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7 肖像と動揺
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寝る支度をすべて済ませたレイナールは、蝋燭と窓から差し込む月明かりの下、机に向かい、筆を走らせていた。
白い便箋は、瞬く間に埋まっていく。実父とリザベラに向けた手紙は、書き上げたところで、投函するわけにもいかない。講和条約を結んだとはいえ、決して友好国ではない。連絡を取ろうとすれば、間諜だと処罰されるのは、わかりきっていた。
出すあてのない手紙を前に、レイナールは小さく溜息をついた。揺らめく火を見つめて、ぼんやりとする。
今日は怒濤の一日だった。
サムがぎっくり腰で倒れて、ジョシュアの祖父・前侯爵のアルバートが現れた。そしてなぜかジョシュアはアルバートとレイナールが親しくしていることに、怒りを覚えている様子だ。
アルバートは紳士的で、風流人だ。けれどそれだけじゃなく、グェイン家の当主として、ボルカノ軍でも活躍をしていた。国から授与された勲章も、たくさん持っている。
ジョシュアは祖父を尊敬し、愛している。だから、アルバートにぽっと出のレイナールが構われている図が、面白くないのかもしれない。
アルバートは孫に責め立てられても、何食わぬ涼しい顔で受け流していた。年の功、とはよく言ったもので、はらはらと成り行きを見守ることしかできないレイナールに向けて、片目を瞑って合図をしてみせる、茶目っ気があった。もちろん、ジョシュアはそれを見咎めて、さらに口うるさくなる。
本当の祖父の顔を、レイナールは知らない。実祖父母は父方、母方ともに、物心ついたときにはすでに亡くなっていた。甘える対象は父しかおらず、それも八歳の誕生日までのこと。王宮や神殿での生活は、常に孤独で、緊張を強いられていた。
アルバートは、レイナールのことを本当の孫のように扱おうとする。いろいろな知識があり、導いてくれる。嬉しいが、ジョシュアのあの剣幕を見てしまうと、調子に乗ってはいけないと思いなおす。
自らを戒めて、レイナールは再び筆を執った。インクにペンを浸し、紙に押し当てたところで、小さなノックの音が、コツコツ。
驚いて、紙に滲んでしまった。せっかくきれいに書けていたのに、やり直しだ。
苛立った自分自身に、苦笑した。
馬鹿だな。どうせ出せずに、このまま引き出しの中にしまうんだから、書き損じも何もないのに。
焦れたように、先ほどよりも素早いノックの音がした。
「はい」
レイナールが返事をすると、「俺だ。開けても構わないか?」と、ジョシュアの声がする。
急いで扉を開けると、シャツにスラックスという格好のジョシュアが現れた。ジャケットがないから部屋着なのかもしれない。だが、自分だけが寝間着のだらしない姿であることに気づいて、気後れしてしまうが、もはやどうしようもなかった。
「ジョシュア様。何かご用ですか?」
問いかけに、彼は不意に視線を逸らした。国王相手であっても、敬意を払いつつも臆することのない将軍が、なぜか今は、少しだけ頼りなく感じた。
「ジョシュア様?」
「その……アンディのところから、葡萄酒をくすねてきた」
「はい?」
確かに手には、瓶と器――夕食時に出てくる、薄いガラス製のものではない。木をくりぬき、つるつるになるまで磨き上げたそれは、庶民にも手が出せるものだ――が握られているが、いったいどういうことだろう。
「その、一緒に飲まないか?」
「お酒……」
神殿でも葡萄酒は出てくるが、それは人間のためのものではなく、神に捧げるためのものだ。神を模した像の根元に注ぎ、杯に残った一口分を、神からの分け前としていただく。
だからレイナールは、自分の楽しみのために、酒を飲んだことが一度もなかった。
「お酒……」
「なんだ、初めてか?」
こくりと頷いたレイナールのコップに、ジョシュアは少しだけ、葡萄酒を注いだ。
「お高くとまった貴族どもは、やれどこそこ産の葡萄で作ったものじゃなきゃいかんなどと言うが、こういう、庶民が飲むようなのも、捨てたものじゃない」
いつもより饒舌なのは、すでに彼が、酒を飲んでいるからかもしれない。
「乾杯」
「か、乾杯」
杯をお互いに軽く上げて、レイナールはおっかなびっくり、口をつけた。口当たりはまろやかで、思ったよりも飲みやすい。生の葡萄とは違う、芳醇な香りが胃まで満たす。酒精が喉の奥で、じわりと熱を生んだ。
