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大魔術師フリードリヒ・クラッセン

早く、そこから離れろ!

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 学院の正門を出てから二時間近く歩き続け、ティルアはようやく小さな町の商店街に到着した。
 いつもより早い時間だったため、開店しているお店はまばらで人気も少ない。

 前回はキャンディをたくさん買った。
 その前はクッキー。
 しばらくお菓子が続いていたので、今回は絵本を買おうと決めていた。

 商店街の中程にあるお目当ての書店は、ちょうど店主が看板を掲げたところだった。

「おじさん。おはようございます」
「ああ、ティルア、おはよう。久しぶりだね。今日はウチの番かい?」

 白い口ひげの店主は顔を綻ばせると、入り口の扉を大きく開け、店内に導き入れてくれた。

 古本も扱う小さな書店は、埃っぽさの中にインクの香りが混ざる静かな空間だ。
 本が傷まないよう、日光がほとんど入らない造りになっているから薄暗い。

 ティルアは迷うことなく、子ども向けの絵本が置かれた一角に向かった。

 本棚に立てられた絵本の背表紙を指でなぞりながら見ていくと、この国でよく知られた童話を見つけた。

「あ……。この本」

 孤児院時代、幼い頃は年長の子どもたちに読んでもらい、成長してからは自分が幼い子どもたちに読み聞かせてあげた本だ。
 懐かしさに棚から引き出し、その表紙に息を飲む。

「こんなに、きれいな表紙だったんだ……」

 主人公の少年も、悪い魔術師も、動物たちも、薄暗い中でもはっきりと分かるほど色鮮やかに描かれていた。

 孤児院にあった絵本は、あちこち破れ、表紙はすっかり色あせてぼんやりしていた。
 ティルアが孤児院を出てからかなり年数が経っているから、あの本は今ではもっと酷い状態になっているだろう。

「よし、決めた!」

 これ以上に価値のある絵本はないだろうと、ほくほく気分で本を閉じる。
 しかし、裏表紙に書かれている値段を確認してぎょっとした。

 どうしよう。
 この一冊で、ほとんどのお金を使い切ってしまう……。

 三冊ぐらい買うつもりでいたから、絵本の値段をじっと見つめたまま悩んでいると、店主が近づいてきた。

「その本なら、中古もあるがね?」

 しかし、そう言われて決心した。
 孤児院時代は服も絵本も玩具も、何もかもがお下がりの古ぼけたものだったから、新しいものに憧れていたのだ。

 中古ではダメだ。

「ううん。新しい本がいいの。だから、これにする」
「そうかい。じゃあ、これはおじさんからキーリッツのみんなに」

 そう言って店主は、同じ棚から薄い絵本を一冊取り出して、ティルアの持っている本の上に置いてくれた。

「いいの? 嬉しい! おじさん、ありがとう」

 ティルアは絵本をぎゅっと胸に抱いた。ポケットは軽くなってしまうが、絵本の重みが嬉しい。
 ふわりと感じる新品のインクの香りが、くすぐったい。

「あの……この本、届けてもらえますか?」
「ああ、もちろんさ。きれいに包んでリボンをかけてあげよう」
「あたしからだって、言わないでね」

 魔術学院に入ったばかりの頃は、お土産のお菓子や絵本を持って、孤児院に顔を出していた。
 しかし、最初の留年が決まって以降は、一度も孤児院の門をくぐることがなかった。

 奇跡のような成績で選抜試験に合格したティルアを、院長や面倒を見てくれたシスター、仲間たちは自分のことのように喜んでくれた。
 だから、これほど派手に落ちこぼれてしまったことが後ろめたいのだ。

「分かってるよ」

 店主は絵本を受け取ると、ティルアの肩をぽんぽんと叩いた。

 孤児院の近くにあるこの商店街の人々も、ティルアの落ちこぼれっぷりは噂で聞いているはずだ。
 けれども、何も言わずに孤児院への届け物を引き受けてくれることが、ありがたかった。

 書店を出てから、近くのパン屋で焼きたてのプレッツェルを一個買う。
 これでポケットのお金はほとんどなくなってしまった。

 朝食を食べずに長距離を歩いてきたので腹ぺこだったが、ぐっと我慢して、商店街の横道に入り、裏手に広がる住宅地を通り抜け、広葉樹の林に囲まれた湖に出る。
 そして湖をぐるりと囲む小道を少し歩き、樹齢数百年にもなるであろうオークの根元まで来ると立ち止まった。

