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卒業パーティから、一ヶ月が経過した。
成人王族として、俺は少しずつ責任ある仕事を始めている。
主に、騎士団の所属する軍務と王宮の事務方との折衝役だ。
戦のない世の中、軍務縮小を叫び予算削減を提言する事務方と、騎士団の任務は戦にだけあるわけではないと主張する軍務の仲は悪い。
元は兄上が行っていた業務なのだが、兄上はいずれ、父の仕事を継承する事になるため、成人王族になった俺が引き継ぐ事になった。
時折、息抜きがてら、騎士団の訓練に混ざる事もある。しかし、アカデミーで机を並べていた令息達が、一層改まった態度で俺に接するのには、まだ慣れない。
アカデミーに通う年齢の子女のいる家門を中心に、シャルイナ社交界には広く、俺とリタの婚約についての情報が行き渡った。
アカデミー生には、予想よりも好意的に俺達の婚約は受け止められている。
ラルフの調べたところによると、どうやら、どんな令嬢にも同じく一歩引いた対応だった俺が、リタには素の笑顔を見せていた事が理由らしい。
俺にとって、リタは特別な令嬢なのだ、と彼らは受け止めたのだ。
しかし、あの場にいなかった当主世代はそんな事を知る由もないので、それぞれの家門の立場で好き勝手色々と言っている。
普段は俺を放置して、俺の身分だけを便利に使いたがる母と祖父も同じ事だ。
「一体、どういう事なの!」
アラーナ様薨去後も、妃としての役割を与えられる事なく、離宮で贅を尽くした生活をただ送っている母が乗り込んで来たのは、卒業パーティから一週間後。
俺の年齢すら曖昧であろう母が、卒業パーティについて把握していたとは思えないから、誰かしら、貴族派の者が注進したのだろう。
「なんのお話でしょう?」
空とぼけて返事をすると、母の細い眉がキッと吊り上がる。
もういい年なのに、母はいつまでも娘時代の化粧を忘れられない。
服装もまた、化粧に釣り合うような若好みのものだ。
却ってみっともないと思うのだが、妃として公式の場に立つ事なく、閉じられた交友関係しか持たない彼女が、自分の変化に気づく機会はなかなかない。
「お前の力となる娘と婚約したと言っていたではないの!」
「フレマイア侯爵家は有力な家門ですよ?」
リタと婚約を結ぶにあたって、許可を得たのは父だけではあるものの、リーストーム公爵家が勝手に婚約者を当てがおうとするのを防ぐために、『自ら選んだ将来の足固めに役立つ娘と婚約を結んだ』旨は報告してあった。
父の勧めではない事を強調し、勘違いするよう誘導したのは確かだが、将来の足固め=立太子、と理解していたのは、彼らの勝手だ。
「フレマイア侯爵家が、お父様と対立している事はわかっているでしょう⁉ そのうえ、白の娘ですって⁉ なんて恥ずかしいの……!」
(恥ずかしい……?)
母を出迎えてから、うっすらと浮かべ続けていた笑みが、ぴくり、と痙攣する。
(恥ずかしいのは、お前だろう……!)