注がれた一杯目をぺろりと飲み干したレイナールに、ジョシュアは「いける口だな」と、おかわりを注いだ。今度は普通に一杯分だ。
夜更けに持参した酒を酌み交わそうというのは、気まぐれの思いつきではない。たいてい、ふたりで酒を飲む場面は、何か話をしたいときと相場は決まっている。経験こそないが、酒精は人の口をなめらかにする効果があるらしい。
ジョシュアはきっと、自分自身にその効果を期待している。ならば自分にできるのは、彼の話を促し、聞いてあげることだ。
「ジョシュア様。何かお話があるのではないですか?」
遠回しな言葉は、きっと彼には煩わしいことだろう。レイナールは直球で投げかけた。ジョシュアは戸惑ったように、杯から口を離したが、やがて、
「俺も」
と、小さく零した。
「俺も、レイと呼んでいいだろうか?」
それが、昼間の話の続きであることに気がついて、レイナールは目を数度、瞬かせた。即答できなかったことを、ジョシュアは悪い方に取る。
「嫌なら、今まで通りで構わないのだが……」
「あ、いいえ。ぜひ、レイとお呼びください」
愛称で呼んでくれたのは、アルバートに続いて二人目になる。実父ですら、王の養子になる定めの息子を、「レイ」と呼んではくれなかった。
「レイ」
呼び方が変わっただけなのに、心の距離がずっと近づいた気がする。
「はい」
自分の気のせいではなく、ジョシュアもまた、口元を緩め、レイナールの名前を唱える。
「レイは、こんな夜遅くまで何をしていたんだ?」
「私は……」
ちらりと机の上の手紙を見やる。表になったままの便箋を、ごく自然な動作で裏返そうとしたが、ジョシュアの目に留まってしまう。
「手紙を」
彼に頼めば、検閲次第で実父と義妹に、自分がボルカノで平穏に暮らしているという報告くらいは、できるだろうか。
そんな期待を込めて言いかけたところで、レイナールは、ジョシュアの意識が自分の手元の紙に向けられていないことに気がついた。
目をカッと見開いた様子は、鬼気迫るものがあった。戦場ではいつも、こんな顔をしているのかもしれない。
だが、ここは彼の家で、一緒にいるのはレイナールだ。そんな顔をされるいわれはなく、レイナールは後ずさった。ぽかぽかとほろ酔い気分だったのが、スッと冷めていく。
「ジョシュア様?」
彼の視線の先にあるものは、額縁だった。ヴァイスブルム王家の末の花、リザベラ王女の肖像画に、ジョシュアは釘づけになっている。
なぜか、心臓のあたりが不快だと訴えかけてくる。リザベラはまだ幼いが、各国にその可憐さ、美しさは伝わっており、婚約の申し込みも引く手数多の状態だ。
ジョシュアが思わず見惚れてしまっても、おかしくはない。
そう、頭では理解しているのだ。どんな男だって、リザベラの愛らしさに惹かれずにはいられないのだ。赤ん坊の頃から見知っているレイナールだって、彼女の美貌には、はっと目を瞠る。
「これは……」
小さな額縁を持って、ジョシュアは問いかける。力が入りすぎて、指がぶるぶると震えている。壊される不安を覚えたレイナールは、彼の手から、すっと姿絵を回収する。
「ヴァイスブルムが姫、リザベラ・シュニーの肖像画です。私の義妹ですね」
「いもうと……?」
「ええ。もう十二歳になのですが、可愛いんですよ」
さりげなく机の上に戻したところで、ジョシュアの目は、レイナールに向けられた。
ボルカノの謁見の間で初めてその視線にさらされたときは、恐ろしい以外の感想は浮かばなかった。痛みこそないが、突き刺されるのと同じ鋭さを伴った目を、しかし、今のレイナールは、なぜか安堵とともに受け入れている。短い時間でも、慣れるものである。
「ヴァイスブルムには、姫はこのひとりだけか?」
「ええ」
「姫の髪と目は、この色のままか? お前と同じ髪と目の人間は、ヴァイスブルムにはいないのか?」
レイナールは絵をちらりと確認して、頷いた。太陽を照り返す小麦の金色の髪に、空の青さをそのまま写し取った澄んだ瞳は、下手な装飾品が負けてしまうような華やかさである。
ジョシュアは「そうか……そうだったのか……年齢を考えれば、最初から気づいてしかるべきだった……」と、ぶつぶつ訳のわからないことを言い始めた。
「あの、ジョシュア様……?」
ためらいがちにかけた声は、ジョシュアには聞こえていない。葡萄酒の瓶をそのままに、彼はふらふらと、レイナールの使っている客間を出て行ってしまった。
