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2 よろしく勇気
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運転手付きの車に乗せられたことから、薄々わかっていたが、相手はどこかいいところのお嬢様らしい。連れてこられたのは、今の飛天には場違いとしか思えない、ホテルのラウンジだった。
尻の沈み具合だけでわかる、高級なソファに座り、飛天は落ち着かずに辺りを見回す。スーツ姿のビジネスマン――いや、経営者だろう――に、華やかなドレスの女性ばかりだ。
急に自分が汗臭いような気がしてきた。ヒーロースーツの特徴的なゴムの臭いまで鼻に蘇ってきて、飛天は知らず、喉に空気を逃がしてむせる。
「甘い物は召し上がられますか?」
よく観察してみれば、目の前の女性は量産型女子大生のように見えて、実はそうじゃない。材質がワンランク上の物だし、デザインもシンプルな中にスパイスが上手く利いている。
「嫌い、ではないです」
彼女はこの場にいても何ら不思議ではない人間なのだろう。着ているものから振る舞い、すべてに気品が備わっている。
「ここのケーキ、とても美味しいんですよ。紅茶と合うので、ぜひ召し上がってみてください」
指先までピン、と洗練された仕草で手を挙げると、すぐに店員がやってきて、オーダーを取る。店員は若く、飛天と同世代くらい。それでもホテルのラウンジで働いているからには、彼はサービスにかけては一流の人物なのだろう。
会釈とともに、音もなく颯爽と去って行った青年を見送って、飛天はより一層、自分の矮小さを痛感するのだった。
「そういえば、お名前を伺っていませんでした」
紅茶はポットで提供され、ケーキの皿にはラズベリーソースか何かで、きれいなハートマークが描かれている。
「あ、俺は品川飛天といいます」
名乗りには緊張を伴う。自分の名前を聞いて、反応するかどうか。どうせ二度と会うことはない相手だ。次郎の名前を騙ったってよかった。
それでも本名を名乗ったのは、彼女に自分の名を呼んでほしいと思ったから。
「飛天さん……ステキなお名前ですね」
言って、彼女は微笑んだ。崩すのが勿体ないくらいの美しさのケーキを、何の躊躇もなく一口食べる。
嫌悪感のかけらもない表情を見て、ようやく飛天も肩の力を抜き、ケーキに口をつけた。次郎と名乗っていたら、この極上の味も、まったくわからなかったかもしれない。
「お口に合ったようでよかったです」
飛天の顔を見て、コロコロと彼女は笑った。そして、「私、東丸映理といいます」と、自己紹介をしてくれる。
「東丸、さん」
「言いにくいでしょう? 映理でどうぞ」
変わった苗字のため、ファーストネームで呼ばれることがほとんどらしい。
「じゃあ、映理さんと呼ばせてもらいますね」
初対面の飛天に「映理」と呼ばれても、彼女は特別な反応を示さなかった。どころか、「敬語もいりませんよ」と言う。
「いやでも」
映理は敬語で喋っているのに、こちらがタメ口で話すのは、なんとなく座りが悪いというか。
「私の敬語は、口癖みたいなものです」
だから気にするなと言われれば、そもそもコミュニケーションから隔絶した生活を送っていた飛天だ。正しい敬語なんて、忘れてしまっている。
お言葉に甘えて、と、乱暴にならないようにだけ注意して、言葉を崩すことにした。
「ああいうこと、よくあるの?」
まるで具体的な話になっていないことに気がつく。いよいよ自分のコミュニケーション能力の退化がひどい。
飛天の話をきちんと理解して、映理は首を横に振った。危ない目には遭っていないことにホッとした。
「いえ。いつもは一度言えば、わかってくれる人ばかりなんですけどね。ルールを知らないだけですから」
……そうか。一回は注意するのか。
映理曰く、他人が撮影中のヒーローを、横からカメラで狙うのは、嫌がられることなのだそうだ。
「無加工で、他人の家の子をSNSにアップロードする人もいて、トラブルになってるんですよ。あと単純に、横から撮られるのって嫌じゃないですか」
一枚や二枚の話ならば、映理も口うるさく言うことはないし、普段なら、こうした無料の撮影会ならば黙認するという。
黙ってはいられない状況が、あの場であっただろうか。
当事者のくせに、飛天はぱっと思い当たることがなかった。
「今回の場合は、その……あの人が、明らかに小さい女の子にピントを合わせた写真を撮っていたので、注意したんです」
「それって……」
