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沈む意識に差す光(3)

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 ここは……どこ?

 身体が、真っ黒な冷たい泥の中にゆっくりと沈み込んでいくようだ。
 冷えきった手足は重くて動かない。
 どこまで沈んでいっても、永遠に止まることのない気がした。
 こんな得体の知れない感覚はこれまで味わったことがなく、恐怖しか感じなかった。

 ジュール、助けて!
 ジュール!

 普段だったら絶対に口にするはずのない言葉を、何かに必死にすがろうとする無意識が叫んでいた。
 しかし、声など出るはずもない。
 耳も口も塞がれて、ずぶずぶと闇に深く沈んでいく。

 そのとき、がたんという大きな音と衝撃を感じて、ふうっと意識が浮かび上がった。

 あたし、眠っていた……の?

 けれども、瞼が重くて目が開けられない。
 身体はまだ、深い泥の中に沈んでいるようで、指一本動かすことができなかった。

「なんだ? 何があった」

 すぐ近くで知らない男の声が聞こえた。
 慌てたように動く気配がする。

 がちゃりと聞こえた音は……扉を開けた?

 レナエルは、霞がかかったような意識の中で考える。

 そうか、あたし、捕まっちゃったんだ。
 ギュスに馬車に押し込まれて、無理やり薬を飲まされて……。
 ああ、そうか、あれはジジが飲まされたものと同じ、眠り薬だったんだ。

「お前は出てくるな! 中で娘を見張ってろ!」

 別の男の怒鳴り声が遠くから聞こえてきて、急いで扉を閉める音がした。
 外がひどく騒がしい。
 男の叫び声や馬のいななきが聞こえてくる。
 剣を交える激しい音も響き始めた。

 何が起こっているの?
 もしかして、ジュールが……?

 気を抜くと泥の中に引きずり込まれそうな意識を必死につなぎ止め、レナエルは気力を振り絞ってかすかに目を開けた。

 自分が横たわっているのは、馬車の座席の上。
 足元側の窓には、貼り付くように外の様子を見ている小柄な男の背中がある。
 馬車の中にいるのは、どうやら、この男だけのようだ。

 なんとか、この男を倒さないと!

 幸い、男は外に気を取られている。
 しかし、今が絶好のチャンスなのに、眠ったままの身体は言うことをきかない。

「なんだ、あの化け物は! 俺はどうすりゃいいんだ」

 窓の外を見ている男が、徐々に焦りを見せ始めた。
 外から聞こえてくる騒動は、この男にとって不利な方向に進んでいるようだ。

「……いや、この娘を人質にすれば、逃げられる」

 窓の外を見ていた男は、ゆっくりと振り返ってにやりと笑うと、レナエルに手を伸ばしてきた。
 膝立ちになった男の腰に、短剣が差してあるのがちらりと見えた。

 嫌だ!
 もう、これ以上、お荷物にはなりたくない!

 男の手が、まさに肩に触れようとしたとき、レナエルは必死に身をよじって座席から転げ落ちた。
 驚いた男がとっさに身体を引いた瞬間、男の腰から短剣を抜き取り、歯を食いしばって、その手を勢い良く上に振り上げる。

 がつんという鈍い音がして、短剣の柄が男の顎にぶち当たった。

「ぎゃあああ!」

 男が悲鳴を上げてのけぞった。

 レナエルは必死に立ち上がると、両手で顎を押さえた無防備な男のみぞおちに、全体重をかけた右ひじをめり込ませた。
 同時に、男が後頭部を壁に打ち付けた派手な音が響く。
 男はぐっと詰まった声を上げると、馬車の扉に背中を預けてずるずると崩れ落ち、そのまま動かなくなった。

 やった……わ。

 力つきたレナエルは、乗りかかっていた男の身体からずり落ちて、床にうつぶせに倒れ込んだ。
 足先から真っ黒な泥の中に引きずり込まれるような感覚に、全身が凍り付いていく。
 身体はもう、ぴくりとも動かない。

 怖い。
 眠りたくない。助け……て。

 しかし、必死に抵抗を続ける意識も、闇に塗りつぶされつつあった。

「レナっ!」

 その声に、意識を覆う闇に、少しだけ光が射した気がした。

「レナ! 大丈夫か。しっかりしろ! レナ!」

 自分では動かすことができない身体が、力強い腕に抱えられて、仰向かされる。
 頬を軽く叩かれ、切羽詰まった低い声で何度も名を呼ばれた。

「ジュー……ル?」

 どうしても目を開けることができなかったが、なんとか掠れた声が絞り出せた。
 彼が、ほっと息をついたように感じた。

「大丈夫か? 怪我はないか?」

 本当にジュールなのかと思うほど、耳に心地よい、優しい声だ。

「……ん。く……すり。……眠く、て」
「薬のせいで眠いだけなのか? 身体は大丈夫なんだな?」
「……ん。見張り……の、男……は?」
「馬車から転がり落ちてきた奴のことか? もしかして、お前がやったのか?」
「う……ん」

 この答えで、彼の声は一変した。

「この……っ、馬鹿! 無茶なことはするなと、あれほど言っただろう!」
「だっ……て」

 このままでは、人質として利用されそうだったから。
 これ以上、ジュールのお荷物になりたくなかったから。

 そう弁明したかったが、もう気力が続かなかった。
 それに、そんなことを言ったら、さらに怒鳴られそうな気がして口をつぐむ。
 しかし、それは全く意味がなかったことを、直後に思い知らされた。
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