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この者にはまだ生きる力が残っておるよ

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 それから二日経ち、熱がすっかり下がっても、青年の意識は戻らなかった。
 顔色は良くなったが、ずいぶんやつれたように見える。

 もう、だめかもしれない。

 そんな不安に押しつぶされそうになりながら、ロラは今日もまた、癒しの呪文を紡いでいた。
 ただの気休めにすぎないそれを唱えるぐらいしか、今はできることがなかった。

 次第に重くなってくる気持ちを晴らそうと、窓を大きく開け放す。
 カーテンを揺らして、春の爽やかな風が入ってくる。

「ほら、こんなにいい天気だよ。気持ちいいでしょ?」

 明るく話しかけてみても、返事はない。
 大きく溜め息をつくと、扉を叩く音がした。

 部屋に入ってきたのは、腕に大きな籠を下げた、ヴィオレットほどの子どもの背丈しかない、真っ白な髪の老婆。
 一族の長であるロラの曾祖母、ドロテだった。
 彼女の後ろには、お湯の入った桶を抱えたノエルもいた。

「さあて、傷の具合をみようかの。ロラも手伝っておくれ」

 ドロテが籠から薬や包帯を取り出して準備している間、兄妹はぐったりと眠ったままの青年の衣服を脱がせ、包帯を解いた。

「おお、大分、良くなっておる。この辺りは薬を塗るだけでよさそうじゃ」

 ドロテが傷の状態を確認しながら、丁寧に薬をすり込んでいく。
 全身に負っていた傷も、両手両足首の痣もかなり良くなってきた。

「ばあさま。この人、もう目覚めないのかな……」
「何とも言えんのぉ。じゃが、熱が下がったし、傷も癒えてきておる。この者にはまだ生きる力が残っておるよ」
 
 それでも、このまま目覚めなければ、身体がゆっくりと衰弱し、蝋燭の火が消えるように命が尽きるのだ。
 そんな例を、ロラはいくつも知っている。

「どうしようもないの? 何か方法はないの? いい呪文とか……」

 そんな方法があれば、とっくに試しているはずだ。
 それが分かっていながら、聞かずにはいられない。

「ここへおいで、ロラ」

 ドロテに静かな声で促され、ロラは長の前に跪いた。

「この者がまだ諦めておらぬのじゃから、お前は信じてついていておやり。祈っておやり。先のことは、神様以外、誰にも分からんのじゃから……」

 偉大な魔術師の言葉は、無駄に希望を抱かせるものでも、望みを捨てさせるものでもない。
 まだ十七歳の少女に、現実をあるがままに受け入れる覚悟を促すものだった。

 それでも何か救われた気がして、ロラは小さく頷いた。

 青年の治療と着替えが終わり、兄と曾祖母が部屋を出て行くと、ロラはベッドの枕元に腰掛けた。
 美しい銀色の前髪をさらりとどけて、右手を彼の額に置く。

 そう、この人はまだ諦めていない。だから……。

「神聖なる天の光よ。大いなる大地の脈動よ……」

 いつも以上に心を込めて、ゆっくりと三回繰り返して唱えた。
 呪文の最後の言葉を言い終え、なんだか名残惜しく思いながら手を離す。

「待っ……て」

 気付くと、彼の額から離れた右手が、大きな手で握られていた。

 まさか!

 慌てて身を乗り出して青年の顔を覗き込むと、彼の唇が震えている。

「お、願い……だ。行かないで」

 さっきは空耳だと思ったかすれた声が、今度ははっきりと聞こえた。

 手を握る彼の指先に、力がこもる。
 ずっと閉じられたままだった瞼が、ゆっくり開く。
 その奥にあったのは、澄んだ湖面を思わせる、透明な青。

「気が……ついた、の?」

 奇跡でも見るように、その瞳を呆然と見つめ返すと、彼は怪訝そうに何度か瞬きした。

「君……誰?」

 青年はようやくロラの手を離し、ゆっくりと上半身を起こした。

「あ、あたし……は、ロラよ。この、家の……む……」

 ずっと眠ったままだった彼が、目の前に座っているのが信じられなかった。
 これまで隠されていた澄んだ瞳が、自分に向けられていることが不思議だった。

 簡単な自己紹介が、口から出て来ない。
 言葉の代わりに涙が落ちる。
 こらえきれなくなって、床にへたり込み、両手で顔を覆った。

「よ……かったぁ。目が覚め……て」

 見知らぬ娘がしゃくりあげる様子に、青年が慌ててベッドを下りようとした。

「ち、ちょっと君、大丈夫? ……うわ!」

 ごつん。

 三日間も眠り続け、身体の感覚が狂っていた青年は、ベッドとロラの隙間に転がり落ち、どこかをぶつけたのか派手な音を立てた。

「だ、大丈夫っ? 怪我はない?」

 ロラが慌てて助け起こすと、彼は痛そうに顔をしかめ額を押さえながら隣に座った。

「った……たたた。ここ、ぶつけた」

 額を指差し、情けない顔をする彼に、ロラはぷっと吹き出した。
 彼は一瞬きょとんとなったが、すぐにつられるように笑い出した。

 こんな表情をする。
 こんな声で話す。
 こんな風に笑う。

 目覚めなければ決して知ることがなかった、彼の姿。

「もぉ、せっかく目が覚めたってのに、これ以上心配かけないでよね」

 ずっと看病していたせいか、保護者のような気分で彼の額に触れた。
 ぶつけた箇所が少し赤くなっているが、たいしたことはなさそうだ。

「君が……僕の心配? どうして?」

 吸い込まれそうに美しい瞳で顔を覗き込まれ、どきりとした。
 慌てて彼の額から手を離し、後ずさるようにして少し距離を取る。

「ど、どうしてって、あなた、三日も眠り続けていたのよ? 全身傷だらけだったし、たくさんの悪霊にも取り憑かれてたし……。ずっと心配していたんだから」
「……え? どういうこと?」

 自分が置かれている状況が把握できないのか、青年が、驚いたように目を見開いた。

「あ、そっか。気を失っていたから、そんなこと分からないわよね。じゃあ、名前は? どこに住んでるの?」

 ロラの質問に、青年はしばらく目を泳がせた後、眉間にしわを寄せた。
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