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第一話 転校生

2 異界、あるいは遭遇

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 ロウヤは着慣れたタンクトップとカーゴパンツに着替え、夜の旧校舎に忍び込む。光源はない。闇の中で動く程度、能力者であるロウヤには容易いことだった。昼間の街中を歩くように進む。
 昼間に確認した機械警備は、どれも既に壊されていた。自分以外にも、常世箱を狙った存在がいるのだろう。けれど、持ち出された気配はない。失敗し逃げ帰ったのか、あるいは。
「お。あれだ」
 廊下の突き当りに飾られた、大きな鏡の前に立つ。木枠のつけられた鏡は、複数人が同時に姿を移せる大きさ。埃がうすく積もっているが、傷一つない鏡面はぬらぬらと光っている。目を細めて、右下の木枠に彫られた飾りを確認する。龍の彫り物の一つに、黒目がない。白目を押さえるように指を重ね、丹田に力を込める。霊力が体に満ちていく。己の目をゆっくりと閉じた。
 落下する感覚。
 ロウヤが目を開くと、目の前には変わらず鏡がある。けれど背後に映る世界は、紫のモヤに覆われていた。瓶の底の澱のように漂うのは、霊力と怨念。

「……ちょっとコレは、レベルの違う異界だな」

 常世箱が隠された、常人では立ち入ることができない場所。異界自体はありふれている。道に迷わせる程度の低級なものばかりだが。しかし、これは違う。無限に続く廊下に、窓の外には天地のひっくり返ったグラウンド。

 極めつけは低級霊――ケモノダマだ。怨念を残して死んだ生物の魂が、破れたカーテンや抜けた床穴から目を光らせている。まるであらゆる執念が、常世箱を目指して這い回っているようだった。
「集めに集めたもんだな……っと」
 ロウヤは歩きはじめる。足を掴む、爪をむき出しにした手を蹴り飛ばす。肩口から襲いかかる鋭い牙を、軽く首を振って躱した。なおも首筋に齧りつこうとするケモノダマに指先を向ける。猫か猛禽類の爪のように曲げた指先で、素早く宙を掻いた。
 ざん、と風を切る音がする。見えない猛獣の牙で引き裂かれたように、ケモノダマは千切れていた。小さなモヤの塊に成り果てて、空気に霧散していく。しばらくはあのままだろう。姿を取り戻して害をなすようになるまでは――二年はかかるか。きちんと手順を踏んだ封印をすればいいが、今の目的は除霊ではない。
 ロウヤはため息を吐き、左の手のひらを見つめる。傷跡から溢れる力を意識した。
 ずるり、と傷口の中央から最初に現れたのは、犬科の鼻面だ。濡れて光る黒い鼻が、すぴすぴと周囲の匂いを嗅ぐ。
「出てこい、ソル」
 言葉に引かれるように勢いよく、獣が姿を表す。大きな顎と小さな耳。たし、と旧校舎の床に立ったのは、半透明の狼だった。陽炎のように全身が揺らめいており、実体のある存在ではない。
「よーし。気を引き締めていくぜ、相棒」
 クゥ、と小さく甘えるように鳴く。霊体の狼は緩く体をロウヤの足に擦り付けると、先頭に立った。ぴく、と小さく耳を動かし、無限の廊下の角を見つめる。その方角に何かがあるのだろう。ロウヤはソルに合わせて駆け出した。

 異界の中は入り組んでいる。入り口には戻れるよう印をつけておいたが、三分前に通った場所へは戻れない。背後の道はぐねぐねと変質している。ソルの鼻を頼りに、ケモノダマを蹴散らしながら進んだ。
 きいん。鋭い金属のような気配が、耳を掠めた。
「――ソル、止まれ」
 ロウヤは立ち止まると同時に、指先に力を込める。曲がり角の先の気配にソルも気づいているのだろう、体を低くし、喉の奥で小さく唸った。
 霊力が膨れ上がっている。生半なケモノダマとは違う、練り上げられた気配。完璧に組み立てられたパズルのような、歪みのない力。
 覚えがある。昼間の校庭の暑苦しい風。
 ロウヤは片頬を持ち上げた。カーゴパンツのポケットに、手を無造作に突っ込んだ。ソルは不思議そうにロウヤを見上げる。微笑み返して、ロウヤは角を曲がった。
「よう」
 まるで知り合いにでも挨拶するように、ロウヤは軽く手を持ち上げる。相手は不愉快そうに眉をひそめ、ゆっくりと両手で剣を構えた。青白い刀身の倭刀。白い装束は軍服のようにしっかりとしているが、細い肉体に変わりはない。伸びかけを結った黒い髪。冷酷とも見える視線で、彼は言った。