 ここはティルアのお気に入りの場所。
 孤児院へのプレゼントを買いに来た時は、必ずここで休憩することにしていた。

 空を覆うように広がる枝を見上げると、柔らかな緑の若葉に透けた春の日差しが降ってくる。
 水面を渡って吹く、冷んやりとした風が心地よい。

 ティルアは、顔にかかる髪を大きくかきあげながら、湖の向こう岸に視線を向けた。

 木々の隙間から、茶色の屋根の古い建物が見える。
 ティルアが十年近く暮らした、キーリッツ孤児院だ。
 小道を歩けばすぐにたどり着ける、自分の家ともいえる懐かしいその場所が、今はひどく遠く感じる。

「あの絵本、みんな喜んでくれるかな」

 感傷に沈みそうになる心を、色鮮やかな絵本の表紙を思い出すことで立て直し、オークの根元に腰を下ろした。
 ごつごつとした幹に背中を預け、プレッツェルが入った紙袋を開くと、香ばしい香りに刺激されて、お腹がぐうと鳴った。

 早速中身を取り出し、たっぷりまぶされた塩を落としてかじりつく。
 ほんのり残った塩味が美味しくて、思わずほうとため息をついた、そのとき。

『ティルアっ!』

 聞き慣れた声に、視線を向ける。
 こんな場所にいるはずのない人物の姿にぎょっとして、口いっぱいに頬張ったプレッツェルが喉に詰まった。

「むぐっ……くっ。ユーリ? な、なんで?」
『早く、そこから離れろ!』

 胸をどんどんと叩きながらの質問に、彼は答えない。
 血相を変えて走ってくる。

 彼がここにいるということは、きっと、こっそり後をつけてきたのだ。
 これまでの自分の行動を見られていたのだと思うと、急に丸裸にされたかのように恥ずかしくなり、同時にひどく腹立たしくなった。

「まさか、わたしの後をつけてきたの? なんでそんなことするの!」
『聞こえないのか! 早くどけよっ!』
「なんて悪趣味なのよ! 人の秘密をこそこそ覗き見るなんて、最低!」

 頭にかっと血が上がり、次々と自分の口から飛び出してくる罵り声にも遮られて、彼が何を叫んでいるのか耳に入らなかった。
 ユーリウスの方も、ティルアの声が聞こえていないのか、焦った様子のまま、真っすぐに突っ込んでくる。

『どけって言ってるだろ!』
「やだっ! なんなの!」

 彼が触れられないことは分かっているのに、彼が伸ばした手を避けようと、ティルアはとっさに身をよじった。

『わっ! 馬鹿! そっちじゃない!』

 逃げるティルアに合わせて方向を変えた彼の手が、顔面に迫ってくる。

「きゃああああ!」

 しかし、彼の掌に塞がれた視界は次の瞬間には開け、その直後、必死な形相の彼の顔が大写しになった。

 ぶつかる——。

『うわぁああっ!』

 なんの衝撃も、痛みもない。
 ただ、彼が自分をすり抜けながら叫んだ悲鳴が直接頭の真ん中で響き、耳の奥がぐわんぐわんした。

 やがて、風が木の葉を揺する微かな音が聞こえてきて、恐る恐る目を開く。

 彼の一方の足が左胸から、もう一方が腹から突き出しているとんでもない光景に、また悲鳴を上げそうになり、慌てて立ち上がった。

「あーっ!」

 気付くと、手に持っていたはずのプレッツェルがない。
 慌てて辺りを見回すと、少し離れた地面に、土にまみれて転がっていた。

「そんなぁ……。まだ、一口しか食べていなかったのに……」

 口の中に残る香ばしい風味が、空腹感をいっそう増幅させる。
 もう食べられないのだと思えば、なおさらだ。

 ティルアは、大木に上半身を突っ込んだままじたばたしているユーリウスを、恨めしい思いで睨みつけた。

「ねえっ! ユーリのせいで、あたしのプレッツェルが台無しになっちゃったじゃない!」
『ごめんなさい。ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんです』

 全く彼らしくない、奇妙ほどに丁寧な謝罪の言葉に、耳を疑った。

「……は? どうしたの? 気味が悪いわね」
『うわっ……。すみません。今すぐ、助けます』

 どうやら、自分に対しての謝罪ではなさそうだ。
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