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私の隣は、心が見えない男の子
第100話 過ぎ去る季節とやってくる嵐
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喫茶店でのアルバイトには慣れてきて、だけど九十九くんとの距離感は落ち着かなくて、何かに怯えるように側にへばり付いたまま、夏になった。
そう、もう夏だ。体育祭は矢のように過ぎ去ってしまった。それも、パッとしない成績で。
去年は個人競技でも皆一位を取ったり、団体競技でもいい成績を残せたけれど、あれは余程色んな要素が噛み合った結果なのだということを思い知らされたものだ。
例えば、九十九くん。今年も障害物競走の結果は良かったけれど、去年のリレーの功績から押し流されるように周囲に決められた百メートル走への出場。結果は、足の速い運動部の人たちと同じレーンになってしまい、四位という微妙な位置に落ち着いた。
私も今年は百メートル走に出たけれど、結果は三位。私も九十九くんも、去年より遅くなってしまった訳では無いけれど、周囲の運動部の子達は速くなっている子も多いためだろう。
帰宅部である私達が鍛え続けてきた運動部の子達に実力を離されてしまうのは、当然といえば当然だった。私ももう、真咲ちゃんと同じくらい速いとは言えない。
そんな風に冷静に仕方がないと言えるのも、終わった今だからこそなのだけれど。当日は勝つつもりで本気でやったし、その分、悔しかった。
カメラをまだ購入できておらず、スマホも預けてしまっているが故に九十九くんの撮影を進藤くんに頼み込んでいた結果、後ろから九十九くんの肩に額を押し当て、彼のシャツの裾を握りしめながら悔しさに耐える私の姿まで激写されてしまったほどに。
来年は私の痴態は撮影しなくてもいいとキツく言い含めなければならない。言ってもどうせ撮るのだろうけど。
文化祭の出し物も、もう決められた。うちの学校では、クラスの出し物での体育館ステージ利用は二年生に優先権が与えられる。
まず、くじ引きで三クラスに割り振られ、そのうちステージを使う出し物を選ばなかったクラスの分だけ、二年生内で再抽選。それでも枠が余れば、全学年で再抽選だ。
二年生を優先する理由は、一年分文化祭の経験があることと、受験勉強の心配が比較的薄いためであるらしい。
我がクラスの今年の実行委員は、事前のくじ引きでステージ使用の優先権を獲得してきてくれた。それならせっかくだからと、出し物は演劇に決定したのだ。
なんと、脚本もわざわざ書き下ろしてもらえるそうだ。演劇部所属の相沢さんは、部の方でも何度か脚本を書いているらしい。
部内コンペを通過できず、実際に採用されたことはないそうだけど、今回クラスの方で実績を作って、来年最後の大会には自分の脚本を通してみせるのだと大層意気込んでいた。
ジャンルは相沢さんの得意分野であることと、ロミオとジュリエットやシンデレラなど、定番どころからの流用が効くとの理由でラブコメディになった。脚本は夏休みまでに第一稿を起こし、夏休み中に演技の練習と改稿を進めるそうだ。
ちなみに実行委員は、今年は真咲ちゃんと結季ちゃんではない。消極的な理由ではなく、去年の経験を踏まえた上で、下から支える道を選んだと言っていた。
もちろん私も、そんな彼女たちと一緒に頑張っていく。担当は小道具でステージには立たないけれど、私は私で、出来ることをするんだ。
そして、今年はもう一つ、イベントがある。十一月。沖縄への修学旅行だ。
---
三泊四日、沖縄修学旅行。四日間の内、二日はクラス単位での行動。一日は個人個人で選択したアクティビティ中心の体験学習。最後の一日は、クラスの枠もなく、学年全体で自由に組んだ班での行動だ。
明日のLHRでは、アクティビティ選択アンケートの回収、部屋割りと自由行動班の組分け、そして修学旅行全体に関する説明などが行われる。
立て続けにくるイベントの気配に胸を踊らせる、そんな日の朝のことだった。
「お話中ごめんなさい。九十九、ちょっといい?」
私がいつものようにしゃがみ込んで九十九くんと話していると、彼に声がかかった。
