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17 戦争の足音

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 ジョシュアの言う「今度」は、なかなか訪れなかった。

 すっかり回復したボルカノ王が、軍を振り回しているせいで、ジョシュアは家に帰ってこられない日が増えた。朝も早くに出ていくため、朝食の時間くらいしか、話す時間はなかった。

 今朝にいたっては、朝食を摂る暇もなく、レイナールがまどろんでいる間に、出て行ってしまった。夢の中でキスをされたと思ったのは、もしかしたら現実だったのかもしれない。

 一日に一回、少しでも触れあいたいと思ってくれているのは嬉しい。けれど、それでもレイナールには足りないのだ。

 もっと一緒にいたいし、真正面から抱き締めてほしいし、キスもしたい。

 想いを通わせ合って以降、レイナールの中には欲望が渦巻いている。頭を撫でられるだけでは不足で、唇を尖らせ、お茶請けのドライフルーツを突いているところに、カールが声をかけてくる。

「レイナール様、失礼いたします」

 背筋を伸ばして取り繕い、彼に対応する。ジョシュアがいなくて拗ねているところなど、誰にも見られたくない。

「本日午後、アルバート様がこちらにいらっしゃいます。しばらくご滞在になりますので、くれぐれも頼む、と」
「お祖父様が?」

 グェイン家の領地は、国境に面した遠い場所だ。ジョシュアの祖父・アルバートは、侯爵位を孫に譲ってからは、隣国に睨みを利かせている、生ける戦争抑止力のような存在であり、やすやすと領地を空けるわけにはいかないはずだ。

 しばらくとはいったいどのくらいなのか、気になって聞いてみるが、カールは「私からはなんとも……」と、口を濁した。

 アルバートが訪れるとなれば、ぼんやりしてはいられない。レイナールは頭を切り替えて、茶を一気に飲み干す。あれこれと考えて、準備を始めた。

 そして予告どおり、アルバートが到着した。冬の装いの老紳士を玄関口まで出迎えると、大きく腕を開いてにこにこ笑っている。おずおずと近づいていったレイナールを、彼は思い切り抱き締めてくれた。

 ジョシュアとは違う安心感に包まれ、レイナールもまた、アルバートの背に腕を回した。家族の触れ合いに、温かい気持ちになる。

「元気にしておったか?」
「ええ。おかげさまで。お祖父様もお元気そうで何よりです」

 カールに外套を渡し、部屋へと案内する。外は思いのほか寒かった様子で、頬が赤くなっているアルバートを、暖炉の近くに座らせ、アンディがタイミングよく、ティーセットを運んできた。

「お食事は済ませてこられました?」

 頷き、ティーカップで指先を温めたアルバートは、旅の疲れをかき消すように、首をぐるりと回した。レイナールは向かい側に座り、甲斐甲斐しく彼の世話を焼く。

「お祖父様。焼き菓子はいかがですか?」

 アンディ手製の焼き菓子は何種類もあり、自由に摘まんで食べられるようになっているのだが、レイナールはアルバートのために、小皿に取ろうと張り切る。

 なさぬ仲のふたりめの孫を、アルバートは面白そうにからかった。

「ずいぶんと張り切っておるな。そんなにわしが来たのが嬉しいのか?」

 もちろん、と頷きかけて、レイナールは首を傾げる。アルバートが来てくれたのは当然嬉しいのだが、来訪理由がわからなかった。前回は、レイナールという得体の知れない人間を王に押しつけられたのを心配してやってきたのだが、今回は、何が理由だろう。

「あの、お会いできたのは嬉しいんですが、お祖父様。どうしてこちらに? 国境を守るお仕事は?」

 尋ねたレイナールに、髭を撫でつけ撫でつけ、アルバートは遠い目をする。

「……あやつ、わしを呼んでおいて、何も話しておらんのか」

 ぼそりと呟くと同時に、背後に何やらゆらりとうごめく気の流れが見えるようだ。レイナールに見せる表情は好々爺然としているが、ジョシュアに対しては憤りを感じているのは間違いない。

「いえ、あの、ジョシュア様は最近、すごくお忙しいので、なかなか話もできなくて……」

 このままだと祖父と孫の間で争いが勃発する。ジョシュアについて弁明をしているうちに、レイナールはしゅん、と肩を落とした。

 まともにゆっくり話ができたのなんて、お互いに告白をし合ったあの夜だけだ。アルバートに説明をしながら、悲しくなってきた。

 どんどんしょんぼりしていくレイナールを、いつの間にかアルバートが宥める側に回っていた。

「まぁ、ジョシュアにも事情があろう、うむ。今日はわしが来たんだから、奴も早くに帰ってくるだろうよ」

 言葉通り、夕食の時間ぎりぎりに帰宅したジョシュアを、レイナールは温かく、アルバートはやや冷淡に出迎えた。

 ホッとした表情で自分をハグしたあと、緊張の面持ちで祖父を見るジョシュアに、アルバートは小さく息を吐き、

「まずは食事を終えてから、じっくり話をしようじゃないか」

 と、言った。威厳のある声に、直接話しかけられたわけじゃないレイナールの皮膚まで、ちりちりとひりついた。

 ジョシュアの表情から、あまり話をしたくないのだろうと感じ取ったレイナールは、ことさらにゆっくりと食事を進めていたのだが、さすがにふたりは軍人である。戦時にはのんびり食事をする暇もない。そのための訓練もあるらしく、流し込むように、しかし貴族らしい優雅さは失わず、次々と平らげていってしまった。

