつもりなどない。見事に出し抜かれてしまった。


『やるじゃねえか、イアン』


 と、アッシュが賞賛を贈ると、


『ははっ、ざまあ、みろ、だ』


 動かなくなった《ガラドス》の中で、イアンはニヤリと笑った。
 あの真紅の鬼から腕を奪ってやった。最後の最後で意地を見せてやったのだ。

 しかし――。


『だが、こごまで、だ』


 イアンは操縦棍を手放し、操縦席で脱力した。
 自分の愛機もここが限界だ。もう指先さえも動かせない。


『……ああ、そうだな』


 そう言って《朱天》が首肯する。


『いよいよ最後だ。イアン。俺の最高の技で送ってやるよ』


 そして《朱天》はイアンに向かって歩き出す。
 その真紅の拳は、まるで太陽のような煌々とした輝きを放っていた。
 すでに死を覚悟したイアンは静かに、《朱天》を見つめていたが、


(ああ、そうだったのか……)


 彼は不意に悟った。
 どうしてここまで力に焦がれるのか。
 死を目前にして、ようやくイアンは自分の心の裡を理解した。


(……そうか、私は……)


 まるで少年のような憧憬を抱いて――。
 彼はただ、最強の者が見る世界を、この目で見てみたかったのだ。
 本当に、ただそれだけのことだった。


(はは、私という奴は……)


 イアンは苦笑を零した。
 我ながら、気恥ずかしくなるぐらい純粋で幼稚すぎる理由だった。
 こればかりは笑うしかない。


『ぞ、ぞう、ごん、ぞうしゅ……』


 イアンは、もう開くことも困難な口で語る。
 彼の顔はとても満足げだった。


『やっばり、おまえは、「しじ」だった、よ』


 そして青年は、愛機の中で少年のように笑う。


『さ、さあ、ご、ごろぜ。おまえ、の、がぢだ……』

『……ああ、分かっているよ』


 アッシュは淡々とした声で答えた。
 イアンの肉体の損傷は深刻だ。どう足掻いても助からない。
 ここは、苦しませずに殺してやることが慈悲だった。
 すでに《朱天》は《ガラドス》の前で立ち止まっている。そして身構える拳が、より紅い輝きを増した。


『じゃあな。イアン』


 と、最後に青年の名を呼んで――。
 アッシュの操る《朱天》は大地を踏み砕き、右の拳を打ち抜いた!
 真紅に染まった剛拳は、まるで紙きれのように《ガラドス》の装甲を打ち砕き、拳が纏う力場はわずかな欠片さえ残ることを許さない。そして――。

 ――ズズゥン……。

 《ガラドス》の両足だけが力なく地面に倒れ伏した。あまりの威力に胸部装甲は勿論、上半身そのものが消し飛んでしまったからだ。
 それを見届けた《朱天》が、勝利を示すように地面を尾で叩く。
 こうして『獅子』に憧れるあまり、道を踏み外してしまった青年は、痛みを感じることもなく塵となって最期を遂げたのだった。

 そしてようやく決着がついた中、


(……終わったか)


 アッシュは黒い瞳を閉じる。
 それは、イアンの死を悼む黙祷だった。
 はっきり言えば、イアンとアッシュには、ほとんど繋がりはない。
 そもそも繋がりがないどころか、今日が初対面と言ってもいい。赤の他人だ。

 だが、それでもアッシュは黙祷した。
 本来ならば、自分を殺そうとした相手のために祈る義理はないのだが、結局イアンも『あの男』に運命を狂わされたのだ。

 ならば、同じ境遇の者として、祈る程度の手向けがあってもいいだろう。


(あばよイアン)


 そしてアッシュは誓う。


(せめて、お前を狂わせた《木妖星》のジジイは必ずそっちに送ってやるよ。煉獄で楽しみに待っていろよな)


 決して、安らかに眠れなどとは言わない。
 イアンがそう呼んだように、『獅子』のごとくアッシュは笑った。
 そして――。


『じゃあな、イアン』


 アッシュは、最後にもう一度だけ別れを告げるのだった――。







 かくして。
 遠い異国の地にて、一人の青年が死んだその日。








 コツンコツン、と。
 一人の男が、四方を石壁で囲まれた廊下を歩いていた。
 灰色の髪と頬を覆う髭を持つ、漆黒のスーツを纏った四十代半ば程の人物。
 レオス=ボーダー。
 セラ大陸に拠点を置く犯罪組織《黒陽社》が誇る《九妖星》の一角であり、《木妖星》の称号を持つ男だ。


「………ふむ?」


 その時、レオスはおもむろに足を止めた。
 ふと、どこからか、犬の遠吠えのようなものが聞こえたような気がしたのだ。
 しかし、当然ながら周囲に窓などなく、犬がいるような気配もない。


