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幸せな思い出、そして
第78話 棘
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「そんな顔、しなくても」
「いや、するでしょう。なんで、そんな」
「そんなに不思議?」
先輩の方こそ、心底不思議そうだった。
「じゃあ、例えば、専門学校に進むために作ってたポートフォリオを親に燃やされた、って言えば、分かる? 兄の形見のカメラを、諦めさせるために壊された、って言えば、分かる? 夢を諦らめずにはいられなかった他の同級生に、わがままを言うなっていじめられた、って言えば、分かる?」
先輩が言うその光景を想像して、その痛みを想像して、意識が遠くなりそうだった。それは一体、どれだけの。
「全部、嘘じゃないんですか」
だけど、九十九くんはそう言った。
「うん。嘘だよ。そんなことはなかった。でもそれなら、死ぬほど辛かったんだなって、少しは思わなかった?」
少しどころか、感情移入しすぎて倒れてしまいそうだった。でも、私にとって痛いのは、そんなことじゃなかった。
「大切なものを、その程度、って言われただけ。たったそれだけのことが、死ぬほど苦しかったらおかしい? 物を壊されたり、いじめられたり、直接的な被害がなければ、私の痛みもその程度になるの?」
私も、軽んじてしまった。だから、先輩の言葉は、私に深々と刺さった。
「どうして、私の痛みの程度を、傷の深さを、他人が勝手に決められるの?」
全くもって、その通りだった。先輩はまさに、そういった無神経に苦しんでいるって知ったばかりのはずなのに。
「だからって、痛みだけじゃ無かったでしょう」
「だからだよ」
それでも、九十九くんは止まらなくて。止まらなくても尚、先輩は揺るがなかった。
「ハジメ君。君は、言われたことはない? まだ若いんだから。まだまだ未来があるんだから。間違いを次に活かして、これから良いことを積み重ねていけばいい。そんな風に」
過去は変えられないけど、未来は変えられる。これから誰かの為になることを積み重ねていけばいい。そうやって間違いを割り切れば、自分の間違いで傷ついた人まで、それでよかったみたいだ。
まさにそれを、私は、九十九くんの口から聞いたことがあった。
「いいこともあったから。幸せなこともあるから。そうやって、踏み躙られてしまったものから目を背けて生きるのが苦しい気持ち、分からない?」
「……分かりますよ」
「本当? 反省して次に、なんて言われても、大切なものを切り捨てて反省も何もないでしょって思う気持ち分かる? 貰ったものに報いられず、何も返してこれなかったくせに、どうして次だけは上手く出来るだなんて思えるのって言いたい気持ち、分かる?」
「分かりますよ」
「自分の価値を信じられなくて、どこにも自分が居て欲しくない気持ち、分かる?」
「分かりますよ! 俺は!」
「嘘」
「――っ、嘘なんかじゃ」
「嘘だよ」
「先輩!」
「嘘なんだよ。だって君は」
熱くなる九十九くんの語気と対象的に、先輩の言葉はどこまでも冷え切っていて。だけど、ほんの少しだけ、どこか、微かに、羨望の色があった。
「だって君は、『一透ちゃんを大切に思う自分』だけは、好きになってきているでしょう?」
こんな場面でなければ、私はそれを、喜べただろうか。
それを突きつけずにはいられない先輩の気持ちも、突きつけられて言葉を失ってしまった九十九くんの気持ちも、考えてしまえば。
とても、どう処理したらいいのか分からなかった。
「最初はね、君を、私と同じだと思ったから。そんな君なら、分かってくれるんじゃないかって、思ってたんだよ」
最初は、とは、いつの頃だろうか。今の九十九くんには、分からないのだろうか。私にも、分からないのだろうか。
分かると言えば、傲慢になるだろうか。
「でも君は、一透ちゃんに出逢った。君が変わっていく様子が、愁君越しでも分かった。そして今日、君と出会って、目を見て分かった。君が、私と同じようなものを抱えて生きてきたことも。今の君には、拠り所があることも。私が想像していた以上に、間違いじゃないって」
「変わっていなければ、よかったですか」
「ううん。そんなことないよ。寧ろ、変わってくれていてよかった。拠り所を得て前に進み始めている君が、私の思う通りの言葉を吐いてくれたら。親でも、カメラでも、私の大切なものを切り捨てられる人間でいてくれたら。選んだものだけを大切に生きる私の未来はこれなんだって、選ばなかったものを踏み躙ることができる人間になってしまうんだろうって、そう思えた筈なのに」