昔の事は知らないが、母が公の場に姿を見せなくなってから二十年以上。
母の立ち居振る舞いも言動も、到底、王族女性として及第点とはいえない。
奢侈に慣れ、怠惰な生活でぶくぶくと肥えた姿で品性のなさを露呈している人に、リタを貶める資格はない。
「そんな娘との婚約、わたくしは認めません! とっとと破棄なさい!」
「貴女に認めていただく必要はありませんよ。父上がお認めになった婚約なのですから」
激昂している母を宥めるだけなら、『将来的に破棄する予定ですから』とでも言えばいいのはわかっている。
破棄する時期について、明言を避ければいいだけの事だ。
だが。
「あぁ、もういいわ! 本当に役立たずな子ね! お父様に言って、適当な娘を見繕ってあげます!」
「不要です。私の婚約者は彼女ですから」
「白の娘が、王妃になれるわけがないでしょう‼ 高貴なる者が果たすべき役割を、お前はわかっていないのよ! お父様にしっかり指導していただかなくては!」
公爵令嬢として生まれ、高い火属性の魔力を持ちながらも国の役に一度も立った事のない貴女も、妃としての重責を欠片も負っていないじゃありませんか。
「不要、と申し上げました。コーデリア妃殿下」
慇懃無礼に感情を籠めず告げると、母は、ぴたりと動きを止めた。
「……今、なんと呼んだの」
「コーデリア妃殿下、とお呼びしました」
「わたくしは、お前の母親よ⁉」
「お気づきではありませんでしたか? 私が貴女を母と呼んだ事は、生涯、一度もございません」
父であるリーストーム公爵に言われるがまま、四十を過ぎてもなお、父親の庇護下にある娘として振る舞う母を、血縁上の母と認識してはいても、それ以上の存在としては受け止めていない。
これまで、あえて波立てる必要はないと言及してこなかったけれど……俺は今、非常に腹を立てていた。
ふつふつと、腹の奥で煮えたぎるものを感じる。
「彼女は、父上が、国王陛下が認めた私の婚約者です。コーデリア妃殿下にも、リーストーム公爵にも、彼女を引きずり下ろす権利はございませんよ」
「お前は……っ!」
わなわなと震えながらも二の句が継げない母を見て、背後で身の置きどころがないように縮こまっている母の従者に指示する。
「妃殿下を離宮までお連れしろ」
「……は、はい!」
それ以来、三週間。
度々、リーストーム公爵家から使いが来るが、会う事もなく追い返している。
俺はもう、保護者を必要とする年齢ではないのだ。
一番、派手に抗議して来たのは母とリーストーム公爵家で、あとは様子見に徹しているというところだろうか。
リタを公の場に出した事で、それまで拮抗していた第一王子派と貴族派の均衡が、じょじょに崩れてきている。
中立派の中にも、兄上やレキサンド伯爵家への接触を試みる家門がいくつか出て来ているそうだ。
また、アカデミー生の間では、リタがアカデミーに入学しなかったのは、目立つ容姿の彼女が傍にいる事で、俺に必要以上の注目が集まる事を避けるためだった、との推測が、あたかも事実かのように流れていると聞いた。
権力から距離を置きたい俺の望みを叶えるために、王子の婚約者でありながら出しゃばらず控えめに振る舞う姿が、慎ましやかでまさしく内助の功だ、と評判なのだとか。
少々、心配になるくらい、物事がうまく運んでいた。
おそらく、俺の意図を理解したロブやオーブリー達が、ひそかに動いてくれたのだろう。
こんな時は、幼い頃からの遊び相手に素直に感謝したくなる。
このまま、何事もなければ、近いうちに兄上の立太子が公表できる筈……
「リタに、礼をせねばな」
リタが、俺の婚約者を狙っていた多くの令嬢達のように、魔力の多寡という争いの舞台に立つ事はない。
しかし、彼女は、魔力以外のすべてにおいて非の打ちどころがないと見せる事で、俺が何を望んで彼女を婚約者に選んだのか、鮮烈な印象を残してくれた。
だからこそ、俺の思惑通り、兄上を立太子する道筋で事が運んでいるのだ。
六年も放置していた俺に不平の一つも言わず、王族の婚約者として相応しくあるべく、努力を続けて来てくれたリタ。
決して、恵まれた環境とはいえない生家で、折れる事なく、素晴らしい淑女に成長してくれたリタ。
彼女に、俺は一体、何を返せるのだろうか。
なんでもする、とは言えない。
そんな口先だけの言葉を、リタが喜ぶとも思えない。
けれど、俺のできる全力でもって、彼女の希望を叶えたい、と思っている。
彼女の笑顔を思い浮かべるだけで、俺の頬も緩んだ。
いつもの完璧だけれど温度のない笑顔ではなく、ダンスの時に見せてくれた素の笑顔。
――あの笑顔が、もう一度見たい。
それなのに。
「せめて、優しく殺してください」
慣れない仕事に多忙で、ようやくひねり出した時間。
一ヶ月振りに会う彼女は、そう言うと綺麗に微笑んだ。
淑女の中でも、生まれながらの王族しか身に着けていないような完璧な微笑みに目を奪われ、一瞬、何を言われたのか理解ができない。
思わず、じっと彼女の顔を見返すと、小首を傾げるようにして臆する事なく見つめ返して来た。
透き通る灰銀の瞳は美しいのに、一片たりとも光が入っていない事に気がついて、背筋がぞっと凍りつく。
絶望。
諦念。
その奥に隠された、わずかばかりの希望。
けれど、その希望は。
(本気だ……)
残されているのは、生への渇望ではなくて、「優しい死」への希望……
「な、ぜ」
声が、掠れた。
なぜ。
どうして。
どうして、彼女は「殺してくれ」だなんて言うんだ。
「なぜ……ですか?」
不思議そうに、リタが問い返す。
考える時のいつもの癖。
華奢な人差し指を唇に当てて、ゆっくりと口にする。
「痛いのも苦しいのも、好きではありません」
そうじゃない。
なぜ、「優しく」殺して欲しいのかを問うたんじゃない。
なぜ、「殺してください」と言ったのかを聞いたんだ。
「卒業パーティに参加してくれて感謝する。お陰で、想定以上に順調に事が進んでいる。謝礼をしたいのだが、何がいいだろうか?」
と尋ねた答えが殺し方の希望だなんて、予想がつく筈、ないだろう?
