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ふぅん、この娘が噂の?

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 いろんなことがありすぎて、疲れているはずなのに眠れない。
 今日起こったこと、そしてこれからのこと。
 頭の中から追い出そうとすればするほど、どんどん押し寄せてきて、目が冴える。

 リュカは唸りながら、ベッドの上をごろごろと行ったり来たりしていた。

「ああ、そうだった」

 ふと、思い出したことがあって、ベッドから降りた。

 月の光でぼんやりと明るい部屋の中を、ゆっくりと円を描くように歩くと、その真ん中に立つ。
 シャツの下からクロスを引っぱり出し、銀の聖剣を取り出す。
 しばらく逡巡してから、思い切ったように呪文を唱え始めた。

「我、汝ラファエルを強く呼び出す。全能なる神の名と偉大なる力によって……」

 やがて、聖剣の前に強烈な閃光が起こり、次の瞬間、四大天使の一人、癒しを司る大天使ラファエルが光り輝く姿を現した。

 白い大きな翼に白いゆったりとした衣、身長より長い杖を左手に持っている。
 肩に付くほどの長さの少しクセのある明るい金色の髪と、深いブルーの瞳、彫りの深い美しい顔立ちだ。
 見た目の年齢はリュカと同じくらいの若者で、明るい雰囲気もどことなく似ている。

「やあ、リュカ。ミカエルから話は聞いたよ。なかなか楽しいことが、あったみたいじゃないか。俺も切り落とされた悪魔の小指、見てみたかったよ」

 青年の姿をした大天使が、朗らかに話しかけてくる。

「実はその話の続きで、ラファエルに頼みたいことがあるんだ」

 自分で召還し、頼みたいことがあると言いながらも、リュカはなぜか、顔をこわばらせて大天使を警戒している。
 ラファエルはそれに気付きながらも、軽い調子で応じる。

「へぇ。何だい?」
「ちょっと、こっちへ来てくれないか」

 リュカは大天使を伴って部屋を出ると、斜め向かいのドアの前に立った。
 左手でクロスを握りドアに右手を置いて、小さく呪文を唱える。
 それから、静かにドアを開けた。

「おいおい、女の子が休んでる部屋に、夜中にこっそり忍び込む気かい?」

 後ろからついてきた大天使が、面白がって耳元で囁く。

「うるさいな」

 そう言いながら、二人はアレットが眠っているベッドに近づいていった。

「ふうん、この娘が噂の?」

 大天使が、どれどれといった様子でアレットの寝顔を覗き込んだ。

「噂?」
「ふうん。ずいぶん清純そうな娘だな。へえぇ、こんな娘がお前の好みだったのか。ミカエルがいろいろ教えてくれたよ。リュカがべた惚れだとか、メロメロだとか……」
「う……。ミカエルがそんな風に言う訳ないだろ! もう、そんなことはいいから、この娘を診て欲しいんだ。どう思う?」

 ずっとリュカをからかうような表情をしていた大天使が、右手を顎の下に添えて、すっと真面目な顔になった。
 何かを見極めるように眼を細める。

「そうだな……。確かに話に聞いた通り、人間にしてはずいぶん大きい器を持っているな。だが、この状態はどういうことだ?」
「どうかした?」

 言葉を聞き返したリュカに、大天使がゆっくりと向き直った。

「この娘はもう、ベリアルの器になれるほどの力はない。ベリアルどころか、下級悪魔の器になるのも無理だな。……お前、この娘に一体何をした」
「ええええ? な、何って、俺、まだ何も……」

 鼻先に人差し指を突きつけながらの問いつめる口調に、しどろもどろになった。

 彼女が悪魔から不用とされるようなことまでは、まだしていない。
 しかし、彼女の甘い唇や潤んだ瞳、抱きしめたときの柔らかな感触、その他諸々を一気に思い出して、リュカの顔に火がついた。

 大天使の全身から放たれる輝きで、部屋の中は昼間のように明るい。
 顔色まではっきり分かるリュカの顔を、大天使がにやにやしながら舐めるように見る。

「ぷぷっ。まだ? 何も? へえー、そうなんだ」
「いや、少し…………じゃなくて! うぅ……どうだって、いいだろ! だからお前を呼ぶのは嫌だったんだ」

 昔からリュカは、ラファエルが苦手だった。
 意地悪な兄貴、あるいは悪友、あるいは天敵。
 そう思っているから、ラファエルが笑いをこらえながらも、かわいい弟を見るような優しい眼で見ていることには気付かない。