もしその通りになって、先輩の死を、九十九くんが背負うことになっていたら。そう考えると、怒りが湧いてきそうになる。いくら先輩でも彼にそんな勝手なものを背負わすなんて、って、思ってしまいそうになる。
「君に期待していたんだよ。ハジメ君。期待以上だった。期待していた以上に、君は賢くて、私の深いところを見抜いて、私が欲しかった言葉を避けてみせた」
でも、それはきっと先輩が、目的に徹しきれなかったからだ。先輩は、ちゃんと思っていることを伝えてくれた。
嘘をついて、情に訴えて、なりふり構わず欲しい言葉を引き出すことだって、先輩なら出来たはずだ。
不器用で、不格好だけど。九十九くんに対しては、暴力的ですらあるかも知れないけれど。それでもきっと、これは先輩からの救難信号なんだ。
九十九くんが先輩の思い通りのことを言ってあげられなかったのは、きっとそれが分かっていたからだと思う。彼はいつも、相手が欲しい言葉より、相手に必要な言葉を探してくれる。
「だから、二人を避けたんですか。どちらも諦めない道を今からでも探そうって、そう言われたら逃げ切れないから」
だから、その言葉は、九十九くんの口から伝えてくれるものと思っていた。なのにどうして、そんな伝え方をするのか。
答えはすぐに、先輩が教えてくれた。
「違うよ。君と二人の違いは、私がそう言われても、それを受け取れないことが分かっていて言えずにいるか、分からずに言ってしまうか。それだけだよ」
受け取れない、のは、なんで。それも、受け取ってしまえば、間違いもそれで良かったみたいになるって、そういう理由だろうか。
だとしても。私の答えはあの日、同じことを言った九十九くんに伝えたものと同じなのに。
「どうしても、ですか」
「どうしても、だよ。だってそれは、私の全部じゃない」
「それでも、あなたの一部でしょう」
そう。だから、あの日九十九くんは受け取ってくれた。彼と関わる中で私が拾い上げた、彼の欠片を。
「どこまでが?」
だけど、先輩は、そう突っぱねた。
「あの子達が見ている綺麗な私の全部が全部、私という人間の本質の一部だなんて、そんなはずないでしょう? 人の主観は、そんなに歪みなく他人を写し出さない」
「全部が全部、嘘でもないでしょう」
「そのラインを引く気がないのが問題なの。自分に見える相手の姿のどこまでが実体でどこからが虚像かを考えもしないまま、綺麗なものだけ全部私の一部だってことにして、汚い部分が見えていないことを棚に上げられても、そんなの、どうやって信じればいいの」
足元が崩れ落ちるような心地がした。私は、自分の信じたいことを信じて、伝えたいことを伝えるために、それ以外を視界の外に追いやっていただろうか。
していない。ちゃんと全部見ている。見えてない部分は、これから一つ一つ見つけて受け止めていく。
口ではそう言えるけれど、それはなんとも、空々しい響きがする。
「それでも今、同じ場所で一緒に生きているから、歩み寄って行こうとしてる。受け止めようとしてる。ちゃんと見ようとしている。あいつらのひたむきなその姿勢も間違いだって言うんですか」
「違うよ。それに関しては、嫌な自分を曝け出せない私のせい」
「それが分かっているなら、出来るはずでしょう。あいつらがどれだけ真っ直ぐな目であなたを見ているか、分からないあなたじゃないでしょう」
「分かっているよ、もちろん。だからこそでしょ? あの子達があまりにも眩しいから、余計に汚い自分を隠したくなる気持ちなら、君だって分かるでしょう?」
「分かりますよ! けど、それでも! 汚い俺の手を、あいつが、一透が迷わず引いてくれたから、だから俺も――」
「本当?」
そこで、初めて。
「それに応えたいと思って、頑張っているから、隠しているものなんてないと思ってない?」
はっきりと、先輩から九十九くんへ、強い感情が飛んだ。
「一透ちゃん、可愛いよね。心から君を信頼していて、それを隠そうともしない。君の隣で幸せそうな顔をして、ここが自分の居場所だって主張するみたいに君にべったり寄り添って。君が大切だって全身で表現して。君の言うことなら、大抵のことは聞いちゃうんじゃない?」
それは、明確な悪意だった。
「ねえ、ハジメ君。君は一透ちゃんに、邪な気持ちを抱いたこととかないの?」
「え」
その場の意識が、私に集中したのが分かった。その意識から逃げ出すように、思わず走り出してから、それが私の口から漏れた声だと気づいた。