確かに男児だけではなく、女児もいた。中には暴れて、パンツが見えかけていた子供もいた。そんな子に向けてシャッターを切っていたとすれば、写真の用途は考えるまでもない。
「はい。なので展示場の方にはあの人の特徴等伝えておきました。今後、出入り禁止になるかと思います」
なるべく感情を排した言い方だった。ここで飛天に怒りをぶちまけても、どうにもならないことを、彼女はよく理解している。
飛天は軽く落ち込んだ。自分の目の前でそんな犯罪行為が繰り広げられていたにも関わらず、まったく気がつかなかった。映理が揉めていなければ、何も知らずにただ、もらった給料を使い果たしていただろう。
尻の沈み具合だけでわかる、高級なソファに座り、飛天は落ち着かずに辺りを見回す。スーツ姿のビジネスマン――いや、経営者だろう――に、華やかなドレスの女性ばかりだ。
急に自分が汗臭いような気がしてきた。ヒーロースーツの特徴的なゴムの臭いまで鼻に蘇ってきて、飛天は知らず、喉に空気を逃がしてむせる。
「甘い物は召し上がられますか?」
よく観察してみれば、目の前の女性は量産型女子大生のように見えて、実はそうじゃない。材質がワンランク上の物だし、デザインもシンプルな中にスパイスが上手く利いている。
「嫌い、ではないです」
彼女はこの場にいても何ら不思議ではない人間なのだろう。着ているものから振る舞い、すべてに気品が備わっている。
「ここのケーキ、とても美味しいんですよ。紅茶と合うので、ぜひ召し上がってみてください」
指先までピン、と洗練された仕草で手を挙げると、すぐに店員がやってきて、オーダーを取る。店員は若く、飛天と同世代くらい。それでもホテルのラウンジで働いているからには、彼はサービスにかけては一流の人物なのだろう。
会釈とともに、音もなく颯爽と去って行った青年を見送って、飛天はより一層、自分の矮小さを痛感するのだった。
「そういえば、お名前を伺っていませんでした」
紅茶はポットで提供され、ケーキの皿にはラズベリーソースか何かで、きれいなハートマークが描かれている。
「あ、俺は品川飛天といいます」
名乗りには緊張を伴う。自分の名前を聞いて、反応するかどうか。どうせ二度と会うことはない相手だ。次郎の名前を騙ったってよかった。
それでも本名を名乗ったのは、彼女に自分の名を呼んでほしいと思ったから。
「飛天さん……ステキなお名前ですね」
言って、彼女は微笑んだ。崩すのが勿体ないくらいの美しさのケーキを、何の躊躇もなく一口食べる。
嫌悪感のかけらもない表情を見て、ようやく飛天も肩の力を抜き、ケーキに口をつけた。次郎と名乗っていたら、この極上の味も、まったくわからなかったかもしれない。
「お口に合ったようでよかったです」
飛天の顔を見て、コロコロと彼女は笑った。そして、「私、東丸映理といいます」と、自己紹介をしてくれる。
「東丸、さん」
「言いにくいでしょう? 映理でどうぞ」
変わった苗字のため、ファーストネームで呼ばれることがほとんどらしい。
「じゃあ、映理さんと呼ばせてもらいますね」
初対面の飛天に「映理」と呼ばれても、彼女は特別な反応を示さなかった。どころか、「敬語もいりませんよ」と言う。
「いやでも」
映理は敬語で喋っているのに、こちらがタメ口で話すのは、なんとなく座りが悪いというか。
「私の敬語は、口癖みたいなものです」
だから気にするなと言われれば、そもそもコミュニケーションから隔絶した生活を送っていた飛天だ。正しい敬語なんて、忘れてしまっている。
お言葉に甘えて、と、乱暴にならないようにだけ注意して、言葉を崩すことにした。
「ああいうこと、よくあるの?」
まるで具体的な話になっていないことに気がつく。いよいよ自分のコミュニケーション能力の退化がひどい。
飛天の話をきちんと理解して、映理は首を横に振った。危ない目には遭っていないことにホッとした。
「いえ。いつもは一度言えば、わかってくれる人ばかりなんですけどね。ルールを知らないだけですから」
……そうか。一回は注意するのか。
映理曰く、他人が撮影中のヒーローを、横からカメラで狙うのは、嫌がられることなのだそうだ。
「無加工で、他人の家の子をSNSにアップロードする人もいて、トラブルになってるんですよ。あと単純に、横から撮られるのって嫌じゃないですか」
一枚や二枚の話ならば、映理も口うるさく言うことはないし、普段なら、こうした無料の撮影会ならば黙認するという。
黙ってはいられない状況が、あの場であっただろうか。
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