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第14部
第四章 《夜の女神杯》②
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「トウヤ! トウヤ!」
レナは、元気いっぱいに告げた。
「オレは、トウヤを仲間にしたそうに見つめている!」
「……いや。お前、何を言ってんだ?」
鳥が羽ばたく清々しい早朝。クライン工房前にて。
両の拳を胸の前に、キラキラと瞳を輝かせながらそんなことを言ってくるレナに、アッシュは訝しげな様子でそう返した。
しかし、レナは揺るがない。
「――オレはトウヤを仲間にしたそうに見つめているんだ!」
「……うん。俺にも分かるように説明してくれ」
アッシュは嘆息した。
レナと再会した翌日。依頼は受けたばかりだというのに、一日さえも空けずに、レナは再びクライン工房にやって来た。
『おはよう! トウヤ!』
元気に手を振って駆けてくるレナ。
店を開けたばかりだったアッシュは、目を瞬かせた。
『どうしたんだ? レナ?』
『うん! あのな!』
そう切り出して口にしたのが、先程の台詞だった。
アッシュは首を傾げた。言っている意味がまるで分からないのだが、レナは瞳をキラキラと輝かせるだけで、全く説明しようとしない。
すると、
「……その女が『レナ』か?」
不意に後ろから声を掛けられた。
アッシュが振り向くと、そこには少し不機嫌そうなオトハがいた。
隣には、同じく機嫌が悪そうなユーリィの姿もあった。
「おう」
アッシュは頷いた。次いで、レナの頭をくしゃくしゃと撫でながら、
「俺の友人のレナだ。こう見えても傭兵だよ」
と、レナを紹介する。
「おう!」
レナは、オトハにも劣らない双丘をたゆんっと揺らして胸を張る。
「傭兵団 《フィスト》の団長のレナだ! よろしくな!」
それからニカっと笑い、
「ところで、お前は誰なんだ?」
「……私か?」
オトハは腰に片手を当てて、『敵』を見定めるように瞳を細めた。
「オトハ=タチバナだ。私も傭兵をしている。今は休職中だがな」
「へえ~、同業者なのか」
少し警戒するオトハにも、レナは明るかった。
「けど、なんで休職中なんだ?」
と、素朴な疑問をぶつけてくる。
オトハは「え?」と少し言葉を詰まらせた。
オトハがこの国に滞在している理由は一つだけ。
アッシュがこの国にいるからだ。そして彼女の元々の目的は――。
「その、私とクラインは、昔、同じ傭兵団にいたことがあってな。私はクラインの奴を、もう一度傭兵に戻そうと考えて……」
「えっ! そうなのか!」
レナは目を丸くした。
次いで、ポンと手を叩き、
「そっかあ。じゃあ、オレと同じなんだな」
ニカっと笑ってオトハの手を掴む。オトハは目を瞬かせた。
「え? え?」
「頑張ろうな。トウヤを傭兵にするんだ!」
「いや、それは確かに私も望んでいることだが、え?」
「うん! 頑張ろう!」
「あ、うん。はい」
オトハは困惑しつつも、気付いた時には頷いていた。
すると、ユーリィが、肘でオトハをつついた。
「黒毛女。何を懐柔されているの」
「いや、何か分からない内に……」
オトハはまだ困惑していた。
それに対し、レナの方といえば、ぺかあっと表情を輝かせていた。
「それにしても、オトハも強いな。立ち姿がすげえ綺麗だ! 対人戦なら、多分キャスよりも強いぞ。よし! なんならオトハもオレの団に入るか! トウヤと一緒に!」
「だから、その名前で呼ぶなって」
パカンっ、とアッシュはレナの頭を叩いた。
レナは、自分の頭を押さえて、アッシュを睨みつけた。
「何すんだよ。トウ……あ、アッシュだっけ?」
「そうだよ。つうか、仲間ってそういう意味だったのかよ」
「ん? オレ、最初っからそう言ってなかったか?」
小首を傾げてレナが言う。
アッシュは、深い溜息をついた。
「あのな。俺はようやくこの店を出したんだぞ。固定客も少しついて、それなりに軌道にも乗ってんだ。なんで傭兵に戻らなきゃなんねえだよ」