「何をしている」

 黒塚ジョウ。希衣子に紹介された守り人は、刃先と敵意をロウヤに向けたままそう問いかけた。

「駄目だぜ、こんな所にいる奴とハナシをしようとしても。泥棒か強盗に決まってるだろ」
「……ならず者め」
 真面目そうに長い眉を持ち上げる。ジョウの長い足の横を、するりと白い光の玉が動いた。大きな耳を持つ、四足歩行のシルエット。ふさふさと大きな尾は紐で結われている。霊体の狐は口を開いた。高い女の声が聞こえる。
「ジョウ。相手が年若いからといえ、惑わされるでないぞ。あやつは並々ならぬ霊力の持ち主じゃ」
「……わかっております。ゲッカ、力を」
 ロウヤはひゅうと口笛を吹いた。ケモノダマを使い魔にしているどころか、対話している。相当の年月を修行に費やしたのだろう。そして、ハイレベルなケモノダマを味方につけた。
 ゲッカと呼ばれた狐は、するりと飛び上がる。白い炎になり、ジョウの持つ倭刀に宿った。
「やる気か? いいぜ、挨拶したかったんだ」
「盗人風情が挨拶か」
 時代劇めいた口調に、ふっとロウヤは吹き出しかけた。爺ちゃんが好きだったな、と目を細める。そして、拳を軽く持ち上げた。

「おう。俺は転校生、阿闍梨ロウヤだ――よろしくな」

 先に動いたのはジョウだった。踏み込みが重い。いままで玄人を相手にしてきていたのだろう、剣筋に怯えがない。倭刀の切っ先がロウヤを貫こうとする。ロウヤは、斜め前に踏み込んだ。体を回転させ、ジョウの腕を掴もうとする。その筋は読まれていたのだろう、ジョウは冷静に退く。たん、といい響きを立ててウサギのようにまた踏み込んだ。
 ロウヤは拳を開いた。龍の爪のように、虎の牙のように霊力を漲らせる。体をぐっと低くし、タックルするようにジョウへ飛び込む。腹に目掛けて爪を向けると、角度を変えられた倭刀の切っ先がロウヤを迎えた。
 怯まない。
 素手で刃を掴む。本来であれば、無意味どころか大馬鹿者の行動だ。
「なっ!」

 ロウヤの両手は、霊力でコーティングされている。攻防一体の頑丈な手甲をつけているのと変わりない。全力でもぎ取ればいい。
 力を込めた瞬間だった。
 めら、とジョウの肩口に炎が燃える。青白い炎だ。ジョウの全身を、燐光を放つ炎が包んだ。
「――ッ?」
 ロウヤの手に、痛みが走る。青い炎は徐々に刃に移り、その鋭さを増していく。
「獣神一体、雪月花」
 ジョウの姿は、先程の狐と人を合わせたようなものに変化していた。黒髪をかき分けて、淡く透ける白い狐の耳が尖る。腰からは大きな尾が下がっていた。足先も指先も、手袋でも嵌めたかのように半透明の毛皮に覆われている。
「へぇ……っ、面白い、技だな」
 ロウヤの軽口に、ジョウは答えない。ただ力を込め、ぎりぎりとロウヤの手に痛みを与え続ける。ロウヤは脂汗を滲ませ、力強くなったジョウの攻撃をこらえ続ける。
「俺にも教えて欲しいもんだ」
「……降伏しろ。負けを認めれば、見逃してやる」
 ジョウの霊力は増し続けている。体勢を崩さないよう抗うのがやっとだ。
 ロウヤは笑った。
「負けちゃいねえよ」
 矢を射るような鋭い音がした。
 ジョウが素早く背後を振り向く。そこには、熊ほどの大きさのケモノダマが立っている。今にもジョウの背中へ鋭い爪を振り下ろそうとしていた。
「ッ!」
 霧散する巨大なケモノダマ。掻き分けるように狼が現れ、ジョウの横を抜けてロウヤの隣に立つ。
「ソル、お手柄だ」
「……なんだと」
 ロウヤはソルの耳下をもふもふと掻いてやる。嬉しげに目が細められた。ジョウはゆっくりと剣を構え直す。しかしその目線には戸惑いが浮かんでいた。
「お前は――味方に、私の背中を襲わせなかったのか?」
 ロウヤは頷き、伸びをする。切っ先を恐れず、肩を回した。ニッ、と大きく笑った。
「邪魔が入ったら面白くねえだろ?」
 ジョウの肉体から青い炎が消える。再び一体の狐に戻り、ジョウの足元へ降り立つ。
「なんじゃ、こやつは……ジョウ。縛り上げて本家へ差し出すがよい」
 高慢な姫君の口調で、ゲッカと呼ばれた狐は言う。
「それでもいいぜ。できるもんならな」
 ロウヤは頷く。本家が何だかはわからないが、親玉とハナシをつけるのが早いとは思っていた。常世箱を見つけるために、人脈は多いほうがいい。ジョウは目線を揺らす。
 鋭い声で、ジョウは言った。
「――帰れ。お前の素性については調べさせる」
「お。優しいねえ」
 ロウヤが笑いかけると、ジョウは背を向ける。まだこの旧校舎の見回りを続けるようだった。
 遠のくジョウの影に、ゲッカが近づいていく。きんきんと高い声が、ロウヤにも聞こえた。
「よいのか? それではあやつに……」
 ロウヤは拳で頬の汗を拭うと、ソルを撫でる。鏡の前へ戻るため歩き始めた。
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