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第2部
第五章 「ドランの大樹海」④
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『ひぎゃあああああ――ッ!?』
深い、深い森の中。エドワードの絶叫が木霊した。
と、それに呼応するように《暴猿》も雄たけびを上げる。
「ぐおおおおおおおおお――ッ!」
そして、ブオンブオンと風を切り、《アルゴス》の尾を掴まえた《暴猿》が容赦なく緑色の機体を振りまわす。二回転、三回転と全身で回転する様はまるで竜巻のようだ。
『ひぎゃああああ――ッ!? だ、誰か助け……うぷっ』
エドワードが再び絶叫を上げ、最後にはえづき始める。
『エ、エド!』
友人の危機を見かねてロックの鎧機兵・《シアン》が駆け寄ろうとする。が、それを狙いすましたかのように《暴猿》が《アルゴス》の尾を離した。
『う、うおッ!』
砲弾のように飛んできた友人の機体を、《シアン》は斧槍を放り捨て、正面から受け止める。直後、凄まじい衝撃が青い機体を揺らした。
『ぐううううッ!』
ロックが呻き声を上げる。
咄嗟に恒力を両足に集中させ踏ん張ったおかげで吹き飛びはしなかったが、あまりの衝撃の前に、ガガガッと両足が地を削った。――まずい。抑えきれない。このままでは《アルゴス》ごと樹に叩きつけられる!
『――クッ! すまんエド!』
こうなっては仕方がない。腹を決めたロックは恒力の集中を両足から両腕へと移し、背面投げの要領で衝撃の元凶たる《アルゴス》を放り投げた。
結果、《アルゴス》は弧の軌跡を描いて、森の奥に呑みこまれていく。
『ちょ、おまっ!? それひどくねッ!?』
『後で飯でもおごってやる! 今は――クッ!』
背後からエドワードの悲鳴じみた批判が聞こえてくるが、ロックには気にしている余裕はなかった。なにせ、目の前に《暴猿》が迫ってきているのだ。
「がああああああ――ッ!」
《暴猿》が大きく右の拳を振り上げた。
ロックは素早く《シアン》の重心を動かすと、拳撃の軌道から機体を逸らす。そして勢いよく打ちおろされた右拳を凌ぎ、逆に大猿の右腕を抱きかかえるように捕えた。
「ぐがああああああ――ッ!」
『ぬうう……』
動きを封じられ暴れる《暴猿》に、ギシギシッと機体が軋み始める。が、それでも《シアン》は離さない。重武装の重さを活かして人型の手枷となる。
苛立つ《暴猿》はより巨体を揺らして暴れるが――。
「があッ!? があああああああ――ッ!」
『暴れても無駄だ! 今だ! やれエイシス!』
『うん! 分かった!』
ロックの声に、アリシアが応える。
《暴猿》と《シアン》の真横。八セージルほど離れた位置にいるアリシアの愛機・《ユニコス》が、重心を低くして身構える。
そして右の剣を水平に、大猿の右大腿部に標準を合わせると、
『いくわよ! 《ユニコス》!』
――ドンッ!
アリシアの掛け声と共に、《ユニコス》の足元から落雷の如き轟音が響いた。
途端、《ユニコス》がかき消えるような速度で跳躍した。恒力を足の裏から噴出して加速する《黄道法》の闘技――《雷歩》だ。
(く、くうううう!)
急激な加速に歯を食いしばって耐えるアリシア。そしてすぐさま訪れる衝撃。菫色の砲弾と化した《ユニコス》の剣が《暴猿》の大腿部に深々と突き刺ささったのだ!
「があッ!? があああああああああ――ッ!?」
激痛に《暴猿》が絶叫を上げる。傷口から血が吹き出し、黒い体毛で覆われた巨躯が
ガクンッと膝をつく。その隙を――ロックは見逃さなかった。
『――ぬん!』
《シアン》がズンと力強く足を踏み込み、大猿の腕を掴んだまま機体を反転。大木を引っこ抜くように《暴猿》を放り投げた。勢いよく飛翔する《暴猿》の巨躯。ロックとしてはそのまま樹にぶつけてやるつもりだったのだが、巨大とはいえ猿は猿。空中で軽やかに身を翻ると、大樹に両足をついて直撃を避ける。
が、それでも大腿部に受けたダメージは大きかったのだろう。着地するなり大樹に背を預けてもたれかかり、動こうとしない。しかし、その眼光だけは鋭く、「グルルゥ」と唸り声を上げて二機の鎧機兵を睨みつけていたが。
『……近付けば咬みついてやるって顔ね』
『……ああ、そうだな』
まだ、この魔獣は戦意を失ってなどいない。それは明らかだ。戦闘は今もなお続いているのだ。《シアン》は斧槍を拾い上げ、《ユニコス》は左の剣を身構えた。
そして、ジリジリと間合いを詰めようとした――その時だった。
『待て待て待ていッ! 俺、復活!』
突如、森の奥から響いてくる叫び声。
アリシア達が驚き、振り向くと、そこにはエドワードの愛機・《アルゴス》が、ズドドドッと轟音を立てて走ってくる姿があった。
その右手には槍を大きく振りかぶっている。投擲の構えだ。
『くっらえええ、エテ公オオォォ!』
エドワードがそう叫ぶと、恒力を右腕に集中させた《アルゴス》が槍を撃ち出した!
