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「それではベリル様、参りましょう」
差し出された手を取ろうとしたら、見送りにやってきたシルヴェステルによって阻まれた。彼の手は、人間の手より断然大きく、力強い。ぎゅう、と思いきり力を込めて握られて、ジョゼフは悲鳴を上げた。
「陛下。それ以上すると、骨が折れてしまいます」
ベリルが助け船を出すのも気に入らないとばかりにジョゼフを睨みつけ、ふん! と、シルヴェステルは不機嫌そうに、渋々手を離した。真っ赤になった手を振りながら、ジョゼフは悶絶している。
ジョゼフも一緒に街に下りると知った瞬間のシルヴェステルの憤怒といったら、思い出したくない。ギラギラと目を光らせ、風もないのに長い髪が逆立っていた。
あの男が行くなら私も行くと主張したが、さすがに竜王がお忍びで城下町に行くとなると、それはもはや遊びではなく、視察という名の仕事にするしかない。警備体制の見直しをはじめ、準備が必要である。とてもじゃないが一日でどうにかなるはずもなく、シルヴェステルをどうにか宥め、諦めてもらった。
ジョゼフは下町の案内係である。今でこそ不測の事態に対応できるように、後宮のすぐ横の使用人屋敷の一室に暮らしているが、彼は上京してからずっと、下町のぼろ長屋暮らしであった。観光すべき場所も、危険だから近づかない方がいい場所も知り尽くしている。
「陛下。お小遣い、ありがとうございます」
「なに。本来組まれている予算が余っているからな。存分に使ってくるといい」
後宮に妃がいようがいまいが、予算は毎年計上されている。妃の趣味に合わせて調度品を揃えたり、女性であれば競うように購入する宝飾品やドレスの類を購入するための費用だが、ベリルはどちらも興味がなかった。
庶民の金銭感覚も、知識としては頭に入っている。下町の買い物にはどう考えても多いだろうという小遣いを持たされた。おそらく使い切ることはできないだろう。
「お土産買ってきますね」
思わず、「いい子にしててくださいね」と言いかけて、慌てて口を噤む。尖った唇に何を考えたのか、シルヴェステルがキスをしてきた。人前でなんて、はしたない。離れた瞬間にジョゼフを振り返ると、何も見ていません! という顔でそっぽを向いていた。
名残惜しそうにしているシルヴェステルから離れ、ベリルは今度こそ、馬車に乗り込んだ。
王都・ドランと一口に言っても、城の近辺は貴族たちの邸宅が並んでいる。変わり映えしない、どれも似たり寄ったりの屋敷ばかりで、見るべきものは何もない。
「ベリル様、朝食は?」
「抜いた! ジョゼフがお腹減らしていけって言うから、もうペコペコだ」
馬車の中でも、ジョゼフは饒舌であった。一応、カミーユの目がある手前、主人に礼を尽くす口調である。彼の語り口は具体的で、一度も味わったことのない屋台グルメの味が、ありありと舌に蘇ってくるような気さえしてくる。
わくわくを隠せないベリルたちの一方、カミーユは寡黙であった。早くも馬車に酔ったのかと気遣うと、彼は首を横に振ろうとして、やめた。その動きが頭を揺らし、気持ち悪くなってしまうためである。
「平気ですよ」
そう言ったきり、再び黙りこくってしまう。
ベリルはジョゼフと顔を見合わせた。今日はカミーユの久しぶりの休暇である。そこにベリルが便乗させてもらったわけだが、よく考えなくとも、彼の気は休まらない。面倒な子守を任されたようなもの。
ベリルは自分たちとカミーユで二対一に分かれて散策しようと提案したが、彼は頑として聞き入れなかった。
「今日は護衛を連れておりませんので」
ベリルが出かけるということで、今日は近衛が馬車に並走している。事故や事件に遭遇したとき、ミッテラン侯爵家の手の者が同伴していると、責任の所在がわからなくなってしまい、無用のトラブルが起きる。
カミーユも大貴族の次期当主であり、単独行動は許されていない。かといって、護衛の数は二つに分けるには不足している。
淡々と諭されて、ベリルは黙りこくった。ジョゼフも空気を読んで口を閉ざしたため、重苦しい沈黙の中、馬車は貴族街と下町の境目にさしかかる。
「わぁ」