「けど、傭兵ならもっと儲かるぞ」
と、レナが言うが、アッシュはかぶりを振った。
「それはよく知っているよ。けど、俺は安全で安定した生活をしてえんだよ」
もう波乱万丈な人生はまっぴらだ。
これからは平穏に生きる。そのためにこの国にやって来たのだ。
ただ、この国に来ても、あまり平穏じゃないような気がするのは悩みの種だが。
「ともあれ、俺は傭兵にはなんねえ。以上だ」
「「むむむ」」
アッシュの宣言に、レナと、ついでにオトハが呻いた。一方、ユーリィだけは「私もいつでもお風呂に入れる今の生活の方がいい」と呟いていた。
アッシュは、友人と恋人の反応に苦笑した。
「……お前らな」
アッシュは彼女の間をすり抜けるように工房内に入っていく。
そして振り返ってこう告げた。
「とりあえず、朝飯にしようぜ。レナも食ってけよ」
そうして、朝食を取り。
アッシュとユーリィは仕事に、今日は休暇だったオトハとレナは、同じ傭兵同士だったためか、意外と意気投合して談話をしていた。
「……そうか。レナの傭兵団はオズニアで活動していたのか」
「おう。けど、オレはセラ出身でさ。活動範囲を広げたくなったんだ」
と、レナが笑う。
二人は今、クライン工房の隣の大広場にいた。
工房の壁際にパイプ椅子を二つ並べて座っている。わざわざ外にいるのは、仕事をしているアッシュとユーリィの邪魔をしてはいけないという配慮だ。
「まあ、個人的にはオズニアには妹がいねえって、うすうす感じてたのもあったしな。そんで思い切ってセラに戻って来たんだ」
「なるほど……」
オトハは目を細める。
「妹さんと再会できてよかったな」
「おう」
レナはニカっと笑った。
「まさか、伯爵と結婚しているとは思わなかったけどな。年齢の都合でまだ婚約者らしいけど、次に会う時は甥っ子か、姪っ子が生まれてるかもな」
そこで、レナは「うんうん」と腕を組んだ。
「オレも頑張らねえとな。多分、トウヤはまだサクのことが好きだろうし」
「……レナ。お前は……」
オトハは、何とも微妙な表情でレナを見つめた。
「やはり、クラインのことが好きなのか?」
「おう! 大好きだぞ!」
レナは即答した。
やはり推測通りの返答だ。そして改めて実感する。
どれほど性格が違っていても、アッシュを好きだという女性には迷いがない。
彼女も例外ではないようだ。
「そ、そうか……」
ラスボスのようなサクヤも迎えて、ようやく方向性がまとまったと思っていたのに、ここに至って、よもやの新しい参戦者とは……。
流石に顔を強張らせるが、それには一切気付かずに、レナは言葉を続けた。
「オレがトウヤの女になるのは確定だとしても、やっぱ、オレも子供が欲しいな。妹には負けてらんねえし。それに、オレとトウヤの子供ならきっとすげえ強いぞ」
「……ふん。それなら」
絶対に、私とクラインの子供の方が強い。
そう言いかけてオトハは、コホンと喉を鳴らした。
「と、ところでレナ」
やや赤くなりかける顔を誤魔化すように、オトハは別のことを告げた。
「お前がクラインの旧友とは知っているが、その名であまり呼ぶな。私だって、特別な時以外は控えているんだぞ」
「へ?」レナは目を瞬かせた。「特別な時って?」
「え?」
レナの問いかけに、オトハはキョトンとした。
――が、すぐに、今度こそ耳まで真っ赤になって俯いた。
「い、いや、そ、それは……」
両足は内股に、小さく体を縮こませる。
自分の迂闊な失言に、頭から湯気が出てしまいそうだった。
アッシュの本名を呼ぶ。それはオトハの我儘だった。
二人だけの時。
――そう。本当に誰もいない二人だけの時のみに呼ぶ名前なのだ。
それは、あの運命の夜に、彼に『お願い』したことだった。
あの夜、感極まった際に、思わず彼の本当の名前を呼んでしまったのだ。
そこで初めて気付いた。
恐らく、その名前を知った時から、オトハにとっても、その名前は特別な意味を持つものになっていたのだろう。それがつい口から零れ落ちてしまったのだと。