――ゴウッ!
風を切り裂く音。そして煌めく一条の光。
《アルゴス》が撃ち出した槍は、見事に《暴猿》の脇腹を貫いた。さらにその穂先は後ろの大樹にまで届き、大猿の巨体を樹に縫い付ける。
「があああああああああ――ッ!?」
《暴猿》が再び絶叫を上げた。そして、両手で槍の柄を掴んで引き抜こうとする。が、よほど深く喰い込んでいるのだろう。槍はビクともしなかった。
『へへっ! どうよ!』
《アルゴス》がグッと拳を振り上げる。実に誇らしげな声だ。きっとあの機体の中では、エドワードが満面の笑みを浮かべているに違いない。
ロックはそんな友人の無事な姿に、安堵の笑みを浮かべつつ、
『まったく。調子のいい奴だな。まあ、無事だったのは良かったが……』
と呟き、斧槍を片手に《暴猿》に近付いていく。
『……先に襲い掛かってきたのはお前の方だ。悪いが決着をつけるぞ』
「があああああああ――ッ!」
身体を縫い付けられてもなお凶暴性を失わない《暴猿》。
ロックは無言で魔獣を見据えた。そうして、しばしの沈黙の後、《シアン》にとどめの意志を伝える。青い機体は水平に斧槍を振りかぶった。
そして、斧槍は魔獣の首へと風を切って――。
◆
「――凄い!」
サーシャは一人、《ホルン》の中でパチパチと手を叩いた。
『凄い! みんな凄いよ!』
続いて拡声器を通して賞賛を贈ると、三機の鎧機兵は拳を上げたり、親指を立てたりして応えてくる。言葉でなく態度で示すのはそれだけ勝利の余韻が強いのだろう。
「本当に、みんな凄い……」
サーシャは感嘆の声をもらす。が、少し複雑な気分でもあった。
この一週間、彼女達の上官であるオトハは、サーシャ達に徹底して《黄道法》の基礎を叩きこんだ。戦闘中に恒力を操り攻撃力を上げる技術。実はサーシャがアッシュからすでに学んでいたものでもあった。ちなみにサーシャはこの技術の習得に三週間かかった。
だというのに、アリシア達はたった一週間で――。
オトハの指導がよかったとも言えなくはないが、アリシアに至っては《雷歩》まで使えている。サーシャは未だ上手く使えないというのに、流石にこれはショックだ。
(……ううぅ、これが才能の差ってやつなのかな)
ついそんなことまで考えてしまう。まあ、確かにアリシアは十傑に入るほどの天才で、自分はどちらかというと落ちこぼれではあるのだが……。
と、軽く落ち込んでいたら、
『……どうしたフラム。元気がないようだが?』
オトハがそう話しかけてくる。
彼女の乗る《鬼刃》は先程まで地に突き立てていた剣を左手に握りしめていた。
すでに決着がついたので移動する準備に入っているのだろう。
『あ、いえ、何でもないです。それよりも移動ですか?』
『ああ。……ふむ。そうだなフラム。少し早いが荷物の運搬をハルトと代わっておけ。次はお前も実戦に加わるんだ』
『あ、はい!』
サーシャは《ホルン》の中でこくんと頷く。
『あまり力むなよ。まあ、その前に――お前達、集まれ!』
『『『ッ! 了解!』』』
オトハが呼び掛けると、浮かれていたアリシア達が駆け寄ってくる。
そして《ホルン》も含めた四機の鎧機兵が《鬼刃》の前で整列した。
『さて。今の戦い。採点をするぞ』
『さ、採点ですか?』
アリシアがキョトンとした声を上げると、『ああ、そうだ』とオトハが答え、それに合わせて《鬼刃》がおもむろに頷く。オトハは淡々と言葉を続けた。
『まずエイシス』
『あ、はい!』
『お前には言うことはない。見事なものだ。特に俊敏な《暴猿》の機動力を潰すため、足を狙ったのはよい判断だった。《雷歩》も少し発動に手間取ったようだが使えている。実戦を繰り返せばすぐに使いこなす段階にまでいけるだろう。これからも励め』
オトハの絶賛に近い評価に、《ユニコス》の中のアリシアは満面の笑みを浮かべた。
『はいっ! これからも精進します! ありがとうございました!』
『ああ。さて次はハルト』
『はい』
緊張の孕んだ声を上げるロックに、オトハはふっと苦笑を浮かべる。
『お前は……そうだな、八十点といったところだ。状況に応じた判断力はあるが、決断がワンテンポ遅い。仲間を思いやるのはよいことだが、他人を気遣いしすぎてお前自身の動きが鈍る時があるな。お前には判断力は充分備わっている。自分と仲間を信じて決断を躊躇うな』
『……分かりました。肝に命じます』
『ああ。それで最後にオニキスなんだが……』
『うっす! 何点でありましょうか、姐さん!』