まったく異なる風景に、思わずベリルは子供っぽい声を上げた。庶民向けの店からやや高級な店まで、まさしく玉石混淆である。広場には市が立ち、屋台が並ぶ。
出稼ぎに来た田舎者も、お忍びの貴族も、この場所を闊歩する者は皆、いっぱしの目利きになったつもりでいる。商家の子供たちは市場を遊び場にして、露店の批評をしながら、掘り出し物探しに余念がない。こうして品物を見極める目を鍛えているのだと、ジョゼフが説明してくれた。
市の外れで馬車を止めて降り立ったベリルは、圧倒されて立ちすくんだ。
これが、王都・ドラン。
荘厳な王城とも、のどかな後宮とも違う、活気のある街を見渡す。あちこちで値切りの攻防が行われ、熱が入りすぎて怒鳴り合いになっている。貴族の言葉とはまるで違う庶民の言葉は、早口すぎてベリルには聞き取れないほどだ。
「怖い?」
喧噪に、ジョゼフからの問いかけも二度三度、聞き逃していた。
ベリルは首を横に振る。
「俺もやってみたい!」
恐怖するよりも、興奮の方が勝つ。あまりの意気込みに、ジョゼフは驚きながらも、「まとめ買いで安くしてもらったりとか、いろいろコツがあるんだぜ」と、囁いた。
早く店を回りたくてうずうずしているベリルだが、この短距離でも馬車に酔ったカミーユの回復を待つ。青い顔がだいぶましになったところで、ベリルは二人を連れ回した。護衛もぞろぞろと動くので、目立って仕方がないが、庶民にはまだ、竜王が後宮に迎え入れた妃の人相は割れていない。何事かと思われている様子だが、背後に控えたカミーユを見て、皆納得した表情を浮かべる。
貴族が寵愛する小姓の我が儘に付き合っているのだろう、と。
ジョゼフおすすめの屋台で串焼きを買った。まとめ買いで安くしてもらい、護衛の兵にも配る。シンプルに塩だけの味つけは、城では味わえない野性味に溢れている。ところどころ味にムラがあるのも、屋台料理の醍醐味だろう。噛めば噛むほど肉汁が口の中に溢れ、旨みがじんわりと広がっていく。
「美味しい」
「だろ?」
食べながら歩くのが、市場での慣習だった。行儀が悪いと怒るナーガもいない。長く神殿で暮らし、自分と同じで後宮から出る機会のない彼も誘ったのだが、心眼の修行を理由に断られた。慣れない場所を目を瞑って歩くのは、さすがに難しい。
ナーガが同行しないと知ってへこんだジョゼフは、ちらちらと宝飾品の店に意識を奪われていた。
「ジョゼフ。何か欲しいものでもあるの?」
まだ見習いとはいえ、炊事場で雑用係をしていたときとは比べものにならないほどの給金を得ている。とはいえ、富豪向けの高級品を商う店で買い物ができるほどではない。
普段世話になっているし、シルヴェステルからもらった小遣いは、ひとりで使うには多すぎる。もしも何か欲しいものがあるなら、お礼にプレゼントしようかと言うベリルに、ジョゼフは首を横に振った。
「いや。好きな人に渡すプレゼントだから、自分で稼いだ金で買わなきゃ」
好きな人。
ジョゼフの言うそれは、当然ナーガのことである。初めて見た瞬間に、心奪われたと言っていた。確かにナーガは美しく、優しい。ジョゼフよりも背が高いが、そこは彼にとっては気にならないところらしい。
「あの赤い石の首飾りなんて、ナーガに似合いそうだよなあ」
定期的に商人がやってきては、この手の宝飾品を売り込んでいくため、ベリルの目もすっかり肥えていた。ジョゼフが指した首飾りは、赤い大きな貴石がメインの豪奢なものである。正直、清貧なところが魅力のひとつであるナーガには似合わないと思ったが、ジョゼフがそう思うのなら、そうなのだろう。人の趣味には口を出さないのが吉だ。
「すごく高そう」
首飾りの意匠や宝石の美しさについては触れずに感想を述べたベリルに、ジョゼフは深い溜息をついた。
「そうなんだよなあ。給料は増えても、使う機会が減ったから、けっこう貯まってたんだけど。手持ちの金全部持ってきても、全然足りない」
落ち込む素振りのジョゼフに、ベリルは助け船を出した。
「ナーガは今でも心は神官だから、宝石はあまり興味ないかもしれないよ」
「じゃあ、例えばどんなものを贈ればいい?」
少し悩んで、ベリルは「お茶っ葉とか? ナーガはお茶淹れるの得意だし、いい匂いのお茶をよく飲んでるから」と提案する。