声の主は一条美法さん。あまり話したことはないけれど、きっちりした性格で、大きなレンズのメガネをかけていて、小さな麻呂眉がきりりと凛々しく、髪をうなじのあたりで二つに結んでいる。委員長と呼びたくなるような子だ。
彼女は生徒会に所属しているので、学級委員ではないのだけれど。確か、役職は書記職だったか。
「どうかしたの? 一条さん」
話しかけられたのは九十九くんだけど、彼がいつものように視線だけで返事をするので、代わりに私が声をかける。
一条さんはやや眉をひそめながら、話を続けた。
「明日、修学旅行の班決めがあるでしょう。九十九、あなた、うちの班にこない?」
雷が落ちたような衝撃が全身に走った。あまりに愛想がないゆえにそうそう女子から話しかけられない九十九くんが。自分から話しかけるとちょっと身構えられてしまう九十九くんが。女子に誘われている。それも、彼をニノマエと呼ばない女子に。
彼のあだ名は、新しいクラスになっても変わらず使われ続けた。去年同じクラスだった男子がいないにも関わらず、進藤くんもちょくちょく遊びに来ているので、上下どちらも。
にも関わらず、一条さんは彼を九十九と呼んだ。自分以外がそう呼んでいるのを聞くのは、最初の頃の冬紗先輩以来だろうか。
そして、修学旅行の自由行動班。私はまだ、九十九くんを誘えていなかった。当然一緒の班になるつもりではいたのだけれど、真咲ちゃん達とも一緒に組みたい。だけど、そうなると結季ちゃんがいい顔をしない。
男子が一人になってしまうのも、九十九くんには居心地が悪いだろうという考えもあった。最低五人が班の条件なので、どのみち一人足りないし、そこを男子にすればいい話ではあるのだけど、前に廊下で話した時、進藤くんはもう班を決めていると言っていた。誘えるあてがない。
そんなこんなで対応を考えているうちに、そうだ。私は今、先を越されたのだ。
九十九くんはどう思っているのだろう、と視線を向けた。駄目だ、九十九くんも戸惑っている。顔はいつも通りのポーカーフェイスだけれど、心の靄がもぞもぞと身じろぎをするように蠢いている。
「まだ誰と組むか決めていないでしょう? 悪い話じゃないと思うわ。男子も含めてバランスよく組むし。なにより」
戸惑うこちらを意に介さず、一条さんは追撃してくる。必殺技とばかりに、用意した奥の手を切って。
「元D組の子はいない。あなたを、ふざけたあだ名で呼ぶ人間はいないわ」
九十九くんに向けられた強い視線。それに呼応するように、すぅ、と九十九くんの戸惑いが引いていく。
「俺はそれを、迷惑だと言った覚えはない」
九十九くんの視線も強い。だけど、私はそれを、どう思えばいいのか分からなかった。私が呼ぶからそれでいいと言ってもらって、それで満足して、他の人が彼をあだ名で呼ぶのを見過ごしている、私には。
一条さんは、そうではなかった。
「だからいい、っていう話でもないでしょう。あなたの本名を覚えていない子すら居るのよ」
「別に構わない」
「あなたが構わなくても、これは問題よ。クラスメイトの名前を間違って覚えてしまうのも。あなたで慣れてしまった子が、他の子を蔑称で呼ぶのにも躊躇しなくなってしまう可能性があるのも」
九十九くんが息を呑む。そんなことは、考えても見なかったのだろう。
他人を重く見る彼は、自分の行動が他人に与える影響と責任をやりすぎなくらい考えるけれど、自分を軽く見る彼は、自分が他人にされたことは流してしまう。それで自分が、傷ついても。
だからきっと、自分が受け入れることの影響までは、考えていなかったのだろう。もちろん、私も。
「別に、本名で呼ばれるのが嫌なわけでもないでしょう? 信頼できる人間を集めてる。あなたを蔑ろにしたりするやつはいないわ。窮屈な思いもさせない。どう? 九十九」
それはとても、筋の通った話で、魅力的な話だと思った。だけど。
「間に合ってる」
九十九くんは、そう答えた。
「……明日、また誘うわ。考えておいて」
そう言って去っていく一条さんは、私の方も一瞥した。目が合ったけれど、私は最後まで口を挟むことが出来ず、予鈴が鳴る。