ビシッと敬礼をする《アルゴス》に、オトハは溜息をついた。
そして彼女の乗る《鬼刃》が、剣の鞘でゴツンと《アルゴス》の頭部を叩いた。
『うおっ! あ、姐さん、何をっ!』
痛みがあるはずもないのに、何故か頭を押さえて座り込む《アルゴス》。
オトハは先程よりも深い溜息をついた。
『お前なあ……まぁいい。お前の点だが、大目に見ても三十点だ』
『ッ!? なんでっすか!? 俺、活躍したでしょう!?』
不本意な評価に、思わず反論の声を上げるエドワード。
オトハは呆れたように額に手を当てた。
『お前な。まず油断しすぎだ。猿に尾を掴まれ、振り回された鎧機兵など初めて見たぞ。それに最後の一撃。《黄道法》が上手く使えたのは誉めてやるが、何故、不意打ちのチャンスに自分の存在をアピールしてから攻撃する? エイシスが足を潰していたから当たったものの普通は避けられるぞ』
と、オトハが酷評すると、エドワードの乗る《アルゴス》は器用に頭をかき、
『いやあ、《黄道法》が上手いなんて照れちまうなあ……』
『おい。都合のいい部分だけ受け入れるな』
《鬼刃》の中でオトハがジト目になるが、彼女の眼力も鎧機兵の中では効果はない。
オトハは疲れ果てた表情でかぶりを振り、
『まあ、いい。とりあえず今回の採点は以上だ。さてフラム』
『えっ、は、はい!』
名前を呼ばれ、サーシャの乗る《ホルン》が反射的に敬礼する。
オトハは苦笑すると《鬼刃》を《ホルン》に近付かせ、ガンと肩に手を置き、
『そう気を張るな。さっきも言ったが次はお前の番だ。荷物は――』
と、言いかけた時だった。
オトハは表情を険しくした。いきなり悪寒を感じたのだ。
(な、に……?)
ぞわり、と。
再び背筋に寒気が走る。この感覚には覚えがある。戦場にて何度も経験した感覚だ。自分の命に危機が迫っている時、本能と経験が告げる警鐘だ。
『オトハ隊長? どうかしましたか?』
急に黙り込んだオトハに、サーシャが声をかけてくる。
『シッ。静かに。お前達も何もしゃべるな』
『? 姐さん?』
オトハの唐突な指示にエドワードは首を傾げるが、他の三人はオトハの放つ緊迫感を察したのだろう。指示に従い沈黙を守る。
「…………」
オトハは無言だった。ただ、静かに森の奥を見据えて危機の正体を探っている。自然と彼女の愛機・《鬼刃》は剣の柄に手を掛けていた。
そして――。
『ッ! 来たぞ! 総員警戒しろ! だが、手は出すな!』
オトハが鋭い声で一喝した、その直後、
――ズザザザザッ。
森の奥から、ざわめきが生まれた。
森に入ってから一度も聞いたことのない、巨大な何かが蠢くような音にサーシャ達は否応なしに緊張する。そして、ざわめきは徐々に大きくなっていき……。
――遂に、『そいつ』は現れた。
のそり、と森の奥から顔を出した『そいつ』を一言で表すならば――蛇。
妖しく光る紅い眼光に、隙間なく矢じりで覆ったような土色の鱗。そして、鎧機兵でさえ一呑みにできるであろう巨大なアギト。その奥には無数の牙もある。
現在、見えているのは頭部だけだが、推測するに体長は恐らく二十セージルから、下手すれば三十セージル。途轍もない大きさの異形の蛇だ。
そんな大蛇が、今目の前で舌を出して鎌首を動かしている。
サーシャ達、騎士候補生は声も出せなかった。
だが、その中で唯一人。
『……どうやら、もう一つの任務も完遂したようだな』
オトハだけが《鬼刃》を通じて皮肉めいた言葉をもらした。
オトハ達のもう一つの任務。それは、ある魔獣の存在を確認すること。
――そう。彼女達の前にいる大蛇こそが、目的の魔獣なのだ。
「シャアアアアアアア――ッ!」
そして轟く大蛇の咆哮。
凶悪な存在感を発する魔獣――《業蛇》の姿がそこにあった。
◆
――時刻は、午後五時前。クライン工房前にて。
その土木作業用の鎧機兵は、自らの調子を確かめるため片腕を振り回していた。
ぐるぐると右腕を回し、次に左腕を回す。さらには手を何度も開き、指の動作も確認する。そうして一通りチェックした後、操手である三十代の男はニカッと笑った。
「オオッ! やるな師匠! 完全に元通りだ!」
「ははっ、そっかそっか。けど師匠はやめてくれ」
お客様である男に、これまたニカッと笑って答えるアッシュ。
今アッシュは、修理の完了した鎧機兵を持ち主に引き渡したところだった。
「ははっ、そいつは無理ってもんだぞ。あんたもう『師匠』の名前で定着してるし」
「ははは、……マジで勘弁してくれよ……」