「あら、いいところだったのに」
最後に聞こえたのは、先輩のそんな言葉だったように思う。
「いや、するでしょう。なんで、そんな」
「そんなに不思議?」
先輩の方こそ、心底不思議そうだった。
「じゃあ、例えば、専門学校に進むために作ってたポートフォリオを親に燃やされた、って言えば、分かる? 兄の形見のカメラを、諦めさせるために壊された、って言えば、分かる? 夢を諦らめずにはいられなかった他の同級生に、わがままを言うなっていじめられた、って言えば、分かる?」
先輩が言うその光景を想像して、その痛みを想像して、意識が遠くなりそうだった。それは一体、どれだけの。
「全部、嘘じゃないんですか」
だけど、九十九くんはそう言った。
「うん。嘘だよ。そんなことはなかった。でもそれなら、死ぬほど辛かったんだなって、少しは思わなかった?」
少しどころか、感情移入しすぎて倒れてしまいそうだった。でも、私にとって痛いのは、そんなことじゃなかった。
「大切なものを、その程度、って言われただけ。たったそれだけのことが、死ぬほど苦しかったらおかしい? 物を壊されたり、いじめられたり、直接的な被害がなければ、私の痛みもその程度になるの?」
私も、軽んじてしまった。だから、先輩の言葉は、私に深々と刺さった。
「どうして、私の痛みの程度を、傷の深さを、他人が勝手に決められるの?」
全くもって、その通りだった。先輩はまさに、そういった無神経に苦しんでいるって知ったばかりのはずなのに。
「だからって、痛みだけじゃ無かったでしょう」
「だからだよ」
それでも、九十九くんは止まらなくて。止まらなくても尚、先輩は揺るがなかった。
「ハジメ君。君は、言われたことはない? まだ若いんだから。まだまだ未来があるんだから。間違いを次に活かして、これから良いことを積み重ねていけばいい。そんな風に」
過去は変えられないけど、未来は変えられる。これから誰かの為になることを積み重ねていけばいい。そうやって間違いを割り切れば、自分の間違いで傷ついた人まで、それでよかったみたいだ。
まさにそれを、私は、九十九くんの口から聞いたことがあった。
「いいこともあったから。幸せなこともあるから。そうやって、踏み躙られてしまったものから目を背けて生きるのが苦しい気持ち、分からない?」
「……分かりますよ」
「本当? 反省して次に、なんて言われても、大切なものを切り捨てて反省も何もないでしょって思う気持ち分かる? 貰ったものに報いられず、何も返してこれなかったくせに、どうして次だけは上手く出来るだなんて思えるのって言いたい気持ち、分かる?」
「分かりますよ」
「自分の価値を信じられなくて、どこにも自分が居て欲しくない気持ち、分かる?」
「分かりますよ! 俺は!」
「嘘」
「――っ、嘘なんかじゃ」
「嘘だよ」
「先輩!」
「嘘なんだよ。だって君は」
熱くなる九十九くんの語気と対象的に、先輩の言葉はどこまでも冷え切っていて。だけど、ほんの少しだけ、どこか、微かに、羨望の色があった。
「だって君は、『一透ちゃんを大切に思う自分』だけは、好きになってきているでしょう?」
こんな場面でなければ、私はそれを、喜べただろうか。
それを突きつけずにはいられない先輩の気持ちも、突きつけられて言葉を失ってしまった九十九くんの気持ちも、考えてしまえば。
とても、どう処理したらいいのか分からなかった。
「最初はね、君を、私と同じだと思ったから。そんな君なら、分かってくれるんじゃないかって、思ってたんだよ」
最初は、とは、いつの頃だろうか。今の九十九くんには、分からないのだろうか。私にも、分からないのだろうか。
分かると言えば、傲慢になるだろうか。
「でも君は、一透ちゃんに出逢った。君が変わっていく様子が、愁君越しでも分かった。そして今日、君と出会って、目を見て分かった。君が、私と同じようなものを抱えて生きてきたことも。今の君には、拠り所があることも。私が想像していた以上に、間違いじゃないって」
「変わっていなければ、よかったですか」
「ううん。そんなことないよ。寧ろ、変わってくれていてよかった。拠り所を得て前に進み始めている君が、私の思う通りの言葉を吐いてくれたら。親でも、カメラでも、私の大切なものを切り捨てられる人間でいてくれたら。選んだものだけを大切に生きる私の未来はこれなんだって、選ばなかったものを踏み躙ることができる人間になってしまうんだろうって、そう思えた筈なのに」