茶葉であれば、ちょっとした贅沢品でも購入できそうだとジョゼフは拳を握った。その様子を見て、ベリルはふと、自分自身のことを考える。
自分もシルヴェステルに土産を買おうと思っていたが、金の出所はセーラフィール王国、つまりはシルヴェステルだ。好きな人への贈り物は、自分の金で。確かにそちらの方が喜ばれそうだが、ベリルの自由になる金は、国家予算である。
「俺も陛下にお土産を買いたかったけど……陛下のお金だしなあ」
カフェも併設された茶の専門店へと意気揚々と入店し、あれでもないこれでもないと匂いを嗅ぎ、店員にあれこれ質問をしていたジョゼフは、ベリルの力ない独り言を聞きとがめ、振り向いた。
「何言ってんだ。お前はお妃様なんだから、いいんだよ。むしろその金で着飾って、にっこり笑ってやれば陛下は大喜びだろう」
「何それ」
失礼な物言いだが、このやりとりが愛おしく楽しい。膨れたふりをしたベリルは、「これとこれとこれ! たぶんナーガが好きそう!」と、勝手に茶葉を選び、ジョゼフに渡した。
「おお、ありがとう!」
意気揚々と会計を済ませるジョゼフを置いて店を出ると、そこにはカミーユがいた。だいぶ前に手渡した串焼きを持ったまま、一口も食べていない。口に合わなかったのなら、悪いことをした。
「カミーユ。串焼きが冷めてしまうよ」
声をかけると、「ああ、はい」と、返事はするものの、いまいち噛み合っていない。これはだいぶ疲れている。そう、溜息をついたときだった。
「旦那?」
茶葉店の横の路地裏から、女の声がした。雑踏の中、たまたま聞こえたわけではない。明確にこちらに向けて話しかけてきた声に、誰だろうと思いながら、ベリルは振り返る。
うっ、と、顔を顰めてしまいそうになった。咄嗟にカミーユの巨体に隠れたのは、女があまりにも破廉恥な格好をしていたからだ。豊満な胸が半分以上露わになった粗末なドレスは、貞淑な貴婦人の姿しか見たことがなかったベリルには、刺激が強い。同じように胸が大きく開いたドレスでも、全然違う。
タイミングよく店から出てきたジョゼフは、カミーユの陰に隠れたベリルを見て首を傾げ、それから女に釘づけになる。正確には、女の胸に。ナーガのことが好きだと言うくせに、ジョゼフは男としての性も隠せない。
娼婦だ。
立派で清潔な都にも、いや、そんな街だからこそ、貧富の差は歴然としている。生活に困れば、まずは身のまわりの品物を質に入れる。それから住んでいる家。そして最後に売ることができるものは、女も男も、自分の肉体のみ。
ただそれだけの話だし、自分自身もシルヴェステルに対して似たようなことをしたくせに、ベリルは女を敬遠した。
彼女はへらへらと笑いながら近づいてくる。太陽の高い時間だというのに、すでに酔っているのか、足下が覚束ない。あっ、と思ったときにはすでに躓いており、カミーユが抱き留めてやるはめになった。安い香水と酒の臭いが混じり、ベリルはくらくらする。
「やっぱり旦那じゃあないか。久しぶりぃ。ちょうどいいや。新しい男が二人、入ってるよ」
驚くことに、女はカミーユと旧知であるらしい。高潔で生真面目な男だとばかり思っていたが、裏切られた気分だ。ベリルはじとりと非難がましい目で、カミーユを見上げた。
彼は慌てて、言い訳を始める。
「違います! これには理由が……」
それを遮って、「ほら早くぅ。男娼は娼婦よりも珍しいし、商売できる期間も限られているから、またどっかへ行っちゃうわよ?」と、女が彼の手を引っ張っていこうとした。
小柄な身体と色の濃い髪や目は人間族だろうが、押しが強い。竜人のカミーユにも物怖じせずに、ぐいぐいくる。
ついでにジョゼフは、たじたじになっているカミーユが大層面白いらしく、ただにやにやしている。
ベリルと女の板挟みになり、ジョゼフの助けも借りられないカミーユは、爆発した。
「ああ! きちんと説明しますから! マリアンヌ、今日は君のところには行かない。代わりにどこか、落ち着いて話ができるところに案内してくれ!」
叫び声に目をぱちくりさせた娼婦・マリアンヌは、「高くつくところでも、いいのかしら?」と言って、にんまり笑った。