がっくりと肩を落とすアッシュに、男は豪快な笑みを浮かべる。
「ははっ、まあいいじゃねえか。良い宣伝になってんぞ。俺もそれで知ったしな」
男はアッシュを励ますようにそう告げると、自分の布製鞄に手を入れ、
「っと、上から失礼すんぞ。約束の銀貨二十枚だ。受け取ってくれ」
言って、鞄から取り出した小さな布袋を、アッシュに放り投げてきた。
アッシュは片手で掴み取ると袋を開け、銀貨の枚数を数え始める。
「……十九、二十、っと。確かに二十枚あるよ」
「おう。んじゃあ、こいつに乗って俺は帰るよ。ありがとな師匠。調子が悪くなったらまた頼むよ」
「ああ、いつでも言ってくれ」
そう告げて、アッシュが笑って手を振ると、男もまた笑って去っていった。
アッシュは自分の手がけた鎧機兵が見えなくなるのを確認してから、首をコキンと鳴らして大きな伸びをした。ふう。これでようやく大きな仕事の一つが片付いた。
「くああ、流石に疲れたなあ……朝から根を詰めすぎたか」
思えば今日は、昼食さえとらずにずっと働きっぱなしだった。
大分疲れも溜まっているのだろう。
「よし。今日の仕事はここまでにしとくか……って」
きゅるる、と鳴った腹を押さえてアッシュは苦笑する。
気を抜いた途端、急に腹が減り始めたのだ。
「う~ん、晩飯にはちょい早いな。とりあえずユーリィに何か貰ってくるか」
アッシュは工房の奥へと進むと、二階へ続く階段の前で声を上げた。
「お~い、ユーリィ! 何か喰いもんねえかあ!」
かなり大きめな声。二階の奥にいたとしても充分届くはずだ。
気のきくユーリィのことだ。きっと、すぐにでも何か食べ物を持ってきてくれるに違いない。そう思い、アッシュはしばし待った。
しかし、二分、三分と経ち、五分を過ぎても来る気配がない。
「……ん? お~い、ユーリィ!」
再度呼びかけるが、二階から応答はない。
不審に思ったアッシュは二階に上がった。
「お~い、ユーリィ?」
まず一番近い茶の間を覗き込むが、そこにユーリィはいない。アッシュはユーリィの名を呼びながら、キッチン、洗面所、客室などと各部屋をしらみつぶしに当たるが、どこにもユーリィの姿はなかった。
「……自分の部屋にでもいんのか?」
アッシュはユーリィの部屋に向かった。
「お~い、ユーリィ」
コンコン、とドアをノックするが、返事はない。アッシュは首を傾げた。もしかして寝ているのだろうか。
「ユーリィ。入るぞ」
一応、断りを入れてから、アッシュはドアを開けた。
滅多に入らないユーリィの部屋は、彼女らしく整理整頓された内装だった。薄い桃色の壁紙に、大量の本が納められた本棚。埃が一つもない勉強机に、綺麗に整頓されたベッド。その上にクマのぬいぐるみがあるのは、彼女も女の子ということなのだろう。
「……はは、あんまりこういうのは買ってやれなかったけどな」
アッシュはクマのぬいぐるみを手に取り、苦笑する。
が、それはさておき、やはりここにもユーリィはいない。
「一体どこに行ったんだ? ……いや待てよ」
アッシュはぬいぐるみを元の位置に戻すと、あごに手をやった。
冷静になってみれば、どうも変だ。ユーリィは仕事に没頭しやすいアッシュを気遣って昼食などの時は必ず声をかけてくる。なのに今日はそれがなかった。
「どういうことだ……?」
アッシュは首を捻る――と、ふと気付いた。
整理された勉強机の上に、何やら一枚の紙が置いてある。
「……何だこれ?」
アッシュは何気なく紙を手に取る。見るとそれは置手紙のようだった。筆跡、署名はユーリィのもので、どうやらアッシュに宛てたものらしい。
「ユーリィの手紙? どれどれ」
アッシュはまじまじと手紙に目を通して……。
……………………。
……………。
「……おい」
思わず、どすの利いた声を出してしまった。
そして一度目元をグッと押さえてから、もう一度手紙に目を通す。
そこには、こう書かれていた。
『――親愛なるアッシュへ。
やっぱり、メットさんが心配なのでついていくことにしました。
一週間後には帰ります。心配しないでください。
――あなたのユーリィより』
アッシュは、ただ呆然とした。
うん? これはどういうことだ? ついていくというのはあれか? 「ドランの大樹海」に行くということか? 何のサバイバル技術もない。鎧機兵も上手く扱えない。最近は蹴り技が冴えてきてはいるが、本来は同年代の女の子と比較しても明らかに非力なあの子が、固有種が徘徊しているような魔獣の巣窟に向かったということか……?
