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背中合わせの共闘(6)

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 笑いをかみ殺す彼の顔が急に近くなったかと思うと、身体に感じる重力がおかしくなった。
 気づけば、ついさっきまでどうしても離れられなかった地面が、ずっと下に見える。
 そして、あの何かとむかつくジュールとは、身体が密着している。
 顔を上げると、彼の顎がすぐ近くに見えた。

「わーっ。何するのよ! やめて! 下ろして!」
「暴れるな。立てもしない者が、ぐだぐだ騒ぐんじゃない。おとなしく運ばれてろ!」

 あまりのことに上半身と声だけで抵抗すると、一喝された。

 おそらく体勢的には『お姫様だっこ』と呼ばれるものだ。
 しかし、そんな甘やかさは欠片もなく、大きな荷物を持ち上げただけのような、ぞんざいな扱いだった。

 落とさないように、しっかり抱えた。
 ただ、それだけ。
 なるほど、運ばれるという表現はぴったりだ。

 あたしは荷物、荷物……。

 身体を強ばらせて小さく唸りながら、自分にそう言い聞かせる。
 荷物だと思えば、恥ずかしさは減ったが、情けなさは半端なかった。
 思わず『お荷物』という言葉が頭をよぎり、ひどく落ち込んだ。

 彼はそんなレナエルを全く気に止めず、水しぶきを飛ばしながら、大股で薮の中を歩いていく。

「ああ、そうだ」

 彼はそう呟くと、いきなりレナエルの身体を起こして、片腕で縦に抱き直した。
 いや、肩に担ぎ上げたと言ったほうが良いかもしれない。
 まるで、穀物の袋を運んでいるような、本格的な荷物扱いだ。

「な……なな、なに?」

 驚いて固まっていると、すぐ耳元で、高く長く響き渡る指笛の音が聞こえた。

 彼は辺りを見回しながら、同じ高さと長さの指笛を三回吹いてから、咥えていた指を口から外した。
 おもむろに説明を始める。

「シモンを呼んだ。あいつは逃がしても、遠くへは行かない。指笛で呼べば戻って来る」
「え……?」

 レナエルは黒い馬の後を追うように駆けていった、明るい茶と白の駁毛の後ろ姿を思い出した。

「どうしよう……。ルカはそんなこと、できない。もう、戻ってこないかも」

 ルカはもともと騎士馬として育てられた馬だったが、レナエルの元に来て一年以上、そういった訓練はしていない。
 レナエルには、愛馬を呼び戻す方法がなかった。

「お前の馬はシモンについて逃げたから、一緒にいるだろう」
「でも……」

 あの子がいなくなったら、どうしよう……。

 あの優しい瞳や、艶やかな毛並みを思い出す。
 不安のあまり、ジュールの肩に顔を伏せ、首に回していた腕をぎゅっと締めた。
 そんなつもりは全くなかったが、結果的に、彼に抱きつく格好になった。

「大丈夫だ。きっと、戻ってくる」

 そんな声と同時に、背中に何かが、とん……と触れた。

 最初は気のせいだと思ったが、その優しい振動は、何度も繰り返し伝わってくる。
 まるで小さな子どもをあやすように、大きな手が背中を叩いていた。

 優しいんだか、意地悪なんだか、分からない人、だ。

 レナエルは腕を緩め、顔を上げると、身体をねじってジュールを見た。
 その動きに気づいた彼が、ゆっくりと首を向ける。

「……なんだ。どうした」
「なんでもない。でも…………ありがとう」

 ぶっきらぼうな言葉で振り向いた彼の目が、やっぱりひどく優しかったから、ついそんな言葉が口からこぼれた。

 彼は一瞬眉をひそめてから、その言葉を無視するように、ふいと前を向く。
 その反応が面白くて、レナエルは彼の肩に額を預けて、くすくすと笑った。
 彼の足が、急に早くなる。

 やっぱり、照れてる……。

 どうにも笑いが止まらなくなったレナエルを担いで、彼はほとんど駆け足状態で、林の中に入っていった。
 さっき、雨宿りをしていた、マントが二枚かかった大木の後ろに回り込むと、木の根の上に、レナエルをそっと下ろす。

 彼の顔を見上げると、かなり不機嫌な様子に見えたが、きっと、本当はそうではないだろう。
 なんとなく、そういうことが分かるようになったのが不思議だった。

 彼は不機嫌顔のまま、レナエルの荷物を運んできた。

「乾いた服に着替えろ。お前が動けるようになったら、すぐに出発する。予定ではもう一泊するつもりだったが、このまま今夜中に王都に入ろう。かなりきついだろうが、王城に入ってしまえば安全だからな。行けそうか?」
「大丈夫。行くわ」

 相変わらずの命令口調もあまり気にならず、笑顔で答えると、彼は一つ頷いて、大木の反対側に回っていった。
 荷物をあさる物音が聞こえてくるから、彼も着替えるのだろう。

 全身ずぶぬれで、シャツや下着が身体に貼り付いて気持ち悪い。
 脱いだシャツを絞って、髪や身体をざっと拭いていると、指笛が三度聞こえた。

 やがて、静かになってきた雨音の間に、馬の足音が聞こえた気がした。
 耳を澄ませると、また指笛が聞こえたが、今度は一回だけだった。
 直後、それに答えるような、馬のいななき。

 足音は……二頭分。

「ルカ?」

 ちょうど着替え終わったレナエルが、木の陰から飛び出した。

 霧のような雨の中、草についた水を蹴散らしながら、豪快に駆けてくる漆黒の馬の後ろに、明るい茶と白の馬がいた。
 二頭の馬は、林の手前まで来ると立ち止まった。

「ルカ! ルカ! 良かったぁ。ちゃんと戻ってきたのね!」

 嬉しさのあまり、愛馬に駆け寄ろうとすると、腕をきつく掴まれた。
 強引に引き戻されて、ジュールの身体に勢いよくぶつかる。

「何するのよっ!」
「ばか! せっかく着替えたのに、また濡れる気か!」

 真上から大声で叱られて、レナエルは不満げに彼を睨み上げた。
 彼は呆れたように溜め息をついたあと、自分が雨の中に走り出た。

「ほら。嬉しいからって、抱きついたりするなよ」

 濡れそぼったルカの手綱を引いて戻ってきた彼は、手綱を握った手を差し出した。
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