上 下
6 / 25

6 祖父と孫

しおりを挟む
「お祖父様!」

 夜になり、ジョシュアが帰宅した。

 夕食の時間には間に合わなかったが、食後の茶を楽しんでいるところに、食堂に乗り込んできた彼は、開口一番、大きな声を上げた。

 高貴な人間は大声を張り上げたりしない。神殿ではなおさらだ。頑丈な壁がビリビリと震えるほどの轟音に、レイナールは驚いて、持っていたカップを落としてしまった。

「あっ、つ……」

 その拍子に、着ていたシャツにまだ熱い茶が零れてしまう。小さく悲鳴を上げたレイナールに、ジョシュアはハッとした。

「す、すまない」

 軍隊で怪我人が出るのは慣れているはずなのに、彼はレイナールの火傷をどうするべきかわからず、おろおろと謝るばかりである。大丈夫だと強がってみせるが、「ジョシュア」と、おどろおどろしい低い声に、なぜか名前を呼ばれていないレイナールまでも、ドキッとする。

「お前が驚かせるのが悪い。きちんと手当てをしてやりなさい」
「……はい」

 年若き将軍も、祖父には勝てない。にわかに緊張した面持ちで、彼はレイナールの元に近づき、そして。

「えっ」

 昼間、同じ光景を見たばかりだった。

 でもそれは、自分がヒロインの立場ではなく、観客として、アルバートがサムを家に運び込むのを見ていただけ。実地で抱き上げられるとは思っていなかった。

「お、下ろしてください」

 茶が零れたのは胸から腹にかけてで、足腰は関係ない。自分の足で立って歩けるという主張は、一切聞き入れられず、レイナールはジョシュアの書斎へと連れ込まれてしまう。

 初めて入る部屋だったが、どこか懐かしい気がするのは、養子に入る前、仕事をする父と離れがたく、隅で邪魔にならないように静かに一人遊んでいた書斎と似ているからだ。

 ジョシュアは注意深く、レイナールの身体を長椅子に下ろした。来客のときに使う、柔らかい椅子に横たえられる。身体を起こそうとすると、力強く押しとどめられてしまった。

「動くな」

 低い声は、獣の唸り声によく似ていた。すっかり身体を硬くしてしまったレイナールのシャツのボタンを、ジョシュアはゆっくりと外していく。

 その手つきは優しく、野生の獰猛さのかけらもない。レイナールは少しずつ息を吐き、身体の力を抜いた。

 将軍職に就いてからも、ジョシュアは机に向かうだけではなく、しっかりと実戦向けに鍛え上げている。そんな逞しい身体の彼の眼前に、薄っぺらで細いだけの自分の肉体をさらすのは、恥ずかしいことだった。

 ジョシュアは胸や腹の辺りから視線を動かさない。火傷の具合を確かめて、医師を呼ぶべきか考えている。

 たいしたことありません、と言いかけたところで、彼が赤くなった皮膚に触れた。ピリッとした痛みが走り、レイナールの口からは、言葉ではなく、「あっ」という、小さな声が飛び出してしまう。

「痛むか?」
「少しだけ、です」

 ジョシュアは机の引き出しから、救急箱を取り出した。てっきり、マリベルを呼びつけるものとばかり思っていた。

「軍人は怪我が多い。だから、あまり家人の手を煩わせたくない」

 言って、レイナールの患部に薬を塗り込んでいく。力加減に苦難しているのか、ジョシュアの目は真剣だ。自分なら、適当にちょいちょいと塗って終わらせるところ、丹念に扱われ、レイナールは困惑する。

 そう、困惑だ。心臓の音が少しだけ早く、大きくなったように感じるのは、どう反応すべきかわからないせいだ。

 最後に薬が服につかないように、包帯を巻かれた。火傷はほんの少し赤くなっただけなのに、重症扱い患者をされ、レイナールは笑ってしまった。声を出さなかったのに、空気の震えが伝わったのか、ジョシュアは「どうした?」と、救急箱をしまいながら、尋ねてくる。

 ここでだんまりになってはいけないと、レイナールは勇気を奮い立たせた。

 ジョシュアが帰宅する前、アルバートと庭仕事を通じて、打ち解けていた。頑固者の庭師も、レイナールには任せられない作業も、勝手知ったる前侯爵には一任した。

 アルバートは、自分が作った庭を褒めちぎるレイナールのことをいたく気に入った。

 レイナールが、人質としてこの国にやってきたことや、国王によって下げ渡されたという面倒な立場について、アルバートは百も承知だった。「ご迷惑をおかけしています」と頭を下げると、彼は眉を跳ね上げた。