アッシュは沈黙を続けた。その表情は完全に固まっている。
正直、脳が状況に追いついていない。
が、それでもしばらく経つと、徐々に頬が引きつり始めて……。
「は、ははは……」
何故か笑いがこみ上げてくる。ああ、これはもう笑うしかない。
「はは、はっーははははははははははっははははははははははははははっははははっははははははははははは……ははは……はあ」
そしてプチンと切れた。
「だあああ、何やってんだ――ッ!? ユーリィイィィ!?」
クライン工房内どころか、ご近所の農家にまで届くほどの大絶叫。
愛娘のとんでもない暴挙に、アッシュはただただ雄たけびを上げるのだった。
深い、深い森の中。エドワードの絶叫が木霊した。
と、それに呼応するように《暴猿》も雄たけびを上げる。
「ぐおおおおおおおおお――ッ!」
そして、ブオンブオンと風を切り、《アルゴス》の尾を掴まえた《暴猿》が容赦なく緑色の機体を振りまわす。二回転、三回転と全身で回転する様はまるで竜巻のようだ。
『ひぎゃああああ――ッ!? だ、誰か助け……うぷっ』
エドワードが再び絶叫を上げ、最後にはえづき始める。
『エ、エド!』
友人の危機を見かねてロックの鎧機兵・《シアン》が駆け寄ろうとする。が、それを狙いすましたかのように《暴猿》が《アルゴス》の尾を離した。
『う、うおッ!』
砲弾のように飛んできた友人の機体を、《シアン》は斧槍を放り捨て、正面から受け止める。直後、凄まじい衝撃が青い機体を揺らした。
『ぐううううッ!』
ロックが呻き声を上げる。
咄嗟に恒力を両足に集中させ踏ん張ったおかげで吹き飛びはしなかったが、あまりの衝撃の前に、ガガガッと両足が地を削った。――まずい。抑えきれない。このままでは《アルゴス》ごと樹に叩きつけられる!
『――クッ! すまんエド!』
こうなっては仕方がない。腹を決めたロックは恒力の集中を両足から両腕へと移し、背面投げの要領で衝撃の元凶たる《アルゴス》を放り投げた。
結果、《アルゴス》は弧の軌跡を描いて、森の奥に呑みこまれていく。
『ちょ、おまっ!? それひどくねッ!?』
『後で飯でもおごってやる! 今は――クッ!』
背後からエドワードの悲鳴じみた批判が聞こえてくるが、ロックには気にしている余裕はなかった。なにせ、目の前に《暴猿》が迫ってきているのだ。
「がああああああ――ッ!」
《暴猿》が大きく右の拳を振り上げた。
ロックは素早く《シアン》の重心を動かすと、拳撃の軌道から機体を逸らす。そして勢いよく打ちおろされた右拳を凌ぎ、逆に大猿の右腕を抱きかかえるように捕えた。
「ぐがああああああ――ッ!」
『ぬうう……』
動きを封じられ暴れる《暴猿》に、ギシギシッと機体が軋み始める。が、それでも《シアン》は離さない。重武装の重さを活かして人型の手枷となる。
苛立つ《暴猿》はより巨体を揺らして暴れるが――。
「があッ!? があああああああ――ッ!」
『暴れても無駄だ! 今だ! やれエイシス!』
『うん! 分かった!』
ロックの声に、アリシアが応える。
《暴猿》と《シアン》の真横。八セージルほど離れた位置にいるアリシアの愛機・《ユニコス》が、重心を低くして身構える。
そして右の剣を水平に、大猿の右大腿部に標準を合わせると、
『いくわよ! 《ユニコス》!』
――ドンッ!
アリシアの掛け声と共に、《ユニコス》の足元から落雷の如き轟音が響いた。
途端、《ユニコス》がかき消えるような速度で跳躍した。恒力を足の裏から噴出して加速する《黄道法》の闘技――《雷歩》だ。
(く、くうううう!)
急激な加速に歯を食いしばって耐えるアリシア。そしてすぐさま訪れる衝撃。菫色の砲弾と化した《ユニコス》の剣が《暴猿》の大腿部に深々と突き刺ささったのだ!
「があッ!? があああああああああ――ッ!?」
激痛に《暴猿》が絶叫を上げる。傷口から血が吹き出し、黒い体毛で覆われた巨躯が
ガクンッと膝をつく。その隙を――ロックは見逃さなかった。
『――ぬん!』
《シアン》がズンと力強く足を踏み込み、大猿の腕を掴んだまま機体を反転。大木を引っこ抜くように《暴猿》を放り投げた。勢いよく飛翔する《暴猿》の巨躯。ロックとしてはそのまま樹にぶつけてやるつもりだったのだが、巨大とはいえ猿は猿。空中で軽やかに身を翻ると、大樹に両足をついて直撃を避ける。
が、それでも大腿部に受けたダメージは大きかったのだろう。着地するなり大樹に背を預けてもたれかかり、動こうとしない。しかし、その眼光だけは鋭く、「グルルゥ」と唸り声を上げて二機の鎧機兵を睨みつけていたが。
『……近付けば咬みついてやるって顔ね』
『……ああ、そうだな』
まだ、この魔獣は戦意を失ってなどいない。それは明らかだ。戦闘は今もなお続いているのだ。《シアン》は斧槍を拾い上げ、《ユニコス》は左の剣を身構えた。
そして、ジリジリと間合いを詰めようとした――その時だった。
『待て待て待ていッ! 俺、復活!』
突如、森の奥から響いてくる叫び声。
アリシア達が驚き、振り向くと、そこにはエドワードの愛機・《アルゴス》が、ズドドドッと轟音を立てて走ってくる姿があった。
その右手には槍を大きく振りかぶっている。投擲の構えだ。
『くっらえええ、エテ公オオォォ!』
エドワードがそう叫ぶと、恒力を右腕に集中させた《アルゴス》が槍を撃ち出した!
