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06.アプローチ作戦

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「か、ん、な、ぎ、ちゃん」
「なに?」
 いつもの通り、百点満点のクールな美女らしい態度で巫咲耶かんなぎ さくやが、顔を上げた。さらりと緩くウェーブのかかった髪を払うと、康平好みの甘い花のような香水の香りが周囲に舞う。ふんす、とその香りを軽く吸い込み、康平はばくばくと鳴る心臓を宥めながら巫の席へ近寄り机に片手をついた。
「えっと、アンタ、小山だっけ」
「あなたに片想い中の小山康平です」
「あ、そう……。で、何かしら」
 今日の講義は、A棟にある教室での少人数のものだ。とはいえ巫は友人たちと一緒にいて、こそこそと康平の方を見詰めている。多分、康平がフラれた日に居合わせた子たちなのだろう。遠目には巫を狙うライバルが顔を顰めながら康平と巫を見ている。フラれた癖に懲りないな、とは丹辺にも言われたが、康平には今秘策がある。ポケットに入れている写真を服越しに触ってから、康平はふっと小さく笑みを浮かべた。
 ツンとした巫の対応も、さほど苦ではない。
「ちょっとキミにだけ、見せたいものがあってさ」
 一切挫けることもなくそういえば、冷ややかな視線を向けていた巫も流石に少し首を傾げた。手にしていたスマホで時間を確認すると、そっと伏せる。
「ここで渡せないようなもの? ラブレターとかそういうの、ここでなら受け取ってあげるけど」
 今日はタイトなスカートを履いた巫が、康平を涼しい瞳で見上げる。誘った康平に従う気はまだなさそうで、深みのある口紅で彩られた口が弧を描いた。
 本当ならば大衆の面前で見せ付けてみたいのだが、生憎と遊利との約束もある。うずうずとするのを誤魔化すべくわざとらしい咳払いをして、康平は声を潜めて腰を屈めた。巫が姿勢を変える。
「ま、ま。ラブレターはまた後日……今日のはキミにプレゼント。ね、少しだけ端来てくんね?」
 ちょいちょいと教室の隅を指さすと、隣に座る友人と視線を合わせてから、渋々巫が立ち上がった。
「手短にしてくれるかしら」
「へへへ。サンキュ」
 下手なウィンクをして、康平がスキップするように講義室の端へ向かう。その後ろ姿を見た巫は、不安げにしている親友へ片手をあげて続く。
「ライブのチケットとか、優待券とかなら買い取って上げるけど一緒には行かないわよ」
 腕を組みながら康平へきっぱり言い放った巫に、康平は芝居がかって指を一本立てて見せた。
 ち、ち、ちとゆっくり振ってから、ポケットに入れてある写真をそのまま差し出す。巫は溜息を吐きながらそれを受け取り、裏返して。そうして、目を丸くしながら一瞬悲鳴のような声を上げた。
「はっ、ぁ、ええっ!? やだなに、嘘、本物?!」
「ちょちょちょ、しーっ。本物だって。オレ、そいつとダチでさ。ファンだって言ってたじゃん? だからそのサインあげようと思って」
 巫の声に、教室の目が二人へ向く。
 慌てて手渡した写真を隠すように立ちはだかった康平は、まじまじと写真と康平を見比べる巫の顔に、ほくほくと笑みを浮かべた。昨日、遊利と一緒に撮った写真をさっさとコンビニで現像して、サインを書かせた甲斐がある。クールでいつも美女らしく自信満々の巫が、頬を赤くして少女のようにわあ、うそ、きゃあと小さな声を上げている。
「信じらんない……ねえ、ホントにホントの本物……?」
「ああ、勿論サ。キミにだけだよ、そのツーショット写真のプレゼント。マジで、内緒にしてくれよ?」
 うっとりとした声で呟く巫に、康平はここ一番の決め声で囁く。
 こくこくと頷いて写真をじっと見つめる巫に満足し、康平はふっと格好をつけるように髪をかき上げた。
「嬉しい?」
「私服……」
「……喜んでもらえて良かったよ。講義、始まるからまたあとで」
「ありがと……」
「おっ、お、おう!」
 良い雰囲気かもしれない。チャンスとばかりに巫の肩を抱こうと康平が手を伸ばすが、写真を見詰めたまま巫はするりと躱して距離を取る。