差し出された手を取ろうとしたら、見送りにやってきたシルヴェステルによって阻まれた。彼の手は、人間の手より断然大きく、力強い。ぎゅう、と思いきり力を込めて握られて、ジョゼフは悲鳴を上げた。
「陛下。それ以上すると、骨が折れてしまいます」
ベリルが助け船を出すのも気に入らないとばかりにジョゼフを睨みつけ、ふん! と、シルヴェステルは不機嫌そうに、渋々手を離した。真っ赤になった手を振りながら、ジョゼフは悶絶している。
ジョゼフも一緒に街に下りると知った瞬間のシルヴェステルの憤怒といったら、思い出したくない。ギラギラと目を光らせ、風もないのに長い髪が逆立っていた。
あの男が行くなら私も行くと主張したが、さすがに竜王がお忍びで城下町に行くとなると、それはもはや遊びではなく、視察という名の仕事にするしかない。警備体制の見直しをはじめ、準備が必要である。とてもじゃないが一日でどうにかなるはずもなく、シルヴェステルをどうにか宥め、諦めてもらった。
ジョゼフは下町の案内係である。今でこそ不測の事態に対応できるように、後宮のすぐ横の使用人屋敷の一室に暮らしているが、彼は上京してからずっと、下町のぼろ長屋暮らしであった。観光すべき場所も、危険だから近づかない方がいい場所も知り尽くしている。
「陛下。お小遣い、ありがとうございます」
「なに。本来組まれている予算が余っているからな。存分に使ってくるといい」
後宮に妃がいようがいまいが、予算は毎年計上されている。妃の趣味に合わせて調度品を揃えたり、女性であれば競うように購入する宝飾品やドレスの類を購入するための費用だが、ベリルはどちらも興味がなかった。
庶民の金銭感覚も、知識としては頭に入っている。下町の買い物にはどう考えても多いだろうという小遣いを持たされた。おそらく使い切ることはできないだろう。
「お土産買ってきますね」
思わず、「いい子にしててくださいね」と言いかけて、慌てて口を噤む。尖った唇に何を考えたのか、シルヴェステルがキスをしてきた。人前でなんて、はしたない。離れた瞬間にジョゼフを振り返ると、何も見ていません! という顔でそっぽを向いていた。
名残惜しそうにしているシルヴェステルから離れ、ベリルは今度こそ、馬車に乗り込んだ。
王都・ドランと一口に言っても、城の近辺は貴族たちの邸宅が並んでいる。変わり映えしない、どれも似たり寄ったりの屋敷ばかりで、見るべきものは何もない。
「ベリル様、朝食は?」
「抜いた! ジョゼフがお腹減らしていけって言うから、もうペコペコだ」
馬車の中でも、ジョゼフは饒舌であった。一応、カミーユの目がある手前、主人に礼を尽くす口調である。彼の語り口は具体的で、一度も味わったことのない屋台グルメの味が、ありありと舌に蘇ってくるような気さえしてくる。
わくわくを隠せないベリルたちの一方、カミーユは寡黙であった。早くも馬車に酔ったのかと気遣うと、彼は首を横に振ろうとして、やめた。その動きが頭を揺らし、気持ち悪くなってしまうためである。
「平気ですよ」
そう言ったきり、再び黙りこくってしまう。
ベリルはジョゼフと顔を見合わせた。今日はカミーユの久しぶりの休暇である。そこにベリルが便乗させてもらったわけだが、よく考えなくとも、彼の気は休まらない。面倒な子守を任されたようなもの。
ベリルは自分たちとカミーユで二対一に分かれて散策しようと提案したが、彼は頑として聞き入れなかった。
「今日は護衛を連れておりませんので」
ベリルが出かけるということで、今日は近衛が馬車に並走している。事故や事件に遭遇したとき、ミッテラン侯爵家の手の者が同伴していると、責任の所在がわからなくなってしまい、無用のトラブルが起きる。
カミーユも大貴族の次期当主であり、単独行動は許されていない。かといって、護衛の数は二つに分けるには不足している。
淡々と諭されて、ベリルは黙りこくった。ジョゼフも空気を読んで口を閉ざしたため、重苦しい沈黙の中、馬車は貴族街と下町の境目にさしかかる。
「わぁ」
まったく異なる風景に、思わずベリルは子供っぽい声を上げた。庶民向けの店からやや高級な店まで、まさしく玉石混淆である。広場には市が立ち、屋台が並ぶ。