「クリフォード殿下の立太子が、現実味を帯び始めたという事ですね?」
「あぁ。卒業パーティでの私達を見て、私に王位を狙う気がない事が理解され、情勢が兄上に傾いている」
「クリフォード殿下が立太子なさったら、わたくし達の婚約は破棄されますでしょう?」
「……これまでの予定では、そうだな」
淡々と、「婚約破棄」と語るリタに、ちくりと胸が痛む。
「その後、わたくしは北部の修道院に送られる事になるかと存じます」
「…………何?」
シャルイナの最北の地に建立された北部の修道院は、不義、不貞など、淑女として相応しくない振る舞いをした貴族女性が送り込まれる場所だ。
修道院の中でもっとも厳格で、生活環境も厳しく、彼女達の多くが適応できないまま、三年と持たずに亡くなると聞く。
当然のように、一度送り込まれれば、二度と社交界に戻る事はできない。
「なぜだ、王族との婚約が履行されなくとも、君に問題があったわけではない。双方の同意の下、白紙に戻ったのだと周知する」
「問題の有無は、それこそ問題ではないのです。『婚約を破棄された』というその一点が問題なのですから」
……婚約を破棄しても、問題はないと……フレマイア侯爵はそう言っていたではないか。
だが。
そうだ。
たとえ、双方の同意の下、と説明しようとも、婚約を破棄される令嬢になんらかの瑕疵があると決めつけられるのは事実。
ましてや、相手が王族では一層の事だろう。
「残念ですが、北部への道のりは決して、安全なものではございません。国境を越えて、野盗が現れるとの話もございます。貴族の馬車であっても、修道院に送られるような馬車ですもの。護衛はつくかどうか。襲った馬車に居合わせた若い娘がどう扱われるかなど、火を見るよりも明らかです」
息が切れるほど、足が縺れるほどに走っても、逃げる事など不可能なのです。
泣き叫んで許しを請う姿すらも、彼らにとっては娯楽に過ぎないのでしょう。
追い詰められて崖下に転落、というのが最も可能性の高い末路でしょうか。
「破棄までの期間を先延ばしするのも悪手ですわ。ルシアン様が真に妃にと望まれる方が現れた時に、わたくしが婚約を破棄しない、と言い張ったらどうなさるのです? わたくしが嫉妬から、お相手のご令嬢を傷つけないとも限らないのですよ?」
ルシアン様は、わたくしをお許しにならないでしょうね。
よくて幽閉、悪意の程度によっては、斬首でしょうか。
斬首の瞬間は、一瞬のようでいて、意外に長いのですよ。
淡々と続けるリタに、思考が止まって何も考えられなくなる。
「わたくしを憐れにお思いになって、形ばかりの妃にしてくださるかもしれませんね。ですが、わたくしは白。許されるのはお飾りのお役目だけ。そうなれば、ルシアン様は側妃を娶られます。飾りの白の正妃と、ルシアン様に寵愛される側妃と。周囲がどちらを望むかは、考えるまでもございません」
王族の穏便な死は、病死と見せ掛けた毒殺ですものね。
あの毒は即死ではありますが、その際に喉から内腑まで焼き切れるような凄絶な痛みが走るのです。
それこそ、死んだ方がまし、と思うような。