私と組もう。そう割り込みたい気持ちはあったけれど、最後まで言えなかった。私と居たほうがいい。そう言えるのかどうか、私には分からなかった。
九十九くんはどう思っているのだろう。彼の心の靄は、何も答えてはくれない。
そう、もう夏だ。体育祭は矢のように過ぎ去ってしまった。それも、パッとしない成績で。
去年は個人競技でも皆一位を取ったり、団体競技でもいい成績を残せたけれど、あれは余程色んな要素が噛み合った結果なのだということを思い知らされたものだ。
例えば、九十九くん。今年も障害物競走の結果は良かったけれど、去年のリレーの功績から押し流されるように周囲に決められた百メートル走への出場。結果は、足の速い運動部の人たちと同じレーンになってしまい、四位という微妙な位置に落ち着いた。
私も今年は百メートル走に出たけれど、結果は三位。私も九十九くんも、去年より遅くなってしまった訳では無いけれど、周囲の運動部の子達は速くなっている子も多いためだろう。
帰宅部である私達が鍛え続けてきた運動部の子達に実力を離されてしまうのは、当然といえば当然だった。私ももう、真咲ちゃんと同じくらい速いとは言えない。
そんな風に冷静に仕方がないと言えるのも、終わった今だからこそなのだけれど。当日は勝つつもりで本気でやったし、その分、悔しかった。
カメラをまだ購入できておらず、スマホも預けてしまっているが故に九十九くんの撮影を進藤くんに頼み込んでいた結果、後ろから九十九くんの肩に額を押し当て、彼のシャツの裾を握りしめながら悔しさに耐える私の姿まで激写されてしまったほどに。
来年は私の痴態は撮影しなくてもいいとキツく言い含めなければならない。言ってもどうせ撮るのだろうけど。
文化祭の出し物も、もう決められた。うちの学校では、クラスの出し物での体育館ステージ利用は二年生に優先権が与えられる。
まず、くじ引きで三クラスに割り振られ、そのうちステージを使う出し物を選ばなかったクラスの分だけ、二年生内で再抽選。それでも枠が余れば、全学年で再抽選だ。
二年生を優先する理由は、一年分文化祭の経験があることと、受験勉強の心配が比較的薄いためであるらしい。
我がクラスの今年の実行委員は、事前のくじ引きでステージ使用の優先権を獲得してきてくれた。それならせっかくだからと、出し物は演劇に決定したのだ。
なんと、脚本もわざわざ書き下ろしてもらえるそうだ。演劇部所属の相沢さんは、部の方でも何度か脚本を書いているらしい。
部内コンペを通過できず、実際に採用されたことはないそうだけど、今回クラスの方で実績を作って、来年最後の大会には自分の脚本を通してみせるのだと大層意気込んでいた。
ジャンルは相沢さんの得意分野であることと、ロミオとジュリエットやシンデレラなど、定番どころからの流用が効くとの理由でラブコメディになった。脚本は夏休みまでに第一稿を起こし、夏休み中に演技の練習と改稿を進めるそうだ。
ちなみに実行委員は、今年は真咲ちゃんと結季ちゃんではない。消極的な理由ではなく、去年の経験を踏まえた上で、下から支える道を選んだと言っていた。
もちろん私も、そんな彼女たちと一緒に頑張っていく。担当は小道具でステージには立たないけれど、私は私で、出来ることをするんだ。
そして、今年はもう一つ、イベントがある。十一月。沖縄への修学旅行だ。
---
三泊四日、沖縄修学旅行。四日間の内、二日はクラス単位での行動。一日は個人個人で選択したアクティビティ中心の体験学習。最後の一日は、クラスの枠もなく、学年全体で自由に組んだ班での行動だ。
明日のLHRでは、アクティビティ選択アンケートの回収、部屋割りと自由行動班の組分け、そして修学旅行全体に関する説明などが行われる。
立て続けにくるイベントの気配に胸を踊らせる、そんな日の朝のことだった。
「お話中ごめんなさい。九十九、ちょっといい?」
私がいつものようにしゃがみ込んで九十九くんと話していると、彼に声がかかった。
声の主は一条美法さん。あまり話したことはないけれど、きっちりした性格で、大きなレンズのメガネをかけていて、小さな麻呂眉がきりりと凛々しく、髪をうなじのあたりで二つに結んでいる。委員長と呼びたくなるような子だ。