 手持無沙汰になった手をちらりと見てから、康平は嬉しそうに緩んだ巫の顔を思い浮かべ、グッとにやける口をおさえた。今までになく、巫の関心を惹けている。確実な手ごたえを感じた康平は、ギャラリーに向けて勝ち誇ったように笑った。


 
 巫へサイン入りのツーショット写真を渡してから、康平はその日一日中上の空だった。なにせ、あんなに康平をキラキラとした顔で見つめる巫など、いや女子など初めて見たものだから。それはもう浮かれていた。
 ただ隣人と撮ったサイン付き写真を手渡しただけなのに、潤んだ目と声が聞けるとは。まるで人気者にでもなったような、未経験の満足感と充足感、もしくは全能感に包まれた康平は、マンションへ着くなり酷く上機嫌で隣人こと佐々原遊利の部屋を尋ねた。
 ふわふわとした足取りのままインターホンを鳴らすと、少しの間の後に小さく扉が開く。奥から、今日はウィッグだけを付けた遊利が小さく顔を出していた。
「お帰り康平くん」
「うーっす! な、な、ちょっと報告があんだけどさあ」
「あ、じゃあ中へ。どうぞ」
「お邪魔するぜ~」
 招かれる前から上がり込む気だった康平の動きは素早かった。開いた扉に身体を挟み込むと、ぬるりと遊利の部屋へと上がる。
 扉を閉めてドアチェーンを掛ける遊利を待たずにずかずかリビングへ向かうと、康平は通学用の黒いリュックを置いて、我が物顔に部屋の中央にあるテーブルへ手にしていたビニールを置いた。中には缶チューハイが二本と、温泉卵。
「いや~、お前のサインめちゃくちゃ喜んで貰えてさあ!!」
 上機嫌に報告しながら上着を脱いだ康平は、続けてキッチンへ向かうと、食器の少ないキッチンボードから丸皿とスプーンを取り出した。昨日の今日で調理器具が増えているわけもなく、遊利の家のキッチンはまだ随分と綺麗だ。
「そ、そっか」
「巫ちゃんの顔可愛かったぁ……あ、カレー食っていい?」
「うん」
 許可を得るなり冷蔵庫を開けた康平が、推定三日目の残りものカレーを全部よそって温める。ついでに炊飯器から米もよそる。
 ほかほかのカレーを持った康平がリビングへ戻ると、遊利は昨日と同じようにパステルグリーンのラグへちょこんと小さく座っていた。放り投げていた康平の上着はコートハンガーに引っ掛かっていて、カバンもきちんと立てかけてある。テーブルも、先ほどまではコップが置いてあったが、いつの間にかそれは端に寄せられていた。
 少し悩んでから康平がカレーを机に置いてそのまま遊利の対面へ胡坐で座り込むと、遊利が少しだけ目を瞬かせる。誰もいないソファは、夕日で薄桃色に見えた。
「ほい」
 座るなり、康平は机の上のビニール袋からごそごそとチューハイを一本取り出し、遊利へ差した。コンビニで売っている、手頃な価格のものだ。
「祝杯」
「ん……? これ、僕に?」
「他に誰がいんだよ。オレの彼女ゲットへの第一歩に乾杯すっぞ」
「あ、お付き合い決まったんだね」
「第一歩っつってんだろぉ! お前みたいな即持ち帰り可能な、イ、イ、イケメン芸能人と一緒にすんな」
「も、持ち帰り……って?」
「うるせえ」
 キョトンとした遊利にそのままチューハイを押し付けてから、康平はもう片方の手で器用に自分のチューハイのプルタブを開けた。ぷしゅりと一つ音がして、アルコールと、人工的なグレープフルーツの香りが広がる。
「かんぱーい」
「か、乾杯」
 康平が開封したての缶を持ち上げて遊利の缶へ近付けると、慌てたように遊利が未開栓のまま缶を軽く持ち上げた。かこんと二つの缶で音を立てて、康平はそのままぐびりとチューハイをあおる。そんな康平を見ながら、遊利は躊躇いがちにプルタブへ指を掛けた。
「ふはーっ、美味い」
 三分の一を飲み切って、康平はご機嫌に温泉卵をカレーに乗せた。そのまま行儀を気にせずかこかこと食器の音を立てながら混ぜていると、ぷしゅりと缶の開く音がして、康平は視線だけをそちらへ向けた。
 遊利は、開栓した缶チューハイに顔を寄せてスンスンと香りを嗅いでいた。それがネコか何かのようで、康平はそれをぼんやりと見守りつつカレーを一口すくい取った。三日目のカレー、美味しい。
