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ベリルは死んでいなかった。慟哭のあまりに我を失いかけていたシルヴェステルを再び現世に戻したのは、カミーユの叫び声であった。
「ベリル様は、まだ生きておられます!」
脈も呼吸も弱々しいが、確かに生命の灯は、小さいながらもまだ燃えていた。安らかで、眠っているとしか思えない表情を浮かべている。
しかし、御殿医も謎の無気力症状に陥ってしまった今、彼を治療することは非常に困難を極め、自然と目を覚ますのを待つことしかできない。クーリエの元にいた医者を呼びつけようと思っても、ヌヴェール領まで派遣する人材もいない。
シルヴェステルはすべてを放棄して、ベリルの枕元に付き添った。一日中、一晩中、飽きもせず寝顔を眺め、命が尽きないように祈りを捧げた。こんなにも必死に神に呼びかけるのは、初めてのことだった。
シルヴェステルが後宮の一室に引きこもり、ベリルの看病をするようになると、完全に王城は政府としての機能を停止した。取引のあった城下の商人たちへの支払いは滞り、結果、物資は城へと届かなくなり、経済も混乱しているらしい。
勝手に職務に復帰したカミーユたち父子が、どうにか最低限の仕事をしているようだが、シルヴェステルは興味がなかった。
竜は愛情深く、想いを向けた相手に執着する。竜王よりも必ず先に、妃は死ぬ。だから歴代竜王たちは、後宮に多くの妃を囲って、愛情を分散させていた。ひとりの妃を喪ったときに、狂ってしまわないように。
人間の娼婦から産まれたシルヴェステルは、孤独に苛まれた結果、偏愛傾向がより強い。だが、ベリルが普通よりも頑丈な肉体なのだから、寿命の違いはあれど、長くともにいられると思っていた。
「ベリル。早く、お前のその目を見せておくれ」
前に重く垂れた黒髪を掻き分け、額に口づける。竜人と比べると少し低い鼻にも、赤みのない唇にも触れる。史実とも伝説ともつかぬ昔話に出てくる姫君は、彼女を心から愛する貴公子のキスによって目覚めるというのに、ベリルには一切の反応がない。ただひたすら、夢を見ているだけ。
誰が相手であろうとも、決して屈したり、媚びたりしない。その強いまなざしを思い出すことで、シルヴェステルはなんとか生きている状態であった。
シルヴェステルの精神は、薄氷の上にある。誰かに少し背を押されれば、狂気の深淵に落ちてしまうような、危うい均衡を保っている。
「竜王陛下」
そしてその「誰か」は、すでにシルヴェステルの隣にいる。
直接沙汰に及んだジョゼフは捕らえられ、投獄されている。幻術の影響下から完全に抜け出し、ベリルへの懺悔の言葉と回復の祈りを口いするばかりだという。
黒幕のナーガはといえば、事件後、すぐに姿を消していた。警備を強化することは急務と言えたが、兵士たちはいまだ幻術の後遺症に悩まされており、まともに城内を警邏することすらできていない始末だった。警備が手薄なところを狙って、ナーガは再度、侵入してきたのである。
彼はシルヴェステルの白銀の長髪を一房手にした。手入れもままならず、すっかり傷んでしまった髪の毛に、彼は不快感を表す。ここまで来るのにも、術を行使したのだろう。彼の目は赤と素の深緑が混じった、奇妙な色合いをしている。
もう今は、彼が蛇人族ですべての元凶であることを理解している。それでもシルヴェステルは、動かなかった。動けなかった。
すでにナーガの術は、この身と心を深く蝕んでいた。ベリルが倒れてからもう何日が経ったか。最後の仕上げに必要な時間を稼いでいたのだろう。
身を苛むほどの、深い絶望。
ナーガは微笑む。ベリルに向けていた穏やかな表情そのままに。それが彼なりの糾弾のように感じた。元凶はナーガだというのに、なぜかシルヴェステルの心中には、自責の念がぐるぐると渦巻いている。
「私が、悪いのか?」
問いかけではない。独り言のつもりだった。
「私が、ベリルだけを愛してしまったから、こうなったのか?」