もしその通りになって、先輩の死を、九十九くんが背負うことになっていたら。そう考えると、怒りが湧いてきそうになる。いくら先輩でも彼にそんな勝手なものを背負わすなんて、って、思ってしまいそうになる。
「君に期待していたんだよ。ハジメ君。期待以上だった。期待していた以上に、君は賢くて、私の深いところを見抜いて、私が欲しかった言葉を避けてみせた」
でも、それはきっと先輩が、目的に徹しきれなかったからだ。先輩は、ちゃんと思っていることを伝えてくれた。
嘘をついて、情に訴えて、なりふり構わず欲しい言葉を引き出すことだって、先輩なら出来たはずだ。
不器用で、不格好だけど。九十九くんに対しては、暴力的ですらあるかも知れないけれど。それでもきっと、これは先輩からの救難信号なんだ。
九十九くんが先輩の思い通りのことを言ってあげられなかったのは、きっとそれが分かっていたからだと思う。彼はいつも、相手が欲しい言葉より、相手に必要な言葉を探してくれる。
「だから、二人を避けたんですか。どちらも諦めない道を今からでも探そうって、そう言われたら逃げ切れないから」
だから、その言葉は、九十九くんの口から伝えてくれるものと思っていた。なのにどうして、そんな伝え方をするのか。
答えはすぐに、先輩が教えてくれた。
「違うよ。君と二人の違いは、私がそう言われても、それを受け取れないことが分かっていて言えずにいるか、分からずに言ってしまうか。それだけだよ」
受け取れない、のは、なんで。それも、受け取ってしまえば、間違いもそれで良かったみたいになるって、そういう理由だろうか。
だとしても。私の答えはあの日、同じことを言った九十九くんに伝えたものと同じなのに。
「どうしても、ですか」
「どうしても、だよ。だってそれは、私の全部じゃない」
「それでも、あなたの一部でしょう」
そう。だから、あの日九十九くんは受け取ってくれた。彼と関わる中で私が拾い上げた、彼の欠片を。
「どこまでが?」
だけど、先輩は、そう突っぱねた。
「あの子達が見ている綺麗な私の全部が全部、私という人間の本質の一部だなんて、そんなはずないでしょう? 人の主観は、そんなに歪みなく他人を写し出さない」
「全部が全部、嘘でもないでしょう」
「そのラインを引く気がないのが問題なの。自分に見える相手の姿のどこまでが実体でどこからが虚像かを考えもしないまま、綺麗なものだけ全部私の一部だってことにして、汚い部分が見えていないことを棚に上げられても、そんなの、どうやって信じればいいの」
足元が崩れ落ちるような心地がした。私は、自分の信じたいことを信じて、伝えたいことを伝えるために、それ以外を視界の外に追いやっていただろうか。
していない。ちゃんと全部見ている。見えてない部分は、これから一つ一つ見つけて受け止めていく。
口ではそう言えるけれど、それはなんとも、空々しい響きがする。
「それでも今、同じ場所で一緒に生きているから、歩み寄って行こうとしてる。受け止めようとしてる。ちゃんと見ようとしている。あいつらのひたむきなその姿勢も間違いだって言うんですか」
「違うよ。それに関しては、嫌な自分を曝け出せない私のせい」
「それが分かっているなら、出来るはずでしょう。あいつらがどれだけ真っ直ぐな目であなたを見ているか、分からないあなたじゃないでしょう」
「分かっているよ、もちろん。だからこそでしょ? あの子達があまりにも眩しいから、余計に汚い自分を隠したくなる気持ちなら、君だって分かるでしょう?」
「分かりますよ! けど、それでも! 汚い俺の手を、あいつが、一透が迷わず引いてくれたから、だから俺も――」
「本当?」
そこで、初めて。
「それに応えたいと思って、頑張っているから、隠しているものなんてないと思ってない?」
はっきりと、先輩から九十九くんへ、強い感情が飛んだ。
「一透ちゃん、可愛いよね。心から君を信頼していて、それを隠そうともしない。君の隣で幸せそうな顔をして、ここが自分の居場所だって主張するみたいに君にべったり寄り添って。君が大切だって全身で表現して。君の言うことなら、大抵のことは聞いちゃうんじゃない?」
それは、明確な悪意だった。
「ねえ、ハジメ君。君は一透ちゃんに、邪な気持ちを抱いたこととかないの?」
「え」
その場の意識が、私に集中したのが分かった。その意識から逃げ出すように、思わず走り出してから、それが私の口から漏れた声だと気づいた。
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