オトハは、今だけはその名を呼んでもいいかと彼に尋ねてみた。
『ダ、ダメか……?』
『……いや、今だけなら構わねえよ』
彼女の愛しい青年は少し躊躇いつつも、受け入れてくれたのである。
流石に、こればかりは誰にも語っていないことだった。
「どうしたんだ? オトハ? 顔が真っ赤だぞ?」
オトハの顔を覗き込んで、レナが言う。
回想から戻ったオトハは、ブンブンとかぶりを振った。
「い、いや、気にするな。それより、気をつけろよ」
「おう。トウヤ……あ、違った。アッシュの名前の件だよな」
レナは素直に頷いた。
どうやら意図的にではなく、素で間違えているようだった。
オトハは緊張と一緒に、大きく息を吐きだした。
「まあ、徐々に慣れていけばいいさ」
オトハは、レナに目をやった。
しかし、ユーリィから話には聞いていたが、本当に若い容姿だ。
オトハも十代後半と間違われることは結構あるが、レナは十代半ばにしか見えない。
とても、自分やミランシャと同い年とは思えなかった。むしろ、これで二十代だと言われても、子供が年齢を誤魔化しているようにしか見えないだろう。
(しかし、この見た目で……)
オトハは、ちらりとレナの胸元に目をやった。
何とも凄いボリュームだ。恐らく、自分やサーシャにも並ぶレベルだ。
オトハ自身は胸に関しては、ミランシャぐらいのが丁度いいと考えていた。
さほど邪魔にもならず、動きやすそうだからだ。
傭兵稼業に就くような女性は、大抵はそう考える。
しかし、今のオトハは、実体験で知っていた。
彼女の愛しい青年は、大きい方が好みであると。
(……むむむ)
内心で唸る。
そう言う意味では、レナは充分すぎるほどに、アッシュの好みということになる。
まあ、彼は性格面こそを一番重視しているようだが。
(それよりも今は……)
オトハは頭を悩ませた。
この新たな参戦者をどう扱うべきなのか。
自分たちの同志にするのか、それとも『敵』として排除すべきなのか。
それを判断しなければならなかった。
「どうしたんだオトハ? さっきから、なんか難しそうな顔をしているぞ」
そんなことは露知らず、レナは無邪気にそう尋ねてくる。
オトハは嘆息した。
一人で考えても、判断は下せない。
ここは、やはり他のメンバーの意見も聞くべきだろう。
「……いや。少し考え事をしていただけだ。それよりも」
オトハは視線をクライン工房の前の方に目をやった。
レナもつられて、そちらに視線を向ける。
――すると、
「あれ? オトハさん? レナさん? そんな所で何をしてるんですか?」
いつものヘルムを片手に抱えて。
これまたいつもの制服、そしていつものブレストプレートを身に着けたサーシャが、不思議そうな顔で覗き込む姿がそこにあった。
レナは、元気いっぱいに告げた。
「オレは、トウヤを仲間にしたそうに見つめている!」
「……いや。お前、何を言ってんだ?」
鳥が羽ばたく清々しい早朝。クライン工房前にて。
両の拳を胸の前に、キラキラと瞳を輝かせながらそんなことを言ってくるレナに、アッシュは訝しげな様子でそう返した。
しかし、レナは揺るがない。
「――オレはトウヤを仲間にしたそうに見つめているんだ!」
「……うん。俺にも分かるように説明してくれ」
アッシュは嘆息した。
レナと再会した翌日。依頼は受けたばかりだというのに、一日さえも空けずに、レナは再びクライン工房にやって来た。
『おはよう! トウヤ!』
元気に手を振って駆けてくるレナ。
店を開けたばかりだったアッシュは、目を瞬かせた。
『どうしたんだ? レナ?』
『うん! あのな!』
そう切り出して口にしたのが、先程の台詞だった。
アッシュは首を傾げた。言っている意味がまるで分からないのだが、レナは瞳をキラキラと輝かせるだけで、全く説明しようとしない。
すると、
「……その女が『レナ』か?」
不意に後ろから声を掛けられた。
アッシュが振り向くと、そこには少し不機嫌そうなオトハがいた。
隣には、同じく機嫌が悪そうなユーリィの姿もあった。
「おう」
アッシュは頷いた。次いで、レナの頭をくしゃくしゃと撫でながら、