「気のせいだったのか?」


 レオスがそう呟くと、


「おや? どうかしましたか? ボーダー支部長」


 不意に後ろから声をかけられた。
 レオスが振り向くと、そこには彼と同じ黒服を着た小柄な男がいた。
 温和な顔立ちに、細い瞳が印象的な四十代後半の人物だ。
 ボルド=グレッグ。《黒陽社》第5支部の支部長であり、レオスと同じく《九妖星》の一角。《地妖星》の称号を持つ男だった。
 さらに言えば、レオスの後任者でもある。


「いやなに。どうも遠吠えが聞こえた気がしてな」

「……遠吠え?」ボルドは眉をひそめた。「この《黒陽社》の本社でですか?」

「う、む。まあ、気のせいだろうな」


 言って、レオスは一人で納得する。
 なにしろ、彼らが現在滞在するこの《黒陽社》の本社は、かなり特殊な場所にある。周囲に獣などいるはずもない所だった。


「そうでしょうね。ところでボーダー支部長。あなたもこれから第一会議室へ?」


 と、レオスの横に並んだボルドがふと尋ねる。
 対し、レオスは「ああ、そうだ」と首肯し、


「久しぶりの《星系会議》だ。少々早く行っておこうと思ってな」


 そう返して、レオスは再び歩き出した。
 ボルドも並んだまま追従する。


「社長と《九妖星》が一堂に会する特別な日。部下の報告だと、先程《金妖星》と《水妖星》もこの本社に到着したそうですよ。ですが……」


 そこで一拍置いて、


「今年は少し寂しくなりそうですね」


 と、ボルドがわずかに眉を落として独白する。
 レオスは歩きながら同僚を一瞥した。


「ガレックのことか」


 呟いた名は《九妖星》の一角。《火妖星》の称号を持つ男の名。
 しかし、今やこの世にいない人間の名前だった。


「……奴を殺したのは《双金葬守》らしいな」


 レオスはあごに手をやった。


「今代の《七星》の第三座。確か、貴様が宿敵と称する男だったか」

「ええ、その通りです」


 と、ボルドは即答する。が、すぐに眉をしかめてレオスに目をやり、


「ですが、クラインさんはあなたの方にこそ興味があるのでしょうね。なにせ、あなたは彼の故郷の仇なのですから」

「……いや、仇と言われてもな」


 レオスは渋面を浮かべる。


「正直記憶にないのだ。俺が何十年この組織にいると思っているんだ? 潰した村や街の数などいちいち憶えていられる訳もないだろう」


 そんなことを宣う同僚に、ボルドは肩をすくめた。


「……やれやれ、それを聞いたらクラインさんは激怒しそうですね」

「仕方がないだろう。恨みの数など憶えていられるか」


 と、レオスはふてぶてしい表情で言い放つ。
 が、おもむろに皮肉気な笑みを見せて、こうも言った。


「しかしまあ、どうも俺はあの男と縁がないな」

「ああ、それは確かに」


 と、同意するボルド。
 互いの存在を知っているというのに《双金葬守》と《木妖星》の間には全くと言ってもいいほど接点がない。
 本来ならばとうに邂逅していてもおかしくないのに、だ。
 ふと足を止めて、ボルドはあごに手をやり考え込む。
 これは何かの運命なのだろうか。
 そして、もしそう考えるのならば――。


「そうですね。もしかすると……」


 そこで一拍置いて、ボルドは言う。 


「案外あなたと対峙する運命の人間はクラインさんではないかもしれませんね」


 そんな予言じみた台詞を吐く同僚に、レオスも足を止めて眉根を寄せた。


「どういう意味だ? ボルド」

「いえ、ただの直感……と言うよりも願望ですね。なにせ、クラインさんは私の宿敵ですから、他の《九妖星》にその首級を取られたくないんですよ」


 と、ボルドはにこやかな笑みを見せて返した。


「どうやら今回の《星系会議》。社長が面白い提案をするというもっぱらの噂ですしね。ちょっとした騒動になるような気がするんですよ」


 そしてボルドはふっと口角を崩し、


「これも願望ですがクラインさんとの決着をつける機会が来るような気がします」

「……ふん。そうか」


 一方、レオスは皮肉気に笑った。


「ならば《双金葬守》は貴様に任せよう。まあ、俺が対峙する機会がない限りな」


 そう言って、レオスは廊下の先を見据えた。
 いつしか立ち話に興じてしまったが、そろそろ向かわなければならない。


「さて」


 そして、レオスはニヤリと笑みを見せた。


「では、そろそろ会議に行くとするか」

「ええ。そうですね」と、ボルドも応える。

「万が一、遅刻しては社長に叱られますしね」

「まあ、確かにな。きっと激怒するに違いないぞ」


 と、そんな冗談を交えつつ、災厄の《星々》は、足音を立てて歩き出す。
 彼らは期待していた。
 その行き先に、大きな騒動があることを――。
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