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私の隣は、心が見えない男の子

第126話 私に教えてくれたのは

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 九十九くんも私も、どちらかと言えば食が細い方の人間だ。

 九十九くんは食べさせようとすればいっぱい食べられるようだけど、自分からたくさん食べようとはしない。

 この後も食べ歩きしていく事を念頭に入れるとあまりしっかり食べたくはなくて、文化祭限定メニューのある学食や重めの模擬店料理の提案を断り、こっちが良いと言う私に付き合って、九十九くんも購買でお昼を調達した。

 その代わり、といってはなんだけど、場所は九十九くんの提案した場所。私達のクラス教室。

 劇の道具などは引き上げられる分だけ引き上げているので、荷物置き場と化している。

 クラスの一員であれば誰でも使用して良い事になっているのだけど、皆文化祭を満喫しているのか、私達の他には誰も居なかった。

「九十九くん、本当にそれだけでいいの?」

「まだ模擬店回るだろ」

 九十九くんはそう言って、買ってきたコロッケパンを食べる。私もその隣でおにぎりを口に運ぶ。具は鮭のものと昆布のものを一つずつ買った。

「お前は、進路、目星ついたか」

 唐突に頭が痛くなりそうな話題が飛んできて、思わず咀嚼しないまま飲み込んでしまいそうになる。

 結局、夏に行ったオープンキャンパスは冬紗先輩の大学以外もピンとくるところはなくて、今のところ定まっていない。

「九十九くんは?」

 思いっきり話を逸らしたけれど、九十九くんは意に介さず、大学の名前を挙げてくれた。オープンキャンパスを探すときに見た名前。

「九十九くんなら、もっと上に行けそうだけど」

 私の努力圏内、といった偏差値だったように記憶している。もちろん学部にもよるだろうけど。それに、九十九くんの家からだと少し遠いような。

「頑張れば学費免除も受けられる可能性があるラインだと、そのくらいだ」

「それって、奨学生の……」

 スカラシップ入試、というやつだろうか。ごく一部、特に優秀な学生を学費の免除や減額を条件に迎え入れるための制度が、あるとかないとか。

 私には縁のない話だと思っていたので詳しくは知らないけれど、それが受けられるというのは凄いことだ。

「それが一人暮らしの条件だからな」

「九十九くん、一人暮らしするの?」

 何から何まで寝耳に水な話で、とても理解が追いつかなさそうだったけれど、九十九くんの寂しそうな表情を見て、混乱しかけた頭が冷えた。

「高校生の間はバイト禁止。その代わり、学費免除で大学に入れるなら一人暮らしを許可するし、生活が落ち着くまでは補助をする。それが、母との約束だ。許可と言いつつ、是非そうして欲しいって口振りだったけどな」

「どうして」

 何度も会った。優しいお母さんだった。九十九くんを追い出そうなんて、考えているようには思えない。

「もう、次の拠り所があるんだ。俺の存在は邪魔になる」

「でも、家族だよ」

「だから、ちゃんと自立まで責任を果たしてくれる。家庭を壊した張本人である俺に。優しい方だろう」

「じゃあなんで、九十九くんはそんなに寂しそうなの」

 食べ終わったパンの袋を畳む九十九くんの目に、色はない。だけど、君が寂しがっていることくらい分かる。分かるよ。ずっと、見てきたから。

「それは別にいい」

「よくないよ」

「いいんだ」

 私はそれが嫌なんだ。君が、自分の苦しみを諦めてしまえるのが。

 そう叫びだすところだった。でも、私の目を射抜く君の瞳は、今度は本当に、苦しんでいるようには見えなかった。

「どうでもいいと思ってた。中学最後の一年間も、家族のことも、結局途中で諦めたから。もうどうでもいいと思ってた。母にとってもクラスメイトにとっても、俺は不要な人間だったから。自分の価値を見いだせなかった。だけど、それだけじゃないって、お前が去年、俺に教えてくれたんだ」

 あの日の風景がフラッシュバックする。教室の場所も、時間帯も違うのに。今だけここは、あの日の教室みたい。

「お前が俺の欠片を拾ってくれたから。昔のことも、冬紗先輩のことも、吹っ切れた訳じゃないけど、大丈夫。悩むことも、苦しむことも、諦めずにいられてる。もういいって、投げ出さずに済んでいる」