シルヴェステルのやつれた肉体に、ナーガは両腕を絡ませてくる。肩や腕、胸を淫靡に撫でていくが、シルヴェステルはまったく反応を示さない。快だけではなく、不快もだ。
本気で誘惑していたわけではないナーガだが、獲物が不感であることに、鼻を鳴らして不満を訴えた。するりと腕を離すと、腰を曲げ、シルヴェステルの顔を覗き込む。
その目は鮮紅。どんな高価な宝石よりも、毒々しく赤く光り輝いている。
「違いますよ、親愛なる竜王様。あなたが悪いんじゃありません」
歌うように、彼は耳元に囁く。
悪いのは、この国すべてです、と。
「人間を、蛇人を蔑むこの国そのものが、ベリル様を殺すのです」
蛇人だから。それだけで、竜人も人間も忌み嫌う。産まれた瞬間に殺したり、目を潰したうえで捨てることが、当たり前だと思っている。
「我々だって人なのです。心穏やかに過ごしたいだけ」
最底辺の娼館で身体を売って惨めに生き長らえるのではない。貴族としででなくてもいい。畑を耕し、牛や羊を飼い、人としての当たり前の営みを行いたかっただけ。
神殿でいつ自分の出自がばれるのかに怯えて、こそこそと生きる日々を、抜け出したかっただけ。
「あなた方竜王は、何も、何もしてこなかった」
ナーガの術にジョゼフや毒入り葡萄酒事件の実行犯が深く嵌まったのは、彼らが竜人への憤りを募らせていたからだ。竜人たちの人間たちへの侮りもまた、ナーガには好都合だった。どんな感情であれ、曇りきった目と心は、幻術にかかりやすい。
そして今、シルヴェステルの心もまた、ベリルを喪いかねない悲しみと焦り、守り切れなかった自分への怒りで平静ではない。
赤い目が、誘い込む。
「けれど、あなたは歴代の竜王とは違う。人間の腹から産まれたというだけでずっと、差別されてきたあなたこそ」
この国を破壊する、最後の駒。
「さぁ、陛下。あなたはこの国を壊すために産まれたお方。その身に眠る力、すべて解放してしまいなさい。未来永劫の孤独から逃れるためには、そうするしかないのですから」
より一層輝きを増した赤い目を最後に、シルヴェステルの意識は途切れた。
その瞬間、大地が揺れる。
「ベリル様は、まだ生きておられます!」
脈も呼吸も弱々しいが、確かに生命の灯は、小さいながらもまだ燃えていた。安らかで、眠っているとしか思えない表情を浮かべている。
しかし、御殿医も謎の無気力症状に陥ってしまった今、彼を治療することは非常に困難を極め、自然と目を覚ますのを待つことしかできない。クーリエの元にいた医者を呼びつけようと思っても、ヌヴェール領まで派遣する人材もいない。
シルヴェステルはすべてを放棄して、ベリルの枕元に付き添った。一日中、一晩中、飽きもせず寝顔を眺め、命が尽きないように祈りを捧げた。こんなにも必死に神に呼びかけるのは、初めてのことだった。
シルヴェステルが後宮の一室に引きこもり、ベリルの看病をするようになると、完全に王城は政府としての機能を停止した。取引のあった城下の商人たちへの支払いは滞り、結果、物資は城へと届かなくなり、経済も混乱しているらしい。
勝手に職務に復帰したカミーユたち父子が、どうにか最低限の仕事をしているようだが、シルヴェステルは興味がなかった。
竜は愛情深く、想いを向けた相手に執着する。竜王よりも必ず先に、妃は死ぬ。だから歴代竜王たちは、後宮に多くの妃を囲って、愛情を分散させていた。ひとりの妃を喪ったときに、狂ってしまわないように。
人間の娼婦から産まれたシルヴェステルは、孤独に苛まれた結果、偏愛傾向がより強い。だが、ベリルが普通よりも頑丈な肉体なのだから、寿命の違いはあれど、長くともにいられると思っていた。
「ベリル。早く、お前のその目を見せておくれ」
前に重く垂れた黒髪を掻き分け、額に口づける。竜人と比べると少し低い鼻にも、赤みのない唇にも触れる。史実とも伝説ともつかぬ昔話に出てくる姫君は、彼女を心から愛する貴公子のキスによって目覚めるというのに、ベリルには一切の反応がない。ただひたすら、夢を見ているだけ。