「なんだったんだろう……?」
初めての飲酒の酔いはすっかり覚めきって、取り残されたレイナールは、呆然とするほかなかった。
白い便箋は、瞬く間に埋まっていく。実父とリザベラに向けた手紙は、書き上げたところで、投函するわけにもいかない。講和条約を結んだとはいえ、決して友好国ではない。連絡を取ろうとすれば、間諜だと処罰されるのは、わかりきっていた。
出すあてのない手紙を前に、レイナールは小さく溜息をついた。揺らめく火を見つめて、ぼんやりとする。
今日は怒濤の一日だった。
サムがぎっくり腰で倒れて、ジョシュアの祖父・前侯爵のアルバートが現れた。そしてなぜかジョシュアはアルバートとレイナールが親しくしていることに、怒りを覚えている様子だ。
アルバートは紳士的で、風流人だ。けれどそれだけじゃなく、グェイン家の当主として、ボルカノ軍でも活躍をしていた。国から授与された勲章も、たくさん持っている。
ジョシュアは祖父を尊敬し、愛している。だから、アルバートにぽっと出のレイナールが構われている図が、面白くないのかもしれない。
アルバートは孫に責め立てられても、何食わぬ涼しい顔で受け流していた。年の功、とはよく言ったもので、はらはらと成り行きを見守ることしかできないレイナールに向けて、片目を瞑って合図をしてみせる、茶目っ気があった。もちろん、ジョシュアはそれを見咎めて、さらに口うるさくなる。
本当の祖父の顔を、レイナールは知らない。実祖父母は父方、母方ともに、物心ついたときにはすでに亡くなっていた。甘える対象は父しかおらず、それも八歳の誕生日までのこと。王宮や神殿での生活は、常に孤独で、緊張を強いられていた。
アルバートは、レイナールのことを本当の孫のように扱おうとする。いろいろな知識があり、導いてくれる。嬉しいが、ジョシュアのあの剣幕を見てしまうと、調子に乗ってはいけないと思いなおす。
自らを戒めて、レイナールは再び筆を執った。インクにペンを浸し、紙に押し当てたところで、小さなノックの音が、コツコツ。
驚いて、紙に滲んでしまった。せっかくきれいに書けていたのに、やり直しだ。
苛立った自分自身に、苦笑した。
馬鹿だな。どうせ出せずに、このまま引き出しの中にしまうんだから、書き損じも何もないのに。
焦れたように、先ほどよりも素早いノックの音がした。
「はい」
レイナールが返事をすると、「俺だ。開けても構わないか?」と、ジョシュアの声がする。
急いで扉を開けると、シャツにスラックスという格好のジョシュアが現れた。ジャケットがないから部屋着なのかもしれない。だが、自分だけが寝間着のだらしない姿であることに気づいて、気後れしてしまうが、もはやどうしようもなかった。
「ジョシュア様。何かご用ですか?」
問いかけに、彼は不意に視線を逸らした。国王相手であっても、敬意を払いつつも臆することのない将軍が、なぜか今は、少しだけ頼りなく感じた。
「ジョシュア様?」
「その……アンディのところから、葡萄酒をくすねてきた」
「はい?」
確かに手には、瓶と器――夕食時に出てくる、薄いガラス製のものではない。木をくりぬき、つるつるになるまで磨き上げたそれは、庶民にも手が出せるものだ――が握られているが、いったいどういうことだろう。
「その、一緒に飲まないか?」
「お酒……」
神殿でも葡萄酒は出てくるが、それは人間のためのものではなく、神に捧げるためのものだ。神を模した像の根元に注ぎ、杯に残った一口分を、神からの分け前としていただく。
だからレイナールは、自分の楽しみのために、酒を飲んだことが一度もなかった。
「お酒……」
「なんだ、初めてか?」
こくりと頷いたレイナールのコップに、ジョシュアは少しだけ、葡萄酒を注いだ。
「お高くとまった貴族どもは、やれどこそこ産の葡萄で作ったものじゃなきゃいかんなどと言うが、こういう、庶民が飲むようなのも、捨てたものじゃない」
いつもより饒舌なのは、すでに彼が、酒を飲んでいるからかもしれない。
「乾杯」
「か、乾杯」
杯をお互いに軽く上げて、レイナールはおっかなびっくり、口をつけた。口当たりはまろやかで、思ったよりも飲みやすい。生の葡萄とは違う、芳醇な香りが胃まで満たす。酒精が喉の奥で、じわりと熱を生んだ。
注がれた一杯目をぺろりと飲み干したレイナールに、ジョシュアは「いける口だな」と、おかわりを注いだ。今度は普通に一杯分だ。