「それで、いいの……? 嫌じゃない……?」

「俺が今でも、全部大切に思えている証だ。だから、これがいい」

 こんなに支えになれていたのに。これほど想ってくれていたのに。

 どうして気づかなかったのだろうか。いや、分かっている。私が逃げ出したからだ。それなのに君が、私が空けた距離を飛び越えてくれた。

「お前がいてくれたら大丈夫。だから、もう逃げるな」

「でも、私がいると、他の人が、もう九十九くんと一緒に居られなくなっちゃう」

「今更それで離れていくなら、最初からその程度の仲だ」

「でも」

 それはやっぱりよくない。そう言おうとしたけれど、視線一つで止められた。

「俺が投げやりにならず、ちゃんと人と関われるようになったのは、お前が手を引いてくれたからだ。どれだけ仲良くしてくれるやつが増えようと、お前を差し置いたりはしない」

 やっぱり、九十九くんはずるい。そんな事を言われたら、我慢なんて出来るはずがないのに。

「あんまり気にしすぎるな。深刻な問題なんてない。お前といるときに落ち着かなくなったのだって、昔のことや先輩のことが原因じゃない」

 そうだ。その事をまだ聞いていない。

「じゃあ、どうして?」

 優しい表情が一気に曇っていく。君も私のことを言えないくらい、ときどき迂闊なことを言って墓穴を掘る。

「大した理由じゃない」

「なら、話して」

 目をそらす君をにらみ続ける。ここまで来て引き下がれない。わなわなと震える唇が、何か言葉を咀嚼して、ゆっくり、一つずつ発し始める。

「俺のためを思って、心配してくれるお前の優しさに、欲で応えたくなかった」

 欲、と言われて咄嗟に思い浮かぶものではなかったけれど。でも確かに、よくよく聞いてみれば、それは私にだって身に覚えがある感情だった。

「先輩みたいになってしまわないかと心配してくれるお前に弱みを見せたら、側にいてくれるんじゃないかと思った。自分に縛り付けることが出来るんじゃないかって」

 そんなの私だって、どれだけ既に、甘えてきてしまったか。私が一言泣きつけば、周りの全部を捨てて私の側にいてくれるんじゃないかって、人に囲まれる君を見て何度思ったか。

「お前が側にいるだけでは、安心できなくなった。ときどき、お前がいることを確認したくて――触れたくて、堪らなくなる」

「いいよ」

 それこそ、今更だ。私がどれだけ、君の手に縋ってきたか。その肩に寄りかかってきたか。

 君の方に身を乗り出す。

「九十九くんなら、いいよ」

 君の瞳が揺らぐ。ずっと、ずっと見てきた君の目。私に何度も、君の心の欠片を運んできてくれた目。

 なのに今日、初めて見る目。

 君の目は、こんなだっただろうか。その目に宿る色も、温度も。優しさだけじゃない。何か、もっと、違うものが含まれている。

 私はそれに、見覚えがあるはずなのに思い出せない。

 怯えるように。躊躇うように。ゆっくり伸びてきた君の左手が、優しく私の頬に触れる。瞬間。

 身体の芯が、じんと痺れた。


---

 
 階段を駆け下りる。九十九くんに何と言って飛び出してきたか、よく覚えていない。結季ちゃん達を言い訳にしたような気がする。

 一番下まで下りて、階段下のデッドスペースに飛び込む。どこでも良いから一人になりたかった。人のいない実習棟の一階に目をつけたのは当たりだったかも知れない。

 文化祭のざわめきすら遠くて、耳に入らない。ああ、今になって、気持ちが分かるとは思わなかった。

 だけど、私は違ったよ、相沢さん。

 全然苦しくなんかない。耳がジンジンするほど、激しく脈打ったりしてない。顔もそれほど熱くない。

 だけど、九十九くんの掌から伝わった温もりが身体に満ちている。胸の奥、身体の芯から染み出してきた温もりが、溢れることなく、どこまでも私を満たしていく。

 私にその感情を教えてくれたのは、彼がくれた、この優しい温度だった。
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