誰が相手であろうとも、決して屈したり、媚びたりしない。その強いまなざしを思い出すことで、シルヴェステルはなんとか生きている状態であった。
シルヴェステルの精神は、薄氷の上にある。誰かに少し背を押されれば、狂気の深淵に落ちてしまうような、危うい均衡を保っている。
「竜王陛下」
そしてその「誰か」は、すでにシルヴェステルの隣にいる。
直接沙汰に及んだジョゼフは捕らえられ、投獄されている。幻術の影響下から完全に抜け出し、ベリルへの懺悔の言葉と回復の祈りを口いするばかりだという。
黒幕のナーガはといえば、事件後、すぐに姿を消していた。警備を強化することは急務と言えたが、兵士たちはいまだ幻術の後遺症に悩まされており、まともに城内を警邏することすらできていない始末だった。警備が手薄なところを狙って、ナーガは再度、侵入してきたのである。
彼はシルヴェステルの白銀の長髪を一房手にした。手入れもままならず、すっかり傷んでしまった髪の毛に、彼は不快感を表す。ここまで来るのにも、術を行使したのだろう。彼の目は赤と素の深緑が混じった、奇妙な色合いをしている。
もう今は、彼が蛇人族ですべての元凶であることを理解している。それでもシルヴェステルは、動かなかった。動けなかった。
すでにナーガの術は、この身と心を深く蝕んでいた。ベリルが倒れてからもう何日が経ったか。最後の仕上げに必要な時間を稼いでいたのだろう。
身を苛むほどの、深い絶望。
ナーガは微笑む。ベリルに向けていた穏やかな表情そのままに。それが彼なりの糾弾のように感じた。元凶はナーガだというのに、なぜかシルヴェステルの心中には、自責の念がぐるぐると渦巻いている。
「私が、悪いのか?」
問いかけではない。独り言のつもりだった。
「私が、ベリルだけを愛してしまったから、こうなったのか?」
シルヴェステルのやつれた肉体に、ナーガは両腕を絡ませてくる。肩や腕、胸を淫靡に撫でていくが、シルヴェステルはまったく反応を示さない。快だけではなく、不快もだ。
本気で誘惑していたわけではないナーガだが、獲物が不感であることに、鼻を鳴らして不満を訴えた。するりと腕を離すと、腰を曲げ、シルヴェステルの顔を覗き込む。
その目は鮮紅。どんな高価な宝石よりも、毒々しく赤く光り輝いている。
「違いますよ、親愛なる竜王様。あなたが悪いんじゃありません」
歌うように、彼は耳元に囁く。
悪いのは、この国すべてです、と。
「人間を、蛇人を蔑むこの国そのものが、ベリル様を殺すのです」
蛇人だから。それだけで、竜人も人間も忌み嫌う。産まれた瞬間に殺したり、目を潰したうえで捨てることが、当たり前だと思っている。
「我々だって人なのです。心穏やかに過ごしたいだけ」
最底辺の娼館で身体を売って惨めに生き長らえるのではない。貴族としででなくてもいい。畑を耕し、牛や羊を飼い、人としての当たり前の営みを行いたかっただけ。
神殿でいつ自分の出自がばれるのかに怯えて、こそこそと生きる日々を、抜け出したかっただけ。
「あなた方竜王は、何も、何もしてこなかった」
ナーガの術にジョゼフや毒入り葡萄酒事件の実行犯が深く嵌まったのは、彼らが竜人への憤りを募らせていたからだ。竜人たちの人間たちへの侮りもまた、ナーガには好都合だった。どんな感情であれ、曇りきった目と心は、幻術にかかりやすい。
そして今、シルヴェステルの心もまた、ベリルを喪いかねない悲しみと焦り、守り切れなかった自分への怒りで平静ではない。
赤い目が、誘い込む。
「けれど、あなたは歴代の竜王とは違う。人間の腹から産まれたというだけでずっと、差別されてきたあなたこそ」
この国を破壊する、最後の駒。
「さぁ、陛下。あなたはこの国を壊すために産まれたお方。その身に眠る力、すべて解放してしまいなさい。未来永劫の孤独から逃れるためには、そうするしかないのですから」
より一層輝きを増した赤い目を最後に、シルヴェステルの意識は途切れた。
その瞬間、大地が揺れる。
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