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「良い店があるんだ、そこで良いか。安い店なんだが落ち着くしメシが旨いんでな」

「はい是非。この飲屋街に通い続けた部長が選ぶ店ですから、どんな店か楽しみです」

「おいおい、プレッシャーじゃないか。高級な店に変えたくなるよ。はっははは」

「女の子もいるような店ですか」

「バカ言え、なんでワシがお前を接待せにゃならんのだ。おっここだ」

 羽津宮はその店を見てハッとした。

 以前、山根前部長に宮下と連れて来てもらった店であった。とっさにその事は青梅部長には言わない方が良いのではと思い口を閉じた。

 通されたのは奥の座敷きで店のオーナーのおやじさんも部長に親しく話してくる。部長がここの常連なのはすぐにわかった。

「ウメちゃん、なんだよ今日は部下なんか連れちゃって。部長になって羽振りが良くなっちまって。たくさん飲んでってよ」

「よう大将。ばか、オレの羽振りは良くねえよ。うちのカアちゃんはちょっとは羽振り良くなった見たいだけどな。はっっは」

「ちげぇねえ。うちもオッカアが恐くてたまったもんじゃねえよ」

 後ろのカウンターからかん高く威勢の良い声が響いた。

「あんたつまんない事ウメちゃんに言ってんじゃないの。ウメちゃん今日は部下さんも一緒でうちなんかで良かったの。良い店連れてってやんなよ」

「なに言ってんのママ。ここ以上の店はないよ。旨いからな。オレはいつものと・・・羽津宮は・・生中。あと焼き鳥適当にちょうだい・・・あとおでんも」

「あいよ」

 若い店員が注文と同時と思えるような早さで飲み物を運んでくる。オフィス街に近いが競争も激しく入れ代わりの早いこの飲屋街で、何十年も続いているであろうこの店はどこか昭和の雰囲気が漂っていて、活気がありとても繁昌していた。

 オーナーの夫婦の人柄がうつるのか働いている若いスタッフも皆人間味のある気持ちの良い接客をする。

「よし、じゃあ乾杯するか」

「はい、お疲れ様でした」

「おうお疲れ」カコーン。

 料理も手早く運ばれ、それを口にしながらしばらく他愛もない話で和む、空きかけたグラスを見ると飲み物がきれないようにと早めにスタッフが声をかけてくれる。そのおかげで二人とも気持ちよく酒が進んだ。少し酔い始めた頃、青梅はしみじみと人生を振り返った、そしてゆっくりと真剣な話に切り替わって行く。