 食堂から居間に移動して、食後の茶を用意したマリベルが、頭を下げて出て行くと、三人だけになる。口出しはせずとも、部屋の隅に控えていることの多いカールすら、今夜はいない。

 これはただ事ではないと、レイナールはいそいそと座り直し、向かい側に座るアルバートと、隣にいるジョシュアの顔を交互に見やった。

 ふたりとも苦い顔をして、何をどう説明すればいいのか思案している顔である。自分だけが蚊帳の外に置かれていることを強く感じたレイナールは、まずは自分から、と口火を切った。

「ジョシュア様、お祖父様。何か大事なお話があるのではないのですか?」

 勇気を出して先陣を切った。膝に載せられて強く握ったままのジョシュアの拳に、自分の手のひらを重ねた。緊張しているのか、彼の手は冷え切っているし、心なしか震えていた。何度も擦っていると、ジョシュアは覚悟が決まったらしく、口を開く。

「レイナール。この国は、帝国と戦争をする」
「戦争……?」

 信じられなかった。ついこの間、今年の夏まで、ボルカノは祖国・ヴァイスブルムと戦争状態にあった。どちらも疲弊して、喧嘩両成敗の体で講和条約を結んだ。領土拡大を狙っていたボルカノは、結局、国土を少しも削り取ることができなかったのだから、軍配は、どちらかといえばヴァイスブルム側に上がったのだろう。レイナールひとりの犠牲なら、王家にとっては安いものだし、彼らにとって自分は兵器だ。むしろ願ったり叶ったりだったにちがいない。

 詳しい情報は、レイナールのもとには上がってこなかったが、母国の被害もかなりの数にのぼった。ヴァイスブルムの港町の様子を思い出す。侵略のため、海を渡り仕掛けてきたボルカノは、その比ではないことは、予想がついた。

 対ヴァイスブルムで消耗した戦力は、まだ回復していないだろう。国土に被害はなくとも、直接戦う軍人や武器防具の類だけではなく、余計に税を課される国民もまた、疲弊している。
なのに、あの王は、領土拡大を狙って再び他国へ侵略をしかけようとしているのか。

 しかも相手は帝国だ。ボルカノのように、建国当時こそ戦争巧者で鳴らしたわりに、近年は戦争を吹っかけるだけで、そこまでの戦果を上げられなくなっている国とは違う。今もなお、富国強兵を掲げる軍国主義国家である。男も女も、人生のうちに一度は、軍役をこなす国だ。

 恐れ知らずは、うまくいけば勇気だが、多くの場合は愚かの極みである。王にすべての権力が集中するボルカノでは、いかに周囲が諫めたとしても、最終的な決定権は、すべて国王その人にあり、彼が考えを改めなければ、滅びの道を突き進むしかない。

「もう、決定なのですか……? ジョシュア様は、戦争で帝国に行かなければならない?」

 レイナールの言葉に、ジョシュアは言い淀んだ。言いたくない。言わずに済ませられるものならば、このまま受け流して真実を教えたくはないのだと言わんばかりの態度に、動いたのはアルバートであった。

 彼はレイナールのことをじっと見据える。アルバートの視線は、レイナールの中の強さを信じてくれているような気がした。同じだけの強さで見つめ返していると、彼は本当のことを教えてくれた。

「陛下は、ジョシュアを宣戦布告のために、帝国に派遣するつもりじゃ」

 瞠目し、勢いよく振り向き、ジョシュアを見上げた。

 彼は切なげに目を細めたかと思うと、そのまま閉じた。同時に、心も閉ざされてしまったように感じて、レイナールは絶望する。

 宣戦布告のために相手国に派遣される人間は、遺書を書いてから敵の本拠地へ向かう。捕虜として生かされれば奇跡だ。たいていはすぐに、殺されてしまう。

 ヴァイスブルムに派遣されてきたボルカノの使者も、即座に切って捨てられた。それこそが、開戦の合図なのである。

 だから国に奉仕する中でも、中核を担う人間は、まずもって任命されるようなものではない。出自の貧しい軍人か官僚、あるいは隠居間近の老人が、その任に当たる。遺された家族への補償を交換条件に、命を散らす。

「ジョシュア様は将軍ではないですか! なのにどうして」

 静かに座ったままのジョシュアにすら怒りを覚えて、レイナールは立ち上がり、激しく詰る。それだけの行動を取っても、ふたりは冷静だった。

 アルバートもジョシュアも、自分に課せられた命令を受け入れて、淡々と今後のことについて、レイナールに説いてくる。

「不在の間のことは、お祖父様に任せてある。どんなことも、相談して決めてほしい」
「ジョシュア様……」
「そして、俺が戻ってこなかったときには……自由に生きてほしい」