『あいつが迷惑だと?』

 途端に背後に燃えさかる怒りの片鱗を見て、レイナールは慌てて、「そうは仰いませんが……面倒を抱え込ませて、申し訳なく思っています」と、自分の推測に過ぎないと言い訳をした。

 幾分か表情を和らげた彼は、レイナールをこう諭した。

『奴は誰に似たのか、口下手な上に顔にも感情が出にくい性質でな……きちんと話をしてやってくれんか』

 草木の世話や、最新の農業に関する論文の見解について話をするうちに、すっかり自分の祖父のような気持ちになっていたレイナールは、彼の頼みに殊勝に頷いたのだった。

「あの、ジョシュア様」

 引き結んだ唇を、レイナールは開く。心臓が飛び出しそうなほど、緊張した。ふたりきりの部屋で、こんなに長く一緒にいるのも初めてだった。明日の朝にはまた、早くから出て行ってしまうだろうから、機会は今しかない。

「ジョシュア様は、私を引き受けたことを、後悔していらっしゃいませんか?」

 目を剥いたジョシュアは、レイナールの手首を掴んだ。力加減まで頭が回らず、がっちりと握られてしまう。痛みはないが、とにかく驚いて身が竦む。

「後悔など、一切ない!」

 力強く、けれど言葉数は少なく主張する彼に、嘘はないだろう。王の命令に背くなど、もともと考えられない人物だが、それだけが理由ではないと信るに足る、誠実さが目に宿っている。

 けれど、どう考えても自分はお荷物なのだ。レイナールはわかっている。

 男の嫁が屋敷で堂々としているのは、グェイン家の行く末を考えてもよくない。それに、レイナールは厄介な事情を抱えている。ジョシュアやアルバート、それからマリベルたちに迷惑をかけたくない。

 ジョシュアは、自分の気持ちをどう説明すればいいのか、わからない様子だった。右手はレイナールの手首を捕らえたまま、逆の手で短い黒の髪を、ガシガシと掻き回す。真剣に悩んでいる様子だ。

 いつもと同じ無表情の怖い顔のはずなのに、彼が焦っていることは、十分に伝わってきた。

 レイナールからフォローの一言を告げるべきか迷っていると、豪快なノック音とともに、ジョシュアの名前を呼ぶ声がした。アルバートである。

「おい、ジョシュア。レイに何かあったんじゃなかろうな?」

 弾かれたように手首を離した彼は、ドアの向こうの祖父と、目の前のレイナールを交互に見る。

「レイ?」
「ああ、はい。お祖父様に、そう呼びたいと仰っていただけたので……」
「お祖父様!?」

 これまでの無骨な印象とは正反対の素っ頓狂な声を上げ、ジョシュアは書斎を出て、祖父と何やら口論をしながら離れていった。

 よくわからないまま取り残されたレイナールは、胸をはだけられたままだということにはたと気づき、決まり悪く、急いでボタンをしめてから、彼らの後を追うのだった。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

孤独な王弟は初めての愛を救済の聖者に注がれる

葉月めいこ
BL
ラーズヘルム王国の王弟リューウェイクは親兄弟から放任され、自らの力で第三騎士団の副団長まで上り詰めた。 王家や城の中枢から軽んじられながらも、騎士や国の民と信頼を築きながら日々を過ごしている。 国王は在位11年目を迎える前に、自身の治世が加護者である女神に護られていると安心を得るため、古くから伝承のある聖女を求め、異世界からの召喚を決行した。 異世界人の召喚をずっと反対していたリューウェイクは遠征に出たあと伝令が届き、慌てて帰還するが時すでに遅く召喚が終わっていた。 召喚陣の上に現れたのは男女――兄妹2人だった。 皆、女性を聖女と崇め男性を蔑ろに扱うが、リューウェイクは女神が二人を選んだことに意味があると、聖者である雪兎を手厚く歓迎する。 威風堂々とした雪兎は為政者の風格があるものの、根っこの部分は好奇心旺盛で世話焼きでもあり、不遇なリューウェイクを気にかけいたわってくれる。 なぜ今回の召喚されし者が二人だったのか、その理由を知ったリューウェイクは苦悩の選択に迫られる。 召喚されたスパダリ×生真面目な不憫男前 全38話 こちらは個人サイトにも掲載されています。