「俺の友人のレナだ。こう見えても傭兵だよ」
と、レナを紹介する。
「おう!」
レナは、オトハにも劣らない双丘をたゆんっと揺らして胸を張る。
「傭兵団 《フィスト》の団長のレナだ! よろしくな!」
それからニカっと笑い、
「ところで、お前は誰なんだ?」
「……私か?」
オトハは腰に片手を当てて、『敵』を見定めるように瞳を細めた。
「オトハ=タチバナだ。私も傭兵をしている。今は休職中だがな」
「へえ~、同業者なのか」
少し警戒するオトハにも、レナは明るかった。
「けど、なんで休職中なんだ?」
と、素朴な疑問をぶつけてくる。
オトハは「え?」と少し言葉を詰まらせた。
オトハがこの国に滞在している理由は一つだけ。
アッシュがこの国にいるからだ。そして彼女の元々の目的は――。
「その、私とクラインは、昔、同じ傭兵団にいたことがあってな。私はクラインの奴を、もう一度傭兵に戻そうと考えて……」
「えっ! そうなのか!」
レナは目を丸くした。
次いで、ポンと手を叩き、
「そっかあ。じゃあ、オレと同じなんだな」
ニカっと笑ってオトハの手を掴む。オトハは目を瞬かせた。
「え? え?」
「頑張ろうな。トウヤを傭兵にするんだ!」
「いや、それは確かに私も望んでいることだが、え?」
「うん! 頑張ろう!」
「あ、うん。はい」
オトハは困惑しつつも、気付いた時には頷いていた。
すると、ユーリィが、肘でオトハをつついた。
「黒毛女。何を懐柔されているの」
「いや、何か分からない内に……」
オトハはまだ困惑していた。
それに対し、レナの方といえば、ぺかあっと表情を輝かせていた。
「それにしても、オトハも強いな。立ち姿がすげえ綺麗だ! 対人戦なら、多分キャスよりも強いぞ。よし! なんならオトハもオレの団に入るか! トウヤと一緒に!」
「だから、その名前で呼ぶなって」
パカンっ、とアッシュはレナの頭を叩いた。
レナは、自分の頭を押さえて、アッシュを睨みつけた。
「何すんだよ。トウ……あ、アッシュだっけ?」
「そうだよ。つうか、仲間ってそういう意味だったのかよ」
「ん? オレ、最初っからそう言ってなかったか?」
小首を傾げてレナが言う。
アッシュは、深い溜息をついた。
「あのな。俺はようやくこの店を出したんだぞ。固定客も少しついて、それなりに軌道にも乗ってんだ。なんで傭兵に戻らなきゃなんねえだよ」
「けど、傭兵ならもっと儲かるぞ」
と、レナが言うが、アッシュはかぶりを振った。
「それはよく知っているよ。けど、俺は安全で安定した生活をしてえんだよ」
もう波乱万丈な人生はまっぴらだ。
これからは平穏に生きる。そのためにこの国にやって来たのだ。
ただ、この国に来ても、あまり平穏じゃないような気がするのは悩みの種だが。
「ともあれ、俺は傭兵にはなんねえ。以上だ」
「「むむむ」」
アッシュの宣言に、レナと、ついでにオトハが呻いた。一方、ユーリィだけは「私もいつでもお風呂に入れる今の生活の方がいい」と呟いていた。
アッシュは、友人と恋人の反応に苦笑した。
「……お前らな」
アッシュは彼女の間をすり抜けるように工房内に入っていく。
そして振り返ってこう告げた。
「とりあえず、朝飯にしようぜ。レナも食ってけよ」
そうして、朝食を取り。
アッシュとユーリィは仕事に、今日は休暇だったオトハとレナは、同じ傭兵同士だったためか、意外と意気投合して談話をしていた。
「……そうか。レナの傭兵団はオズニアで活動していたのか」
「おう。けど、オレはセラ出身でさ。活動範囲を広げたくなったんだ」
と、レナが笑う。
二人は今、クライン工房の隣の大広場にいた。
工房の壁際にパイプ椅子を二つ並べて座っている。わざわざ外にいるのは、仕事をしているアッシュとユーリィの邪魔をしてはいけないという配慮だ。
「まあ、個人的にはオズニアには妹がいねえって、うすうす感じてたのもあったしな。そんで思い切ってセラに戻って来たんだ」
「なるほど……」
オトハは目を細める。
「妹さんと再会できてよかったな」
