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第12部

幕間二 ドラミング・ナイト

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 ――市街区。
 とある宿の一室で、ボルドはベッドに腰を掛けて嘆息していた。
 時刻は、夜の九時を回っている。


「……これは困りましたね」


 ボルドは、自分の右手首を押さえていた。
 脈がかなり速い。体温も高かった。
 だが、これは、別に年齢による不調ではない。
 昼間、あの少年の瑞々しい闘気にあてられた結果だ。
 その不完全燃焼が、今も尾を引いているのである。


「クラインさんの弟。侮っていましたね」


 まさか、あれほどとは……。
 あの少年の力量に、年甲斐もなく血が騒いでしまった。
 その結果が、このヤバい不整脈だとは、何ともヤバかった。


(どうにかして、興奮を発散させないとヤバいですね)


 何というか、このままだと不整脈で翌日死体になっていそうだ。
 ――《九妖星》の一角。田舎の宿にて死亡。死因は心不全。
 しかも、部下である秘書と同室だ。
 絶対に『腹上死』だと噂されるに決まっている。


(それだけは御免です)


 ボルドは、ブルブルと頭を振った。
 身内に対してだけは、清廉潔白を信条にしているボルドにとっては最悪の死だ。
 それだけは、本当に勘弁して欲しい。


「……仕方がありませんね」


 ボルドは立ち上がる。
 この興奮を抑える方法は二つ。一つは戦闘だ。
 しかし、ここは異国の地。
 第5支部なら訓練所にでも行けば相手は幾らでもいるが、ここにはいない。


「本当に久方ぶりなのですが……」


 ならば、もう一つに頼るしかない。
 ――女だ。
 女を抱くしかない。
 だが、当然、カテリーナは論外だ。
 秘書を手籠めになど出来ない。ガレックでもあるまいし。


「この規模の街ならば、裏通りにでも行けば、娼館ぐらいあるでしょう」


 幸い、カテリーナは現在、留守にしている。
 この宿にある共同風呂に行っているのである。
 今の内に出かけてしまえば問題ない。後でどこに行っていたのかを問われても、散策していたとでも言えば、確認しようもないだろう。
 ボルドは決断した。


「善は急げです。行きますか」


 そして急ぎ出口に向かって、ドアを開いた瞬間だった。


「あら。お出かけですか? ボルドさま」


 最悪なことに、カテリーナとばったり遭遇してしまった。


(う、ぐ! これは!)


 ボルドは息を呑む。
 ――そう。最悪なことだった。
 風呂上りのために火照った肢体。
 そして醸し出される女性特有のフェロモン。
 娼婦を抱くつもりだったボルドは、モロにそれを嗅いでしまったのだ。
 しかも、


「……ふふ。似合っているでしょうか?」


 カテリーナの姿は、出かける前と違っていた。
 赤い眼鏡に、頭頂部で団子状に結いだ髪型は同じだ。
 ただ、服装が違う。
 彼女は、鎖骨や胸元が大きく開けた独特な衣装を纏っていた。
 淡い青色の、涼やかな衣装である。


「宿の女将が貸してくれました。アロンの衣装で『浴衣』というそうです」


 カテリーナがクスッと笑う。
 ちなみに、


『新婚さんなんだろ? いつもと違う格好で旦那を誘惑しちまいな』


 というのが女将の弁だ。
 カテリーナとしてはダメ元の格好である。
 しかし、それは彼女も予期しないほどに効果絶大だった。


(う、うお)


 スレンダーな彼女の体には本当によく似合っている。妖艶ささえ感じる。
 その上、あの美しい鎖骨に、わずかに汗が伝う胸元。
 加え、ダメ押しとばかりに漂う女のフェロモン。


(ま、まずい!)

「カ、カテリーナさん。実は私は――」


 用事があって。
 そう続けようとした時だった。


【――おいおい、おめえは馬鹿か?】


 突如、脳内に響いた声に、ボルドは絶句する。
 それは昔の……まるで獣のようだった時代の、ボルド自身の声だった。


【――このレベルの女を前にして、今更娼館かよ?】


 かつて《外道狸》と呼ばれていた若き日の自分の声は、くつくつと笑う。


【――娼婦なんぞが、この女の代わりになると思ってんのかよ。見ろよ、この無防備ぶり。とっとと部屋に連れ込んで喰っちまえよ】

(な、何を馬鹿なことを……)


 二十数年かけて培ってきた理性が、獣性を否定する。
 だが、そんな理性を破壊したのは彼女自身の行為だった。


「……? どうかされましたか? ボルドさま?」


 カテリーナは、片手で髪を押さえて身を乗り出してきたのだ。
 背が自分より低いボルドと視線を合わせるためだ。
 しかし、それによって、彼女の胸元まで強調されてしまう。
 その上で間近で発せられるフェロモン。


(……ああ、これはもう)


 ボルドは目を閉じた。
 頭の奥で若き日の自分が「グフフ」と笑っていた。
 カテリーナのことは、娘のように思っていた。
 さらに言えば、優秀な人材でもある。
 順当に行けば、近い将来、重要なポストを担うだけの才はあった。
 それも踏まえて、彼女のことは大切に育ててきたつもりだ。
 だが、結局のところ、自分は欲望の徒だった。
 加えて今、彼は切実な欲望を抱いていた。
 それを否定など出来ない。
 たとえ、彼女の精神と体をここで壊すことになっても、だ。


(仕方がありませんね)


 ボルドは、大きく溜息をついた。
 結局、これが自分という男だ。
 そうして、


「カテリーナさん」


 彼女の腕を掴む。
 まるでどこにも逃がさないように。


「とりあえず部屋に。湯冷めしてしまいますよ」

「あ、はい。そうですね」


 言って、カテリーナは扉をくぐった。
 そして少し駆け足になって窓際に立つ。
 カテリーナは呟いた。


「ああ、今夜は月が綺麗です。良い夜ですね。ボルドさま」

「……ええ」


 ボルドは自分の本性を苦々しく感じつつも。


「きっと、私にとっては良い夜になることでしょう」


 そう言って、ドアノブに手を掛けた。


「ボルドさま?」


 カテリーナは、無垢にも見える表情で振り向いた。
 ギイィ、と音が響き。
 ――パタン。
 部屋のドアが閉められる。
 なお、そのドアは翌日の朝まで開かれることはなかった。

 そうしてケダモノ腹太鼓ドラムを叩く。
 ドラミング・ナイト。
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