――ゴウッ!
風を切り裂く音。そして煌めく一条の光。
《アルゴス》が撃ち出した槍は、見事に《暴猿》の脇腹を貫いた。さらにその穂先は後ろの大樹にまで届き、大猿の巨体を樹に縫い付ける。
「があああああああああ――ッ!?」
《暴猿》が再び絶叫を上げた。そして、両手で槍の柄を掴んで引き抜こうとする。が、よほど深く喰い込んでいるのだろう。槍はビクともしなかった。
『へへっ! どうよ!』
《アルゴス》がグッと拳を振り上げる。実に誇らしげな声だ。きっとあの機体の中では、エドワードが満面の笑みを浮かべているに違いない。
ロックはそんな友人の無事な姿に、安堵の笑みを浮かべつつ、
『まったく。調子のいい奴だな。まあ、無事だったのは良かったが……』
と呟き、斧槍を片手に《暴猿》に近付いていく。
『……先に襲い掛かってきたのはお前の方だ。悪いが決着をつけるぞ』
「があああああああ――ッ!」
身体を縫い付けられてもなお凶暴性を失わない《暴猿》。
ロックは無言で魔獣を見据えた。そうして、しばしの沈黙の後、《シアン》にとどめの意志を伝える。青い機体は水平に斧槍を振りかぶった。
そして、斧槍は魔獣の首へと風を切って――。
◆
「――凄い!」
サーシャは一人、《ホルン》の中でパチパチと手を叩いた。
『凄い! みんな凄いよ!』
続いて拡声器を通して賞賛を贈ると、三機の鎧機兵は拳を上げたり、親指を立てたりして応えてくる。言葉でなく態度で示すのはそれだけ勝利の余韻が強いのだろう。
「本当に、みんな凄い……」
サーシャは感嘆の声をもらす。が、少し複雑な気分でもあった。
この一週間、彼女達の上官であるオトハは、サーシャ達に徹底して《黄道法》の基礎を叩きこんだ。戦闘中に恒力を操り攻撃力を上げる技術。実はサーシャがアッシュからすでに学んでいたものでもあった。ちなみにサーシャはこの技術の習得に三週間かかった。
だというのに、アリシア達はたった一週間で――。
オトハの指導がよかったとも言えなくはないが、アリシアに至っては《雷歩》まで使えている。サーシャは未だ上手く使えないというのに、流石にこれはショックだ。
(……ううぅ、これが才能の差ってやつなのかな)
ついそんなことまで考えてしまう。まあ、確かにアリシアは十傑に入るほどの天才で、自分はどちらかというと落ちこぼれではあるのだが……。
と、軽く落ち込んでいたら、
『……どうしたフラム。元気がないようだが?』
オトハがそう話しかけてくる。
彼女の乗る《鬼刃》は先程まで地に突き立てていた剣を左手に握りしめていた。
すでに決着がついたので移動する準備に入っているのだろう。
『あ、いえ、何でもないです。それよりも移動ですか?』
『ああ。……ふむ。そうだなフラム。少し早いが荷物の運搬をハルトと代わっておけ。次はお前も実戦に加わるんだ』
『あ、はい!』
サーシャは《ホルン》の中でこくんと頷く。
『あまり力むなよ。まあ、その前に――お前達、集まれ!』
『『『ッ! 了解!』』』
オトハが呼び掛けると、浮かれていたアリシア達が駆け寄ってくる。
そして《ホルン》も含めた四機の鎧機兵が《鬼刃》の前で整列した。
『さて。今の戦い。採点をするぞ』
『さ、採点ですか?』
アリシアがキョトンとした声を上げると、『ああ、そうだ』とオトハが答え、それに合わせて《鬼刃》がおもむろに頷く。オトハは淡々と言葉を続けた。
『まずエイシス』
『あ、はい!』
『お前には言うことはない。見事なものだ。特に俊敏な《暴猿》の機動力を潰すため、足を狙ったのはよい判断だった。《雷歩》も少し発動に手間取ったようだが使えている。実戦を繰り返せばすぐに使いこなす段階にまでいけるだろう。これからも励め』
オトハの絶賛に近い評価に、《ユニコス》の中のアリシアは満面の笑みを浮かべた。
『はいっ! これからも精進します! ありがとうございました!』
『ああ。さて次はハルト』
『はい』
緊張の孕んだ声を上げるロックに、オトハはふっと苦笑を浮かべる。
『お前は……そうだな、八十点といったところだ。状況に応じた判断力はあるが、決断がワンテンポ遅い。仲間を思いやるのはよいことだが、他人を気遣いしすぎてお前自身の動きが鈍る時があるな。お前には判断力は充分備わっている。自分と仲間を信じて決断を躊躇うな』
『……分かりました。肝に命じます』
『ああ。それで最後にオニキスなんだが……』
『うっす! 何点でありましょうか、姐さん!』
ビシッと敬礼をする《アルゴス》に、オトハは溜息をついた。
そして彼女の乗る《鬼刃》が、剣の鞘でゴツンと《アルゴス》の頭部を叩いた。
『うおっ! あ、姐さん、何をっ!』