出稼ぎに来た田舎者も、お忍びの貴族も、この場所を闊歩する者は皆、いっぱしの目利きになったつもりでいる。商家の子供たちは市場を遊び場にして、露店の批評をしながら、掘り出し物探しに余念がない。こうして品物を見極める目を鍛えているのだと、ジョゼフが説明してくれた。
市の外れで馬車を止めて降り立ったベリルは、圧倒されて立ちすくんだ。
これが、王都・ドラン。
荘厳な王城とも、のどかな後宮とも違う、活気のある街を見渡す。あちこちで値切りの攻防が行われ、熱が入りすぎて怒鳴り合いになっている。貴族の言葉とはまるで違う庶民の言葉は、早口すぎてベリルには聞き取れないほどだ。
「怖い?」
喧噪に、ジョゼフからの問いかけも二度三度、聞き逃していた。
ベリルは首を横に振る。
「俺もやってみたい!」
恐怖するよりも、興奮の方が勝つ。あまりの意気込みに、ジョゼフは驚きながらも、「まとめ買いで安くしてもらったりとか、いろいろコツがあるんだぜ」と、囁いた。
早く店を回りたくてうずうずしているベリルだが、この短距離でも馬車に酔ったカミーユの回復を待つ。青い顔がだいぶましになったところで、ベリルは二人を連れ回した。護衛もぞろぞろと動くので、目立って仕方がないが、庶民にはまだ、竜王が後宮に迎え入れた妃の人相は割れていない。何事かと思われている様子だが、背後に控えたカミーユを見て、皆納得した表情を浮かべる。
貴族が寵愛する小姓の我が儘に付き合っているのだろう、と。
ジョゼフおすすめの屋台で串焼きを買った。まとめ買いで安くしてもらい、護衛の兵にも配る。シンプルに塩だけの味つけは、城では味わえない野性味に溢れている。ところどころ味にムラがあるのも、屋台料理の醍醐味だろう。噛めば噛むほど肉汁が口の中に溢れ、旨みがじんわりと広がっていく。
「美味しい」
「だろ?」
食べながら歩くのが、市場での慣習だった。行儀が悪いと怒るナーガもいない。長く神殿で暮らし、自分と同じで後宮から出る機会のない彼も誘ったのだが、心眼の修行を理由に断られた。慣れない場所を目を瞑って歩くのは、さすがに難しい。
ナーガが同行しないと知ってへこんだジョゼフは、ちらちらと宝飾品の店に意識を奪われていた。
「ジョゼフ。何か欲しいものでもあるの?」
まだ見習いとはいえ、炊事場で雑用係をしていたときとは比べものにならないほどの給金を得ている。とはいえ、富豪向けの高級品を商う店で買い物ができるほどではない。
普段世話になっているし、シルヴェステルからもらった小遣いは、ひとりで使うには多すぎる。もしも何か欲しいものがあるなら、お礼にプレゼントしようかと言うベリルに、ジョゼフは首を横に振った。
「いや。好きな人に渡すプレゼントだから、自分で稼いだ金で買わなきゃ」
好きな人。
ジョゼフの言うそれは、当然ナーガのことである。初めて見た瞬間に、心奪われたと言っていた。確かにナーガは美しく、優しい。ジョゼフよりも背が高いが、そこは彼にとっては気にならないところらしい。
「あの赤い石の首飾りなんて、ナーガに似合いそうだよなあ」
定期的に商人がやってきては、この手の宝飾品を売り込んでいくため、ベリルの目もすっかり肥えていた。ジョゼフが指した首飾りは、赤い大きな貴石がメインの豪奢なものである。正直、清貧なところが魅力のひとつであるナーガには似合わないと思ったが、ジョゼフがそう思うのなら、そうなのだろう。人の趣味には口を出さないのが吉だ。
「すごく高そう」
首飾りの意匠や宝石の美しさについては触れずに感想を述べたベリルに、ジョゼフは深い溜息をついた。
「そうなんだよなあ。給料は増えても、使う機会が減ったから、けっこう貯まってたんだけど。手持ちの金全部持ってきても、全然足りない」
落ち込む素振りのジョゼフに、ベリルは助け船を出した。
「ナーガは今でも心は神官だから、宝石はあまり興味ないかもしれないよ」
「じゃあ、例えばどんなものを贈ればいい?」
少し悩んで、ベリルは「お茶っ葉とか? ナーガはお茶淹れるの得意だし、いい匂いのお茶をよく飲んでるから」と提案する。
茶葉であれば、ちょっとした贅沢品でも購入できそうだとジョゼフは拳を握った。その様子を見て、ベリルはふと、自分自身のことを考える。