夜更けに持参した酒を酌み交わそうというのは、気まぐれの思いつきではない。たいてい、ふたりで酒を飲む場面は、何か話をしたいときと相場は決まっている。経験こそないが、酒精は人の口をなめらかにする効果があるらしい。
ジョシュアはきっと、自分自身にその効果を期待している。ならば自分にできるのは、彼の話を促し、聞いてあげることだ。
「ジョシュア様。何かお話があるのではないですか?」
遠回しな言葉は、きっと彼には煩わしいことだろう。レイナールは直球で投げかけた。ジョシュアは戸惑ったように、杯から口を離したが、やがて、
「俺も」
と、小さく零した。
「俺も、レイと呼んでいいだろうか?」
それが、昼間の話の続きであることに気がついて、レイナールは目を数度、瞬かせた。即答できなかったことを、ジョシュアは悪い方に取る。
「嫌なら、今まで通りで構わないのだが……」
「あ、いいえ。ぜひ、レイとお呼びください」
愛称で呼んでくれたのは、アルバートに続いて二人目になる。実父ですら、王の養子になる定めの息子を、「レイ」と呼んではくれなかった。
「レイ」
呼び方が変わっただけなのに、心の距離がずっと近づいた気がする。
「はい」
自分の気のせいではなく、ジョシュアもまた、口元を緩め、レイナールの名前を唱える。
「レイは、こんな夜遅くまで何をしていたんだ?」
「私は……」
ちらりと机の上の手紙を見やる。表になったままの便箋を、ごく自然な動作で裏返そうとしたが、ジョシュアの目に留まってしまう。
「手紙を」
彼に頼めば、検閲次第で実父と義妹に、自分がボルカノで平穏に暮らしているという報告くらいは、できるだろうか。
そんな期待を込めて言いかけたところで、レイナールは、ジョシュアの意識が自分の手元の紙に向けられていないことに気がついた。
目をカッと見開いた様子は、鬼気迫るものがあった。戦場ではいつも、こんな顔をしているのかもしれない。
だが、ここは彼の家で、一緒にいるのはレイナールだ。そんな顔をされるいわれはなく、レイナールは後ずさった。ぽかぽかとほろ酔い気分だったのが、スッと冷めていく。
「ジョシュア様?」
彼の視線の先にあるものは、額縁だった。ヴァイスブルム王家の末の花、リザベラ王女の肖像画に、ジョシュアは釘づけになっている。
なぜか、心臓のあたりが不快だと訴えかけてくる。リザベラはまだ幼いが、各国にその可憐さ、美しさは伝わっており、婚約の申し込みも引く手数多の状態だ。
ジョシュアが思わず見惚れてしまっても、おかしくはない。
そう、頭では理解しているのだ。どんな男だって、リザベラの愛らしさに惹かれずにはいられないのだ。赤ん坊の頃から見知っているレイナールだって、彼女の美貌には、はっと目を瞠る。
「これは……」
小さな額縁を持って、ジョシュアは問いかける。力が入りすぎて、指がぶるぶると震えている。壊される不安を覚えたレイナールは、彼の手から、すっと姿絵を回収する。
「ヴァイスブルムが姫、リザベラ・シュニーの肖像画です。私の義妹ですね」
「いもうと……?」
「ええ。もう十二歳になのですが、可愛いんですよ」
さりげなく机の上に戻したところで、ジョシュアの目は、レイナールに向けられた。
ボルカノの謁見の間で初めてその視線にさらされたときは、恐ろしい以外の感想は浮かばなかった。痛みこそないが、突き刺されるのと同じ鋭さを伴った目を、しかし、今のレイナールは、なぜか安堵とともに受け入れている。短い時間でも、慣れるものである。
「ヴァイスブルムには、姫はこのひとりだけか?」
「ええ」
「姫の髪と目は、この色のままか? お前と同じ髪と目の人間は、ヴァイスブルムにはいないのか?」
レイナールは絵をちらりと確認して、頷いた。太陽を照り返す小麦の金色の髪に、空の青さをそのまま写し取った澄んだ瞳は、下手な装飾品が負けてしまうような華やかさである。
ジョシュアは「そうか……そうだったのか……年齢を考えれば、最初から気づいてしかるべきだった……」と、ぶつぶつ訳のわからないことを言い始めた。
「あの、ジョシュア様……?」
ためらいがちにかけた声は、ジョシュアには聞こえていない。葡萄酒の瓶をそのままに、彼はふらふらと、レイナールの使っている客間を出て行ってしまった。
「なんだったんだろう……?」
初めての飲酒の酔いはすっかり覚めきって、取り残されたレイナールは、呆然とするほかなかった。
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