 リュカが落ち着くのを待って、ラファエルが話を再開する。

「この娘の身の内にあるのは、寂しさからできた孤独の器だ。悪魔の器になり得るのは、他にも憎悪の器とか傷心の器とかいろいろあるが、どれも中をいっぱいに満たしてやれば、器としての力を無くしてしまう」
「満たす? そんなことができるのか。何で満たせばいいんだ? どうすればいい?」
「愛だよ、愛。決まってるだろう?」

 両手を広げ、大げさな口調で言うラファエルに、リュカは顔をしかめる。

「お前、ときどき天使っぽいな」
「ははっ。正真正銘、天使だよ。しかも《大》までついてる。それはともかく……この娘は、昼間は悪魔の器になれたはずなのに、今は到底無理だ。こんな短時間のうちに、彼女の器は、もう半分以上満たされている。満たしたのは、すべて……リュカ、お前だ」

 ラファエルがにやりと笑って、右手の甲でリュカの胸をどんと叩いた。

「え? そうなのか。…………全部……俺?」

 いきなり突かれた胸を押さえてよろめきながらも、思わぬ話に眼を見開いた。
 そして、アレットの安らかな寝顔に眼を向けると、喜びと照れくささが入り交じった何ともいえない表情になる。

「リュカ。その、にやけた顔はやめろ。それで、俺に何をしろと?」

 盛大な溜め息をついたラファエルに横目で見られ、口元を慌てて引き締める。

「器が半分満たされていたって、まだ、力は残ってるんだろう?」
「ああ。この娘の器は大きいからな」
「その力を、完全に抑えたいんだ。このままでは、また亡霊や悪霊を呼び寄せてしまうだろう? 俺のクロスのようなものがあれば、器の力を押さえられると思うんだけど」

 リュカが胸にかかるカントルーヴのボトニーに手を触れた。
 亡霊程度なら、このクロスほど強力でなくても、退けられるはずだ。
 リュカは癒しを司る大天使ラファエルに、同様の力を持つ魔除けを授けてもらおうと考えていた。

「確かにな。だが、わざわざ俺の力を借りなくても、いいんじゃないか? お前が残りの半分も、溢れるほどに満たしてやればいい。この娘の今の様子と、おまえが《カントルーヴを名乗る者》であることを考えれば、そうだな……一晩あれば足りるだろう。これから、夜明けまででもいい」

 ラファエルは杖を肩にもたせて腕を組むと、片方の口端を上げて、意味ありげな視線を向けてきた。

「なっ? 一晩って、まさか……」

 大天使が何を言わんとしているのかを察し、思わず赤面して後ずさる。
 ラファエルが獲物を追いつめるかのように一歩近づき、意地悪な顔をぐいっと寄せた。

「ふふふふ、他に何がある? 手っ取り早くていいだろう?」
「お前……やっぱり悪魔だろ!」

 追いつめられ、苦し紛れに毒づくと、リュカは近すぎるほど近い大天使から顔を背けた。

「何を言う。それは神聖な行為ではないか。……ふっ、お前、案外、意気地がないのな」
「ちが……」
「じゃ、ウブなのか?」
「それも、違う! それは……彼女の方だ。だから、急ぐつもりはない」

 耳まで真っ赤に染めて、大天使におされて反り返りながらも、きっぱりと言った。

 大天使は、彼の真っすぐな眼をじっと見つめると、ふっと柔和な表情になった。
 そして、くるりと後ろを向くと、アレットのベッドに近づいていく。

「ふうん……この娘がそんなに大事なんだ。お前と一緒なら、ゆっくりでも、そのうち器は満たされるだろうがな。ま、しょうがない、他ならぬお前の頼みだ。それまでのつなぎを与えてやろう」

 大天使が手にしていた長い杖の先を、アレットの胸元に向けた。
 杖の先端がぼんやりと光り始め、徐々に輝きを増していく。
 しばらくして、その光がふっと消えると、ラファエルは杖を戻し、屈みこんでアレットの額に口づけた。

「ち、ちょっと、何するんだよ、ラファエル!」

 リュカが焦って、ラファエルの腕を引っぱった。

 自分と同じ年頃の青年に見えるラファエルが、彼女に口づけるのは、天使といえども許せなかった。

「へぇ。天使に嫉妬するわけ? お前、かなり重症だな。天使の口づけは、ありがたく受けるものだ」

 呆れ顔のラファエルはそう突っ込むと、今度はリュカをぐいっと引き寄せて、その額にも口づける。

「祝福だ」
「あ……。ミカエルもそんなことを……」
「あの人だって天使なんだから、全てお見通しなんだよ。それでなくても、お前はすぐに顔と態度に出る。分かりやすすぎるんだよ。でも……ま、良かったじゃないか。せいぜい、その娘と幸せになるんだな」

 ラファエルは、杖の先でリュカの頭をこつんと叩くと、天使らしい美しい微笑みを見せた。
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