 香りを嗅いだ後、遊利は恐る恐る舐めるようにチューハイを飲んで目をぱちぱちとさせて、今度は缶をくるくると回してラベルを眺める。まるでネコか子供のような動きだなあと見ていると、ふいに康平と遊利の視線が重なった。
 一瞬、気まずそうな沈黙が降りるような気がして、康平は何も考えずにカレーを飲み込んで口を開いた。
「あのさ、お前、宴会とかあんまりしたことねーの?」
 ぽやりと口を半分開いた遊利が、少しだけ寂しそうに遠い目をしてもう一度チューハイへ口を付ける。酒が苦手ということではないようで、康平は少しだけ安心した。無理に飲ませたいわけではない。
「ううん、そうだね。共演者の人とか、事務所の先輩たちとかと食事会はあるけれど。友達……としたことはないな」
「ふーん……ふうん……共演者」
 共演者といえば。そういえば、遊利が出ていたとかいうこの前までのドラマには、最近人気のアイドルグループの子が出ていた。康平の目元がぴくりとする。脇役だけど、モデル上がりのタレントもいた。康平の口元が緩む。生徒役には元子役もいた。教師役には演技派女優に、笑うと可愛くて大人っぽい売れっ子女優。
 ポンポンと頭に浮かぶ普通じゃお目にかかれなそうな芸能人の姿に、康平の鼻息が少しずつ荒くなっていく。今、目の前にはお目にかかるきっかけがいるのだ。良案を思い付いたとばかりに、康平はチューハイを強く机に置いて、身を乗り出した。
「な、な、な! 遊利ちゃあん」
 猫なで声を出した康平に、ちびちびと缶を傾けていた遊利が小首を傾げる。さらりとウィッグが揺れると、柔らかな石鹸の香りが部屋に広がった。
「あのさあ~芸能界の人との合コンの席とか、作って欲しいなあ~」
「ええっ。そういうのはちょっと、ダメって言われてるから」
「な~あ~。頼むよお。オレへの協力作戦第二弾として! モデルのことかさあ、女優さんとかさあ、お知り合いになりてえんだよな~」
 きゅるん、としたことのないような潤んだ瞳で康平が遊利を見詰める。遊利が困ったように眉尻を下げるのを見て、康平はわざと追撃するように失敗したアヒル口を突き出しわざとらしいおねだりポーズを取った。
「おねがぁ~い」
 ひっくり返った猫なで声も追加すると、遊利が思わず目を逸らした。ふるふると丸めた肩が揺れる。
「ふ、っふふ。そんな風に見られても、で、出来ないったら……」
「んじゃ合コンでなくても良いからさあ~ん。おねがぁい」
 もう一度重ねられた更にわざとらしい猫なで声に、遊利の抑えた口元からふふと息が漏れた。
 凛とした印象の目元がアルコールの所為か笑いの所為か少し赤く染まっているのが見えて、康平はなんだか楽しくなってきて、目を細めた。遊利のぎこちない笑いと、静かな笑いしか見たことがなかったが、どうやらちゃんと吹き出したりするらしい。そういう当たり前のようなことが気に入って、康平は更にオーバーなおねだりを繰り返した。
「おねがいっおねがぁい。合コンがダメならお食事会でもカフェーでお茶会でもヌンティ―でも良いからぁん!」
 ぷりぷりと小刻みに揺れると、遊利がまた少し目を逸らす。
「遊利くうん。この通りだからさあ」
「ンッ。ふ、ふふ、わ……分かったからっ。事務所の、先輩たちと、おっ、お茶の約束しててッ。その時、に、で。いい?」
 ひとしきり、康平が不思議な動きを繰り返して遊利が笑いを堪えるのを繰り返して、先に折れたのは遊利の方だった。もう笑いが抑えきれなくなってきたのだろう。言葉に何度か詰まりながら了承する。康平を見る目は、少し潤んでいた。
「よっしゃ! いや~流石佐々原遊利様。よろしくぅ」
 康平がガッツポーズをとると、遊利は缶に口を隠してくふくふと素直に笑う。
「ふ、あはは。しょうがないなあ……来週の火曜日の、お昼過ぎだけど……」
「おっけーおっけー。楽しみだなあ、何着てこ」
 すっかり冷めたカレーをかきこんだ康平は、残ったチューハイをもう一度うきうきと掲げた。それに遊利が高さを揃えて、かこんと缶をぶつける。
「とりま、第二段の作戦に乾杯」
「ふふ、乾杯」
 少し軽くなった缶の音は、なんだか酷く楽しそうだった。
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