「おう」
レナはニカっと笑った。
「まさか、伯爵と結婚しているとは思わなかったけどな。年齢の都合でまだ婚約者らしいけど、次に会う時は甥っ子か、姪っ子が生まれてるかもな」
そこで、レナは「うんうん」と腕を組んだ。
「オレも頑張らねえとな。多分、トウヤはまだサクのことが好きだろうし」
「……レナ。お前は……」
オトハは、何とも微妙な表情でレナを見つめた。
「やはり、クラインのことが好きなのか?」
「おう! 大好きだぞ!」
レナは即答した。
やはり推測通りの返答だ。そして改めて実感する。
どれほど性格が違っていても、アッシュを好きだという女性には迷いがない。
彼女も例外ではないようだ。
「そ、そうか……」
ラスボスのようなサクヤも迎えて、ようやく方向性がまとまったと思っていたのに、ここに至って、よもやの新しい参戦者とは……。
流石に顔を強張らせるが、それには一切気付かずに、レナは言葉を続けた。
「オレがトウヤの女になるのは確定だとしても、やっぱ、オレも子供が欲しいな。妹には負けてらんねえし。それに、オレとトウヤの子供ならきっとすげえ強いぞ」
「……ふん。それなら」
絶対に、私とクラインの子供の方が強い。
そう言いかけてオトハは、コホンと喉を鳴らした。
「と、ところでレナ」
やや赤くなりかける顔を誤魔化すように、オトハは別のことを告げた。
「お前がクラインの旧友とは知っているが、その名であまり呼ぶな。私だって、特別な時以外は控えているんだぞ」
「へ?」レナは目を瞬かせた。「特別な時って?」
「え?」
レナの問いかけに、オトハはキョトンとした。
――が、すぐに、今度こそ耳まで真っ赤になって俯いた。
「い、いや、そ、それは……」
両足は内股に、小さく体を縮こませる。
自分の迂闊な失言に、頭から湯気が出てしまいそうだった。
アッシュの本名を呼ぶ。それはオトハの我儘だった。
二人だけの時。
――そう。本当に誰もいない二人だけの時のみに呼ぶ名前なのだ。
それは、あの運命の夜に、彼に『お願い』したことだった。
あの夜、感極まった際に、思わず彼の本当の名前を呼んでしまったのだ。
そこで初めて気付いた。
恐らく、その名前を知った時から、オトハにとっても、その名前は特別な意味を持つものになっていたのだろう。それがつい口から零れ落ちてしまったのだと。
オトハは、今だけはその名を呼んでもいいかと彼に尋ねてみた。
『ダ、ダメか……?』
『……いや、今だけなら構わねえよ』
彼女の愛しい青年は少し躊躇いつつも、受け入れてくれたのである。
流石に、こればかりは誰にも語っていないことだった。
「どうしたんだ? オトハ? 顔が真っ赤だぞ?」
オトハの顔を覗き込んで、レナが言う。
回想から戻ったオトハは、ブンブンとかぶりを振った。
「い、いや、気にするな。それより、気をつけろよ」
「おう。トウヤ……あ、違った。アッシュの名前の件だよな」
レナは素直に頷いた。
どうやら意図的にではなく、素で間違えているようだった。
オトハは緊張と一緒に、大きく息を吐きだした。
「まあ、徐々に慣れていけばいいさ」
オトハは、レナに目をやった。
しかし、ユーリィから話には聞いていたが、本当に若い容姿だ。
オトハも十代後半と間違われることは結構あるが、レナは十代半ばにしか見えない。
とても、自分やミランシャと同い年とは思えなかった。むしろ、これで二十代だと言われても、子供が年齢を誤魔化しているようにしか見えないだろう。
(しかし、この見た目で……)
オトハは、ちらりとレナの胸元に目をやった。
何とも凄いボリュームだ。恐らく、自分やサーシャにも並ぶレベルだ。
オトハ自身は胸に関しては、ミランシャぐらいのが丁度いいと考えていた。
さほど邪魔にもならず、動きやすそうだからだ。
傭兵稼業に就くような女性は、大抵はそう考える。
しかし、今のオトハは、実体験で知っていた。
彼女の愛しい青年は、大きい方が好みであると。
(……むむむ)
内心で唸る。