侯爵様の愛人ですが、その息子にも愛されてます

muku
BL
魔術師フィアリスは、地底の迷宮から湧き続ける魔物を倒す使命を担っているリトスロード侯爵家に雇われている。 仕事は魔物の駆除と、侯爵家三男エヴァンの家庭教師。 成人したエヴァンから突然恋心を告げられたフィアリスは、大いに戸惑うことになる。 何故ならフィアリスは、エヴァンの父とただならぬ関係にあったのだった。 汚れた自分には愛される価値がないと思いこむ美しい魔術師の青年と、そんな師を一心に愛し続ける弟子の物語。

婚約破棄と国外追放をされた僕、護衛騎士を思い出しました

カシナシ
BL
「お前はなんてことをしてくれたんだ!もう我慢ならない!アリス・シュヴァルツ公爵令息!お前との婚約を破棄する!」 「は……?」 婚約者だった王太子に追い立てられるように捨てられたアリス。 急いで逃げようとした時に現れたのは、逞しい美丈夫だった。 見覚えはないのだが、どこか知っているような気がしてーー。 単品ざまぁは番外編で。 護衛騎士筋肉攻め × 魔道具好き美人受け

生まれ変わったら知ってるモブだった

マロン
BL
僕はとある田舎に小さな領地を持つ貧乏男爵の3男として生まれた。 貧乏だけど一応貴族で本来なら王都の学園へ進学するんだけど、とある理由で進学していない。 毎日領民のお仕事のお手伝いをして平民の困り事を聞いて回るのが僕のしごとだ。 この日も牧場のお手伝いに向かっていたんだ。 その時そばに立っていた大きな樹に雷が落ちた。ビックリして転んで頭を打った。 その瞬間に思い出したんだ。 僕の前世のことを・・・この世界は僕の奥さんが描いてたBL漫画の世界でモーブル・テスカはその中に出てきたモブだったということを。

撫子の華が咲く

茉莉花 香乃
BL
時は平安、とあるお屋敷で高貴な姫様に仕えていた。姫様は身分は高くとも生活は苦しかった ある日、しばらく援助もしてくれなかった姫様の父君が屋敷に来いと言う。嫌がった姫様の代わりに父君の屋敷に行くことになってしまった…… 他サイトにも公開しています

置き去りにされたら、真実の愛が待っていました

夜乃すてら
BL
 トリーシャ・ラスヘルグは大の魔法使い嫌いである。  というのも、元婚約者の蛮行で、転移門から寒地スノーホワイトへ置き去りにされて死にかけたせいだった。  王城の司書としてひっそり暮らしているトリーシャは、ヴィタリ・ノイマンという青年と知り合いになる。心穏やかな付き合いに、次第に友人として親しくできることを喜び始める。    一方、ヴィタリ・ノイマンは焦っていた。  新任の魔法師団団長として王城に異動し、図書室でトリーシャと出会って、一目ぼれをしたのだ。問題は赴任したてで制服を着ておらず、〈枝〉も持っていなかったせいで、トリーシャがヴィタリを政務官と勘違いしたことだ。  まさかトリーシャが大の魔法使い嫌いだとは知らず、ばれてはならないと偽る覚悟を決める。    そして関係を重ねていたのに、元婚約者が現れて……?  若手の大魔法使い×トラウマ持ちの魔法使い嫌いの恋愛の行方は?

嫌われ変異番の俺が幸せになるまで

深凪雪花
BL
 候爵令息フィルリート・ザエノスは、王太子から婚約破棄されたことをきっかけに前世(お花屋で働いていた椿山香介)としての記憶を思い出す。そしてそれが原因なのか、義兄ユージスの『運命の番』に変異してしまった。  即結婚することになるが、記憶を取り戻す前のフィルリートはユージスのことを散々見下していたため、ユージスからの好感度はマイナススタート。冷たくされるが、子どもが欲しいだけのフィルリートは気にせず自由気ままに過ごす。  しかし人格の代わったフィルリートをユージスは次第に溺愛するようになり……? ※★は性描写ありです。

[完結]堕とされた亡国の皇子は剣を抱く

小葉石
BL
 今は亡きガザインバーグの名を継ぐ最後の亡国の皇子スロウルは実の父に幼き頃より冷遇されて育つ。  10歳を過ぎた辺りからは荒くれた男達が集まる討伐部隊に強引に入れられてしまう。  妖精姫との名高い母親の美貌を受け継ぎ、幼い頃は美少女と言われても遜色ないスロウルに容赦ない手が伸びて行く…  アクサードと出会い、思いが通じるまでを書いていきます。  ※亡国の皇子は華と剣を愛でる、 のサイドストーリーになりますが、この話だけでも楽しめるようにしますので良かったらお読みください。  際どいシーンは*をつけてます。

処理中です...