「ワシも30年になるんだな・・・長かったよ」

 羽津宮は「来た」と思った、ここからが本番だと言っていい。神経が研ぎすまされるのを感じた。

【愚痴は上司から言わせろ】【上司は酒の場で慕え】

「部長にまでなられて、羨ましいです」

「バカ言え、30年だぞ、それまでずっと補佐だ。落ちこぼれだよ」

「そんな事無いですよ。ずっと平で終わる人間だって世の中にはたくさんいます」

「確かにな・・そう思うと山根にも感謝せんといかんのかな」

 羽津宮は青梅の愚痴を引き出すように質問をする。

「山根前部長とは同期入社なんですよね」

「ああ・・・入った当時は仲も良かったんだがな。この店にもよく2人で来たもんだ」

「そうなんですか。ちょっと意外です。最近のお二人を見ていると失礼ですが・・」

「はっはっは、かまわん。そうだろうな。仲が悪いと言うか、オレが一方的に嫌っているだけかもしれん。あいつにとっては昔の話かもな」

「なにか・・・・あったんですか」

「人には言うなよ。未だに根に持ってるなんてかっこわるいからな」

「はい。絶対に」

 青梅は飲んでいた焼酎を飲み干すと、カウンターのママさんにグラスを見せもう一杯と合図を送った。

「オレはこれでも入社した当時は仕事が出来たんだ」

 ママが同じ焼酎を持ってきた。酒が青梅の語りたい気持ちに火を着けて行く。

「編集部にいてな。寝る間も惜しんで働いた。どんな仕事も完璧にやる自信も有ったよ」

 羽津宮は真剣な顔で相づちをうつ。

「山根の奴とは仕事への考え方は全く違ったが、出世しようって所で馬が合ってな」

「良きライバルだったんですね」

「あぁ。あいつは上司に気に入られる事に力を注いだ、そしてその通り気に入られていたよ。オレはゴマするのが嫌でな、仕事で成果を出してねじ伏せようと必死だった」

 さり気なく同調を始める。

「わかります、自分も仕事で認められたくて必死でしたし」

「そうだな、だがなオレ達の正しいと思うその道は間違いなのかもしれんぞ」

 青梅部長が「オレ達」と言ったのを聞き逃さず、歯車が合い始めたような感覚を感じた。

「それは・・・どう言う意味ですか」

「十数年前だ。あの時から会社にとって何が必要とされてるのか解らなくなっちまった」

 その言葉にこれまで内心冷静で無機質だった羽津宮の心に感情と言う暖かさが戻る。

 不意に放たれた青梅の素直な気持ちに羽津宮は胸が痛くなった。その痛みはまだ新しく、かさぶたになりかけた傷をもう一度擦りとられるような感覚に似ている。

 それは今年の花見で羽津宮が涙した訳と同じだったからだ。目頭に涙がたまるのがわかった。

「自分もそう感じた事があります、いったい何が正しいんでしょうか」

「オレにも解らん。ただ山根が出世した。それが答えなのかもしれん」

「何があったんです」

「当時な、オレと山根は編集部で一人の編集長に付いていたんだ。その頃グローバル出版は小説などの文芸に力を入れていてな。特に過去の名作に力を入れていて他社から版権を買ってでも集めようとしていたんだ。しかしな時代はバブルまっただ中、世の中の目は過去に向いては居なかった。他の出版者はいち早くその事に対応して最新の家電や、最新のファッション、憧れの生活スタイルなど取り上げる月刊誌や週刊誌に力を注いでいた。気がついた時にはすっかり出遅れてグローバル出版は倒産かと言われる程に業績が落ち込んでたよ」

「そんな時期があったんですね。今や業界トップと言われるまでになっているのに」

「ああ。グローバル出版は遅れを取り戻そうと必死になったが出遅れた事が響いてな、最新の物を取り上げても雑誌は売れなかった」

「そうでしょうね、イメージ的に・・・」

「そんな時にオレはある企画を立てたんだ。その古い物にこだわっているグローバル出版のイメージを利用した企画だった。それを編集長に渡すとそれが上層部にもうけて企画が通った、そして伝統ある『物』に目を向けた月刊誌が創刊されたんだ。高級感と伝統のあるグッズを紹介したその雑誌は、バブルで一気に羽振りの良くなった男達に爆発的にうけてな。ダンディズムってやつだ。そして海外の有名ブランドの時計、万年筆、車、香水、バッグ、スーツに混じって、グローバル出版が版権を持つ名作と言われる小説も紹介した、そう言う物を持つ事がかっこいい男の条件であり、ステータスとして。そしてそんな小説を高級感のあるカバーに変えてシリーズで発売したんだ。それも良く売れたよ。グローバル出版は息を吹き返した」

「そんな事があったんですね・・・そんなに貢献してなぜ青梅部長は何が正しいか解らなくなったんですか」

「おれも有頂天だった。オレの企画で会社が立て直しに成功したんだ。役員も目じゃ無いと思ってたよ。だが違った。編集長は自分の企画として提出してたんだ。そしてその企画を手伝ったのがお気に入りだった山根だと報告していた。そしてその編集長は役員になり、山根はその事が認められて今では役員直通の会社でも特別な存在になってやがる。その功績の中にオレの名前は無かった。オレのやる気は粉々にくだけ散ったよ。そこから十数年ずっと補佐止まりって訳だ」

「酷い話ですね。なぜそんな事に。部長は自分の企画だと言わなかったんですか」

「あぁ、言えなかった。若いプライドが邪魔したのか、こんな企画何度でも書けると思い上がっていたのか、いや・・いつか自分は認められると信じていたのかもしれない。だがそんな事は起こらなかった。いや、頑張り続ければそうなったのかもしれないが、それより自分のやる気の無くなるのが早かったんだ」

「でも、そんな事が在って、やる気が無くなるなんて当然ですよ」

 羽津宮は心からそう言った。気持ちが青梅部長の気持ちと重なる。その事で部長と自分を摺り合わせる作業は自然な形で達成されて行く。

「羽津宮、お前は強いな」

「そんなことありません」

「オレはそこで完全に出世は諦めたよ。はっは、まぁ今になって同期のおこぼれで部長にはなれたがな」

「そんなことありませんよ、会社が正当な評価をしていないだけです」

「おりがとよ」

「いえ・・・すみません生意気言って」

「オレはお前が入社して来て自分自身の若い頃と重なってな、つい見てたんだが。あのネコの事件在ったろ。あの時、その事件の時の自分を見ているようだったよ。お前もやる気を無くすと思って心配してたんだが。お前はそれからも責任感を持って頑張ってる」

「いえ、正直・・・あの時・・いえ山根前部長が宮下を編集部に連れて行った時です。何が会社にとって必要なのか解らなくなりました」

「そうだろうな。それから少しお前の仕事に対する姿勢がかわったように感じるんが・・・どう言う気持ちの変化だ。悪い意味じゃ無いぞ、責任感もって頑張ってるのは確かだが・・・後輩の責任までバカ正直に背負って痛々しいくらいだ」

 羽津宮はその質問への答えに迷った。ここまで羽津宮は法則通り常に先手をうって来た、つまり質問する側だったのだ。不意に投げかけられた質問にリラックスしかけた思考に緊張が戻った。激しく色々な答えを浮かべては比べ、ベストな答えを探す。