そう言う意味では、レナは充分すぎるほどに、アッシュの好みということになる。
まあ、彼は性格面こそを一番重視しているようだが。
(それよりも今は……)
オトハは頭を悩ませた。
この新たな参戦者をどう扱うべきなのか。
自分たちの同志にするのか、それとも『敵』として排除すべきなのか。
それを判断しなければならなかった。
「どうしたんだオトハ? さっきから、なんか難しそうな顔をしているぞ」
そんなことは露知らず、レナは無邪気にそう尋ねてくる。
オトハは嘆息した。
一人で考えても、判断は下せない。
ここは、やはり他のメンバーの意見も聞くべきだろう。
「……いや。少し考え事をしていただけだ。それよりも」
オトハは視線をクライン工房の前の方に目をやった。
レナもつられて、そちらに視線を向ける。
――すると、
「あれ? オトハさん? レナさん? そんな所で何をしてるんですか?」
いつものヘルムを片手に抱えて。
これまたいつもの制服、そしていつものブレストプレートを身に着けたサーシャが、不思議そうな顔で覗き込む姿がそこにあった。
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※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。
※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
※話の基幹、伏線に関わる文言についてのご指摘は申し訳ないですが受けられません
World of Fantasia
神代 コウ
ファンタジー
ゲームでファンタジーをするのではなく、人がファンタジーできる世界、それがWorld of Fantasia(ワールド オブ ファンタジア)通称WoF。
世界のアクティブユーザー数が3000万人を超える人気VR MMO RPG。
圧倒的な自由度と多彩なクラス、そして成長し続けるNPC達のAI技術。
そこにはまるでファンタジーの世界で、新たな人生を送っているかのような感覚にすらなる魅力がある。
現実の世界で迷い・躓き・無駄な時間を過ごしてきた慎(しん)はゲーム中、あるバグに遭遇し気絶してしまう。彼はゲームの世界と現実の世界を行き来できるようになっていた。
2つの世界を行き来できる人物を狙う者。現実の世界に現れるゲームのモンスター。
世界的人気作WoFに起きている問題を探る、ユーザー達のファンタジア、ここに開演。
お荷物認定を受けてSSS級PTを追放されました。でも実は俺がいたからSSS級になれていたようです。
幌須 慶治
ファンタジー
S級冒険者PT『疾風の英雄』
電光石火の攻撃で凶悪なモンスターを次々討伐して瞬く間に最上級ランクまで上がった冒険者の夢を体現するPTである。
龍狩りの一閃ゲラートを筆頭に極炎のバーバラ、岩盤砕きガイル、地竜射抜くローラの4人の圧倒的な火力を以って凶悪モンスターを次々と打ち倒していく姿は冒険者どころか庶民の憧れを一身に集めていた。
そんな中で俺、ロイドはただの盾持ち兼荷物運びとして見られている。
盾持ちなのだからと他の4人が動く前に現地で相手の注意を引き、模擬戦の時は2対1での攻撃を受ける。
当然地味な役割なのだから居ても居なくても気にも留められずに居ないものとして扱われる。
今日もそうして地竜を討伐して、俺は1人後処理をしてからギルドに戻る。
ようやく帰り着いた頃には日も沈み酒場で祝杯を挙げる仲間たちに報酬を私に近づいた時にそれは起こる。
ニヤついた目をしたゲラートが言い放つ
「ロイド、お前役にたたなすぎるからクビな!」
全員の目と口が弧を描いたのが見えた。
一応毎日更新目指して、15話位で終わる予定です。
作品紹介に出てる人物、主人公以外重要じゃないのはご愛嬌()
15話で終わる気がしないので終わるまで延長します、脱線多くてごめんなさい 2020/7/26
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