「わたくし、老衰による死は諦めております。白の娘としての役割を終えるならば、苦痛とともに迎える死ではなく、穏やかな死を賜りたいのです」
そう言って、リタは微笑む。
「ですから、せめて、優しく殺してください」
成人王族として、俺は少しずつ責任ある仕事を始めている。
主に、騎士団の所属する軍務と王宮の事務方との折衝役だ。
戦のない世の中、軍務縮小を叫び予算削減を提言する事務方と、騎士団の任務は戦にだけあるわけではないと主張する軍務の仲は悪い。
元は兄上が行っていた業務なのだが、兄上はいずれ、父の仕事を継承する事になるため、成人王族になった俺が引き継ぐ事になった。
時折、息抜きがてら、騎士団の訓練に混ざる事もある。しかし、アカデミーで机を並べていた令息達が、一層改まった態度で俺に接するのには、まだ慣れない。
アカデミーに通う年齢の子女のいる家門を中心に、シャルイナ社交界には広く、俺とリタの婚約についての情報が行き渡った。
アカデミー生には、予想よりも好意的に俺達の婚約は受け止められている。
ラルフの調べたところによると、どうやら、どんな令嬢にも同じく一歩引いた対応だった俺が、リタには素の笑顔を見せていた事が理由らしい。
俺にとって、リタは特別な令嬢なのだ、と彼らは受け止めたのだ。
しかし、あの場にいなかった当主世代はそんな事を知る由もないので、それぞれの家門の立場で好き勝手色々と言っている。
普段は俺を放置して、俺の身分だけを便利に使いたがる母と祖父も同じ事だ。
「一体、どういう事なの!」
アラーナ様薨去後も、妃としての役割を与えられる事なく、離宮で贅を尽くした生活をただ送っている母が乗り込んで来たのは、卒業パーティから一週間後。
俺の年齢すら曖昧であろう母が、卒業パーティについて把握していたとは思えないから、誰かしら、貴族派の者が注進したのだろう。
「なんのお話でしょう?」
空とぼけて返事をすると、母の細い眉がキッと吊り上がる。
もういい年なのに、母はいつまでも娘時代の化粧を忘れられない。
服装もまた、化粧に釣り合うような若好みのものだ。
却ってみっともないと思うのだが、妃として公式の場に立つ事なく、閉じられた交友関係しか持たない彼女が、自分の変化に気づく機会はなかなかない。
「お前の力となる娘と婚約したと言っていたではないの!」
「フレマイア侯爵家は有力な家門ですよ?」
リタと婚約を結ぶにあたって、許可を得たのは父だけではあるものの、リーストーム公爵家が勝手に婚約者を当てがおうとするのを防ぐために、『自ら選んだ将来の足固めに役立つ娘と婚約を結んだ』旨は報告してあった。
父の勧めではない事を強調し、勘違いするよう誘導したのは確かだが、将来の足固め=立太子、と理解していたのは、彼らの勝手だ。
「フレマイア侯爵家が、お父様と対立している事はわかっているでしょう⁉ そのうえ、白の娘ですって⁉ なんて恥ずかしいの……!」
(恥ずかしい……?)
母を出迎えてから、うっすらと浮かべ続けていた笑みが、ぴくり、と痙攣する。
(恥ずかしいのは、お前だろう……!)