彼女は生徒会に所属しているので、学級委員ではないのだけれど。確か、役職は書記職だったか。
「どうかしたの? 一条さん」
話しかけられたのは九十九くんだけど、彼がいつものように視線だけで返事をするので、代わりに私が声をかける。
一条さんはやや眉をひそめながら、話を続けた。
「明日、修学旅行の班決めがあるでしょう。九十九、あなた、うちの班にこない?」
雷が落ちたような衝撃が全身に走った。あまりに愛想がないゆえにそうそう女子から話しかけられない九十九くんが。自分から話しかけるとちょっと身構えられてしまう九十九くんが。女子に誘われている。それも、彼をニノマエと呼ばない女子に。
彼のあだ名は、新しいクラスになっても変わらず使われ続けた。去年同じクラスだった男子がいないにも関わらず、進藤くんもちょくちょく遊びに来ているので、上下どちらも。
にも関わらず、一条さんは彼を九十九と呼んだ。自分以外がそう呼んでいるのを聞くのは、最初の頃の冬紗先輩以来だろうか。
そして、修学旅行の自由行動班。私はまだ、九十九くんを誘えていなかった。当然一緒の班になるつもりではいたのだけれど、真咲ちゃん達とも一緒に組みたい。だけど、そうなると結季ちゃんがいい顔をしない。
男子が一人になってしまうのも、九十九くんには居心地が悪いだろうという考えもあった。最低五人が班の条件なので、どのみち一人足りないし、そこを男子にすればいい話ではあるのだけど、前に廊下で話した時、進藤くんはもう班を決めていると言っていた。誘えるあてがない。
そんなこんなで対応を考えているうちに、そうだ。私は今、先を越されたのだ。
九十九くんはどう思っているのだろう、と視線を向けた。駄目だ、九十九くんも戸惑っている。顔はいつも通りのポーカーフェイスだけれど、心の靄がもぞもぞと身じろぎをするように蠢いている。
「まだ誰と組むか決めていないでしょう? 悪い話じゃないと思うわ。男子も含めてバランスよく組むし。なにより」
戸惑うこちらを意に介さず、一条さんは追撃してくる。必殺技とばかりに、用意した奥の手を切って。
「元D組の子はいない。あなたを、ふざけたあだ名で呼ぶ人間はいないわ」
九十九くんに向けられた強い視線。それに呼応するように、すぅ、と九十九くんの戸惑いが引いていく。
「俺はそれを、迷惑だと言った覚えはない」
九十九くんの視線も強い。だけど、私はそれを、どう思えばいいのか分からなかった。私が呼ぶからそれでいいと言ってもらって、それで満足して、他の人が彼をあだ名で呼ぶのを見過ごしている、私には。
一条さんは、そうではなかった。
「だからいい、っていう話でもないでしょう。あなたの本名を覚えていない子すら居るのよ」
「別に構わない」
「あなたが構わなくても、これは問題よ。クラスメイトの名前を間違って覚えてしまうのも。あなたで慣れてしまった子が、他の子を蔑称で呼ぶのにも躊躇しなくなってしまう可能性があるのも」
九十九くんが息を呑む。そんなことは、考えても見なかったのだろう。
他人を重く見る彼は、自分の行動が他人に与える影響と責任をやりすぎなくらい考えるけれど、自分を軽く見る彼は、自分が他人にされたことは流してしまう。それで自分が、傷ついても。
だからきっと、自分が受け入れることの影響までは、考えていなかったのだろう。もちろん、私も。
「別に、本名で呼ばれるのが嫌なわけでもないでしょう? 信頼できる人間を集めてる。あなたを蔑ろにしたりするやつはいないわ。窮屈な思いもさせない。どう? 九十九」
それはとても、筋の通った話で、魅力的な話だと思った。だけど。
「間に合ってる」
九十九くんは、そう答えた。
「……明日、また誘うわ。考えておいて」
そう言って去っていく一条さんは、私の方も一瞥した。目が合ったけれど、私は最後まで口を挟むことが出来ず、予鈴が鳴る。
私と組もう。そう割り込みたい気持ちはあったけれど、最後まで言えなかった。私と居たほうがいい。そう言えるのかどうか、私には分からなかった。
九十九くんはどう思っているのだろう。彼の心の靄は、何も答えてはくれない。
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