痛みがあるはずもないのに、何故か頭を押さえて座り込む《アルゴス》。
オトハは先程よりも深い溜息をついた。
『お前なあ……まぁいい。お前の点だが、大目に見ても三十点だ』
『ッ!? なんでっすか!? 俺、活躍したでしょう!?』
不本意な評価に、思わず反論の声を上げるエドワード。
オトハは呆れたように額に手を当てた。
『お前な。まず油断しすぎだ。猿に尾を掴まれ、振り回された鎧機兵など初めて見たぞ。それに最後の一撃。《黄道法》が上手く使えたのは誉めてやるが、何故、不意打ちのチャンスに自分の存在をアピールしてから攻撃する? エイシスが足を潰していたから当たったものの普通は避けられるぞ』
と、オトハが酷評すると、エドワードの乗る《アルゴス》は器用に頭をかき、
『いやあ、《黄道法》が上手いなんて照れちまうなあ……』
『おい。都合のいい部分だけ受け入れるな』
《鬼刃》の中でオトハがジト目になるが、彼女の眼力も鎧機兵の中では効果はない。
オトハは疲れ果てた表情でかぶりを振り、
『まあ、いい。とりあえず今回の採点は以上だ。さてフラム』
『えっ、は、はい!』
名前を呼ばれ、サーシャの乗る《ホルン》が反射的に敬礼する。
オトハは苦笑すると《鬼刃》を《ホルン》に近付かせ、ガンと肩に手を置き、
『そう気を張るな。さっきも言ったが次はお前の番だ。荷物は――』
と、言いかけた時だった。
オトハは表情を険しくした。いきなり悪寒を感じたのだ。
(な、に……?)
ぞわり、と。
再び背筋に寒気が走る。この感覚には覚えがある。戦場にて何度も経験した感覚だ。自分の命に危機が迫っている時、本能と経験が告げる警鐘だ。
『オトハ隊長? どうかしましたか?』
急に黙り込んだオトハに、サーシャが声をかけてくる。
『シッ。静かに。お前達も何もしゃべるな』
『? 姐さん?』
オトハの唐突な指示にエドワードは首を傾げるが、他の三人はオトハの放つ緊迫感を察したのだろう。指示に従い沈黙を守る。
「…………」
オトハは無言だった。ただ、静かに森の奥を見据えて危機の正体を探っている。自然と彼女の愛機・《鬼刃》は剣の柄に手を掛けていた。
そして――。
『ッ! 来たぞ! 総員警戒しろ! だが、手は出すな!』
オトハが鋭い声で一喝した、その直後、
――ズザザザザッ。
森の奥から、ざわめきが生まれた。
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妖しく光る紅い眼光に、隙間なく矢じりで覆ったような土色の鱗。そして、鎧機兵でさえ一呑みにできるであろう巨大なアギト。その奥には無数の牙もある。
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そんな大蛇が、今目の前で舌を出して鎌首を動かしている。
サーシャ達、騎士候補生は声も出せなかった。
だが、その中で唯一人。
『……どうやら、もう一つの任務も完遂したようだな』
オトハだけが《鬼刃》を通じて皮肉めいた言葉をもらした。
オトハ達のもう一つの任務。それは、ある魔獣の存在を確認すること。
――そう。彼女達の前にいる大蛇こそが、目的の魔獣なのだ。
「シャアアアアアアア――ッ!」
そして轟く大蛇の咆哮。
凶悪な存在感を発する魔獣――《業蛇》の姿がそこにあった。
◆
――時刻は、午後五時前。クライン工房前にて。
その土木作業用の鎧機兵は、自らの調子を確かめるため片腕を振り回していた。
ぐるぐると右腕を回し、次に左腕を回す。さらには手を何度も開き、指の動作も確認する。そうして一通りチェックした後、操手である三十代の男はニカッと笑った。
「オオッ! やるな師匠! 完全に元通りだ!」
「ははっ、そっかそっか。けど師匠はやめてくれ」
お客様である男に、これまたニカッと笑って答えるアッシュ。
今アッシュは、修理の完了した鎧機兵を持ち主に引き渡したところだった。
「ははっ、そいつは無理ってもんだぞ。あんたもう『師匠』の名前で定着してるし」
「ははは、……マジで勘弁してくれよ……」
がっくりと肩を落とすアッシュに、男は豪快な笑みを浮かべる。
「ははっ、まあいいじゃねえか。良い宣伝になってんぞ。俺もそれで知ったしな」
男はアッシュを励ますようにそう告げると、自分の布製鞄に手を入れ、
「っと、上から失礼すんぞ。約束の銀貨二十枚だ。受け取ってくれ」
言って、鞄から取り出した小さな布袋を、アッシュに放り投げてきた。
アッシュは片手で掴み取ると袋を開け、銀貨の枚数を数え始める。
「……十九、二十、っと。確かに二十枚あるよ」
「おう。んじゃあ、こいつに乗って俺は帰るよ。ありがとな師匠。調子が悪くなったらまた頼むよ」