「会社にとって何が正しいか解らなくなったので、自分の正しいと思う事に正直になってみようと思ったのかも知れません・・・いえ・・半分はヤケになっていた所も在ります」

「なる程・・・気持ちは痛いくらい解るよ。会社ってのはなんてバカなんだろうな」 

 羽津宮は小さくうなずいた。

「もうお前は出世は諦めたのか」

 この質問への答えは重要だった。他の上司相手ならその答えは簡単だっただろう「興味は在りません」と牙を折って見せれば良いだけだ。しかしここまでの経緯を聞いた青梅部長相手にはそんな簡単な答えでは足りないのかもしれない。

あまり会話に間を空けてもいけないので話し始めたが、考えながらで辿々しくなる。

「何と言って良いのかわかりませんが・・・出世をと聞かれると諦めもあります・・・『もうダメだろうな』って・・・そう思っているのですが。・・・・でも心の奥でまだグローバル出版に入社した時の『夢』が燻ってるような・・・まだたまに思うんです。編集部に行って、まだ埋もれている素晴らしい小説を世に送りだしたいって、そんな作品は沢山在るって」

「そっか。お前を支えているのは夢か。良い言葉だな。オレもあの時、夢を思い出していればもう少し頑張れたのかもな。絶対その夢は手放すなよ。オレが後押ししてやるから」

「えっ」

「オレはやはり、仕事が評価されて出世して行く会社でなくてはいけないと思う。当時思ったよ。『オレの上司が仕事を評価できる人間だったらオレは認められたはずだ』って。オレはそんな人間が上に立つべきだと思う」

「はい。そうあって欲しいです」

「お前がそうなれ」

「そうなれと言われても、僕がそんな立場に行けるはずが無いですよ。そりゃあそんな立場になったら絶対仕事で評価をし、こんな理不尽な悔しさを部下には味あわす事はしないですけど」

「そう思うなら諦めるな。お前が上に立って上司の前で要領の良いだけの人間じゃなくて。本当に仕事を頑張り成果を揚げる人間を認めてやれ」

「いや、でもそんな。僕はそんな・・・程遠いですよ」

「オレもだてに30年会社にいる訳じゃ無い。話の出来る人間くらいいる。切っ掛けくらい作ってやれるさ」

「そんな・・・」

「オレをあの時の編集長のような人間にする気か。オレは出来る人間を評価する。お前ならオレに出来なかった事ができる。そう評価してるんだ。オレに器の大きな所を示させてくれよ」

「いえ、部長は器の大きな方ですよ、でなければそんな出来事に我慢なんか出来ませんよ」

「バカ言え。兎に角、推薦出しておくからな。頼むぞ」

「ありがとうございます、少しお酔いになられたんですよ。でも今日誘って頂けて良かったです。見てくれている人がいるだけで頑張れます。もし今日部長とお話していなければそのうちダメになっていたと思います。本当にありがとうございました」

「はっはっは何を言うか。今日は旨い酒だな。20年ぶりに最高の酒だ」

そこへ店の大将が梅酒を3つ持ってやってきた。

「ウメちゃんがこんなに楽しそうに呑んでんのはいつ以来だ。こいつはおごりだ。オレも一杯付き合わせてくれよ」

そう言って梅酒を置いて、横に座った。

「そうか、オレはそんなにいつもつまらんそうに飲んでるか」

「ああ、よう。部下のニイちゃんあんた名前は・・・そうかいハツクくんって言うのか。いやー助かるよオレは15年はウメちゃんの愚痴の聞き役だったからな。あんたにバトンタッチだ」

「おいおいそりゃねえだろ大将」

「でもこれからは愚痴もねえのかな。なによりだ、はっはっは」

 そんな風に最後は大将も混ざっての楽しい酒となった。お店が終わる頃、大将は酔いつぶれた部長を呼んでいたタクシーに乗せ、電話をかけた。

「大将、僕が送って行きますよ」

「あぁ、平気平気いつもの事だから。奥さんにも電話しといたから大丈夫だよ」

「そうですか」

「あんた、ウメちゃんに相当気に入られてる見たいだな。ウメちゃんは責任感も情も人一倍深い。頼りにして期待に答えてやんなよ」

「はい。ありがとうございます」

 部長を乗せたタクシーを見送って長い一日が終わった。

 上手くやれた気もするが。実際の所はどうなのかまだわからない。

 結構飲んだはずだったが、酔いは深くは無かった。部長の表情や言葉へ神経を集中し、些細な変化から気持ちを読み、適切な答えを法則にそって導き出す。そのミスの許されない緊張感が、アルコールを押さえ込んでいたようだ。

 モモさんへ報告に行きたかったが、疲れきってそんな余裕はなく、自宅まで自転車をこぐのがやっとだった。

自宅に着くと風呂に入り寝仕度をしてベットに入った羽津宮は、今日の会話を思い出せるだけ思い返し、忘れないように記憶に残した。
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