 アルバートの暮らすグェイン領に移ってもいいし、ヴァイスブルムに帰国しても構わない。

 感情の籠もらない声に感じてしまい、レイナールはそれ以上、何も聞きたくないと泣いた。

「レイ!」

 二度と戻れないことを受け入れた彼らの前から逃げ出し、レイナールは自室に引きこもるのだった。





 以降、何度もジョシュアはレイナールの部屋を訪れ、話し合いをしようとしたけれど、応じる気になれなかった。アルバートが来たときには、さすがに扉を開けたけれど、ただそれだけ。彼の話を聞いても、聞き入れようとは一切せず、口を閉ざしていた。

 無礼な態度を取ったことを謝りたい。その気持ちはあれど、自分の命を投げだそうとするジョシュアのことが許せず、また、彼がなかなか屋敷に戻ってこなくなってしまったことで、ますます謝ることができなくなっていた。

 冬は社交の季節で、主不在のグェイン家のタウンハウスにも、招待状がひっきりなしにやってくる。レイナールも目を通すようにはしているが、ジョシュアのパートナーとして以外、出席するつもりはないから、放置気味になっていた。

 今日もカールが手紙をあれこれと選別した状態で、レイナールとアルバートに手渡してきた。自分だけに来たものはほとんどなく、ヴァンからの近況報告くらいのものであった。ジョシュア宛のものは、一度アルバートが目を通してから、レイナールにも見せてくれるのが常であった。

 アルバートの手元には、自分のところの三倍ほど手紙があり、持ち切れなくなった彼の手から何通かこぼれ落ちた。素早く拾い上げようとしたレイナールを、アルバートは「レイ!」と、制止する。しかし、レイナールの行動の方が、一瞬早かった。

 拾った手紙の中に、王家の紋章の封蝋が見えた。それだけなら、そのままアルバートに渡すのだが、宛名には、レイナールの名前しかなかった。

 ボルカノ王家から自分だけに来た手紙を、カールはなぜ、アルバートに渡したのか。

 レイナールはカールとアルバートが止めるのも聞かず、手紙の中を読んだ。

 そこに書かれていたのは、おぞましいことばかりだった。

 ジョシュアはどうせ、帝国で無駄死にをするのだから、早いうちに王宮に来て、相手を務めろ。いい加減に返事を寄越せ。お前はもともと、自分のものだ。

 要約すると、そんな感じだった。

 手紙の内容から、レイナールはこれまでも似たような手紙が国王から届いていたのだということを察した。そして、自分の心を守るため、皆が気を利かせて手紙が来たことすら伏せていたのだということも。

 そしてここに来て、初めて気がついた。

 ジョシュアが開戦のための使者に選ばれたのは、国王が彼を亡き者にして、レイナールを手中に収めようと画策した結果だ。おそらく、本当に戦争で帝国の領土をぶんどろうというつもりはない。将軍の首ひとつで収めてもらう算段を、宰相が考えているだろう。そんな計画に乗る人間も愚かで、レイナールは呆れと怒りを覚えると同時に、再びひどい絶望が襲いかかってくる感じがした。

 白金の王族は、他国に縁づくと、その国に不幸をもたらす。

 ジョシュアは迷信だと言い切ったが、現在彼を困らせているのは、紛れもなく自分の存在なのだ。

 細かく震え出す身体を、レイナールは制御することができない。手紙を取り落とし、拾う気になれない。
「私のせい、です」

 肩で大きく息をする。そうしないと、言葉ではなく嗚咽しか出てこなくなりそうだった。

 大切な孫息子の命を脅かしている元凶であることを、目の前のアルバートに謝罪しなければならないのだから、泣いてばかりはいられない。

「も、申し訳、ありませ……ん」

 それでもやはり、最後には一粒涙が落ちた。一度泣いてしまえば、後から後から、窓を濡らす雨のように流れていく。

 レイナールの身体を、アルバートは抱き締めた。

 決してレイが悪いのではない、と。すべてはあの愚か者の王のせいなのだ、と。

 レイナールの心を慰める言葉ばかりを囁いてくれる。本当のところは、どう思っているのかわからない。

「わしだって、ジョシュアのことを殺されたくはない。あれも、レイのことを置いて逝くことは決してしたくないと思っている。だから、動いているのだ」

 いつだって威風堂々としたアルバートの声が、最後には小さくなった。百戦錬磨の軍人がふたりで頭を突き合わせて知恵を出し合っても、答えは芳しくないということが、レイナールにもわかった。

「お祖父様……私は、どうしたらよいのでしょう」

 少し身体を離したアルバートは、レイナールの顔をじっと見つめ、涙を指先で払い、本当の孫にするように、額に口づけた。

「ただ傍に。ジョシュアの傍で、支えてやってくれ。レイナール」

 そのときが来るまで。

 言外に匂わされた意味に、レイナールは気づいていた。きっと、春を一緒に迎えることはないのだろう。

 果たして本当に、傍らに寄り添っているだけでいいのだろうか。

 自分には、死地に赴かねばならない彼に、いったい何ができるのだろう。

 レイナールの悩みをよそに、別れのときは、すぐそこまで迫っていた。


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