「ああ、いつでも言ってくれ」
そう告げて、アッシュが笑って手を振ると、男もまた笑って去っていった。
アッシュは自分の手がけた鎧機兵が見えなくなるのを確認してから、首をコキンと鳴らして大きな伸びをした。ふう。これでようやく大きな仕事の一つが片付いた。
「くああ、流石に疲れたなあ……朝から根を詰めすぎたか」
思えば今日は、昼食さえとらずにずっと働きっぱなしだった。
大分疲れも溜まっているのだろう。
「よし。今日の仕事はここまでにしとくか……って」
きゅるる、と鳴った腹を押さえてアッシュは苦笑する。
気を抜いた途端、急に腹が減り始めたのだ。
「う~ん、晩飯にはちょい早いな。とりあえずユーリィに何か貰ってくるか」
アッシュは工房の奥へと進むと、二階へ続く階段の前で声を上げた。
「お~い、ユーリィ! 何か喰いもんねえかあ!」
かなり大きめな声。二階の奥にいたとしても充分届くはずだ。
気のきくユーリィのことだ。きっと、すぐにでも何か食べ物を持ってきてくれるに違いない。そう思い、アッシュはしばし待った。
しかし、二分、三分と経ち、五分を過ぎても来る気配がない。
「……ん? お~い、ユーリィ!」
再度呼びかけるが、二階から応答はない。
不審に思ったアッシュは二階に上がった。
「お~い、ユーリィ?」
まず一番近い茶の間を覗き込むが、そこにユーリィはいない。アッシュはユーリィの名を呼びながら、キッチン、洗面所、客室などと各部屋をしらみつぶしに当たるが、どこにもユーリィの姿はなかった。
「……自分の部屋にでもいんのか?」
アッシュはユーリィの部屋に向かった。
「お~い、ユーリィ」
コンコン、とドアをノックするが、返事はない。アッシュは首を傾げた。もしかして寝ているのだろうか。
「ユーリィ。入るぞ」
一応、断りを入れてから、アッシュはドアを開けた。
滅多に入らないユーリィの部屋は、彼女らしく整理整頓された内装だった。薄い桃色の壁紙に、大量の本が納められた本棚。埃が一つもない勉強机に、綺麗に整頓されたベッド。その上にクマのぬいぐるみがあるのは、彼女も女の子ということなのだろう。
「……はは、あんまりこういうのは買ってやれなかったけどな」
アッシュはクマのぬいぐるみを手に取り、苦笑する。
が、それはさておき、やはりここにもユーリィはいない。
「一体どこに行ったんだ? ……いや待てよ」
アッシュはぬいぐるみを元の位置に戻すと、あごに手をやった。
冷静になってみれば、どうも変だ。ユーリィは仕事に没頭しやすいアッシュを気遣って昼食などの時は必ず声をかけてくる。なのに今日はそれがなかった。
「どういうことだ……?」
アッシュは首を捻る――と、ふと気付いた。
整理された勉強机の上に、何やら一枚の紙が置いてある。
「……何だこれ?」
アッシュは何気なく紙を手に取る。見るとそれは置手紙のようだった。筆跡、署名はユーリィのもので、どうやらアッシュに宛てたものらしい。
「ユーリィの手紙? どれどれ」
アッシュはまじまじと手紙に目を通して……。
……………………。
……………。
「……おい」
思わず、どすの利いた声を出してしまった。
そして一度目元をグッと押さえてから、もう一度手紙に目を通す。
そこには、こう書かれていた。
『――親愛なるアッシュへ。
やっぱり、メットさんが心配なのでついていくことにしました。
一週間後には帰ります。心配しないでください。
――あなたのユーリィより』
アッシュは、ただ呆然とした。
うん? これはどういうことだ? ついていくというのはあれか? 「ドランの大樹海」に行くということか? 何のサバイバル技術もない。鎧機兵も上手く扱えない。最近は蹴り技が冴えてきてはいるが、本来は同年代の女の子と比較しても明らかに非力なあの子が、固有種が徘徊しているような魔獣の巣窟に向かったということか……?
アッシュは沈黙を続けた。その表情は完全に固まっている。
正直、脳が状況に追いついていない。
が、それでもしばらく経つと、徐々に頬が引きつり始めて……。
「は、ははは……」
何故か笑いがこみ上げてくる。ああ、これはもう笑うしかない。
「はは、はっーははははははははははっははははははははははははははっははははっははははははははははは……ははは……はあ」
そしてプチンと切れた。
「だあああ、何やってんだ――ッ!? ユーリィイィィ!?」
クライン工房内どころか、ご近所の農家にまで届くほどの大絶叫。
愛娘のとんでもない暴挙に、アッシュはただただ雄たけびを上げるのだった。
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