自分もシルヴェステルに土産を買おうと思っていたが、金の出所はセーラフィール王国、つまりはシルヴェステルだ。好きな人への贈り物は、自分の金で。確かにそちらの方が喜ばれそうだが、ベリルの自由になる金は、国家予算である。
「俺も陛下にお土産を買いたかったけど……陛下のお金だしなあ」
カフェも併設された茶の専門店へと意気揚々と入店し、あれでもないこれでもないと匂いを嗅ぎ、店員にあれこれ質問をしていたジョゼフは、ベリルの力ない独り言を聞きとがめ、振り向いた。
「何言ってんだ。お前はお妃様なんだから、いいんだよ。むしろその金で着飾って、にっこり笑ってやれば陛下は大喜びだろう」
「何それ」
失礼な物言いだが、このやりとりが愛おしく楽しい。膨れたふりをしたベリルは、「これとこれとこれ! たぶんナーガが好きそう!」と、勝手に茶葉を選び、ジョゼフに渡した。
「おお、ありがとう!」
意気揚々と会計を済ませるジョゼフを置いて店を出ると、そこにはカミーユがいた。だいぶ前に手渡した串焼きを持ったまま、一口も食べていない。口に合わなかったのなら、悪いことをした。
「カミーユ。串焼きが冷めてしまうよ」
声をかけると、「ああ、はい」と、返事はするものの、いまいち噛み合っていない。これはだいぶ疲れている。そう、溜息をついたときだった。
「旦那?」
茶葉店の横の路地裏から、女の声がした。雑踏の中、たまたま聞こえたわけではない。明確にこちらに向けて話しかけてきた声に、誰だろうと思いながら、ベリルは振り返る。
うっ、と、顔を顰めてしまいそうになった。咄嗟にカミーユの巨体に隠れたのは、女があまりにも破廉恥な格好をしていたからだ。豊満な胸が半分以上露わになった粗末なドレスは、貞淑な貴婦人の姿しか見たことがなかったベリルには、刺激が強い。同じように胸が大きく開いたドレスでも、全然違う。
タイミングよく店から出てきたジョゼフは、カミーユの陰に隠れたベリルを見て首を傾げ、それから女に釘づけになる。正確には、女の胸に。ナーガのことが好きだと言うくせに、ジョゼフは男としての性も隠せない。
娼婦だ。
立派で清潔な都にも、いや、そんな街だからこそ、貧富の差は歴然としている。生活に困れば、まずは身のまわりの品物を質に入れる。それから住んでいる家。そして最後に売ることができるものは、女も男も、自分の肉体のみ。
ただそれだけの話だし、自分自身もシルヴェステルに対して似たようなことをしたくせに、ベリルは女を敬遠した。
彼女はへらへらと笑いながら近づいてくる。太陽の高い時間だというのに、すでに酔っているのか、足下が覚束ない。あっ、と思ったときにはすでに躓いており、カミーユが抱き留めてやるはめになった。安い香水と酒の臭いが混じり、ベリルはくらくらする。
「やっぱり旦那じゃあないか。久しぶりぃ。ちょうどいいや。新しい男が二人、入ってるよ」
驚くことに、女はカミーユと旧知であるらしい。高潔で生真面目な男だとばかり思っていたが、裏切られた気分だ。ベリルはじとりと非難がましい目で、カミーユを見上げた。
彼は慌てて、言い訳を始める。
「違います! これには理由が……」
それを遮って、「ほら早くぅ。男娼は娼婦よりも珍しいし、商売できる期間も限られているから、またどっかへ行っちゃうわよ?」と、女が彼の手を引っ張っていこうとした。
小柄な身体と色の濃い髪や目は人間族だろうが、押しが強い。竜人のカミーユにも物怖じせずに、ぐいぐいくる。
ついでにジョゼフは、たじたじになっているカミーユが大層面白いらしく、ただにやにやしている。
ベリルと女の板挟みになり、ジョゼフの助けも借りられないカミーユは、爆発した。
「ああ! きちんと説明しますから! マリアンヌ、今日は君のところには行かない。代わりにどこか、落ち着いて話ができるところに案内してくれ!」
叫び声に目をぱちくりさせた娼婦・マリアンヌは、「高くつくところでも、いいのかしら?」と言って、にんまり笑った。
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2023/04/06 後日談追加
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