昔の事は知らないが、母が公の場に姿を見せなくなってから二十年以上。
母の立ち居振る舞いも言動も、到底、王族女性として及第点とはいえない。
奢侈に慣れ、怠惰な生活でぶくぶくと肥えた姿で品性のなさを露呈している人に、リタを貶める資格はない。
「そんな娘との婚約、わたくしは認めません! とっとと破棄なさい!」
「貴女に認めていただく必要はありませんよ。父上がお認めになった婚約なのですから」
激昂している母を宥めるだけなら、『将来的に破棄する予定ですから』とでも言えばいいのはわかっている。
破棄する時期について、明言を避ければいいだけの事だ。
だが。
「あぁ、もういいわ! 本当に役立たずな子ね! お父様に言って、適当な娘を見繕ってあげます!」
「不要です。私の婚約者は彼女ですから」
「白の娘が、王妃になれるわけがないでしょう‼ 高貴なる者が果たすべき役割を、お前はわかっていないのよ! お父様にしっかり指導していただかなくては!」
公爵令嬢として生まれ、高い火属性の魔力を持ちながらも国の役に一度も立った事のない貴女も、妃としての重責を欠片も負っていないじゃありませんか。
「不要、と申し上げました。コーデリア妃殿下」
慇懃無礼に感情を籠めず告げると、母は、ぴたりと動きを止めた。
「……今、なんと呼んだの」
「コーデリア妃殿下、とお呼びしました」
「わたくしは、お前の母親よ⁉」
「お気づきではありませんでしたか? 私が貴女を母と呼んだ事は、生涯、一度もございません」
父であるリーストーム公爵に言われるがまま、四十を過ぎてもなお、父親の庇護下にある娘として振る舞う母を、血縁上の母と認識してはいても、それ以上の存在としては受け止めていない。
これまで、あえて波立てる必要はないと言及してこなかったけれど……俺は今、非常に腹を立てていた。
ふつふつと、腹の奥で煮えたぎるものを感じる。
「彼女は、父上が、国王陛下が認めた私の婚約者です。コーデリア妃殿下にも、リーストーム公爵にも、彼女を引きずり下ろす権利はございませんよ」
「お前は……っ!」
わなわなと震えながらも二の句が継げない母を見て、背後で身の置きどころがないように縮こまっている母の従者に指示する。
「妃殿下を離宮までお連れしろ」
「……は、はい!」
それ以来、三週間。
度々、リーストーム公爵家から使いが来るが、会う事もなく追い返している。
俺はもう、保護者を必要とする年齢ではないのだ。
一番、派手に抗議して来たのは母とリーストーム公爵家で、あとは様子見に徹しているというところだろうか。
リタを公の場に出した事で、それまで拮抗していた第一王子派と貴族派の均衡が、じょじょに崩れてきている。
中立派の中にも、兄上やレキサンド伯爵家への接触を試みる家門がいくつか出て来ているそうだ。
また、アカデミー生の間では、リタがアカデミーに入学しなかったのは、目立つ容姿の彼女が傍にいる事で、俺に必要以上の注目が集まる事を避けるためだった、との推測が、あたかも事実かのように流れていると聞いた。
権力から距離を置きたい俺の望みを叶えるために、王子の婚約者でありながら出しゃばらず控えめに振る舞う姿が、慎ましやかでまさしく内助の功だ、と評判なのだとか。
少々、心配になるくらい、物事がうまく運んでいた。
おそらく、俺の意図を理解したロブやオーブリー達が、ひそかに動いてくれたのだろう。
こんな時は、幼い頃からの遊び相手に素直に感謝したくなる。
このまま、何事もなければ、近いうちに兄上の立太子が公表できる筈……
「リタに、礼をせねばな」
リタが、俺の婚約者を狙っていた多くの令嬢達のように、魔力の多寡という争いの舞台に立つ事はない。
しかし、彼女は、魔力以外のすべてにおいて非の打ちどころがないと見せる事で、俺が何を望んで彼女を婚約者に選んだのか、鮮烈な印象を残してくれた。
だからこそ、俺の思惑通り、兄上を立太子する道筋で事が運んでいるのだ。
六年も放置していた俺に不平の一つも言わず、王族の婚約者として相応しくあるべく、努力を続けて来てくれたリタ。
決して、恵まれた環境とはいえない生家で、折れる事なく、素晴らしい淑女に成長してくれたリタ。
彼女に、俺は一体、何を返せるのだろうか。
なんでもする、とは言えない。
そんな口先だけの言葉を、リタが喜ぶとも思えない。
けれど、俺のできる全力でもって、彼女の希望を叶えたい、と思っている。
彼女の笑顔を思い浮かべるだけで、俺の頬も緩んだ。
いつもの完璧だけれど温度のない笑顔ではなく、ダンスの時に見せてくれた素の笑顔。
――あの笑顔が、もう一度見たい。
それなのに。
「せめて、優しく殺してください」
慣れない仕事に多忙で、ようやくひねり出した時間。
一ヶ月振りに会う彼女は、そう言うと綺麗に微笑んだ。
淑女の中でも、生まれながらの王族しか身に着けていないような完璧な微笑みに目を奪われ、一瞬、何を言われたのか理解ができない。
思わず、じっと彼女の顔を見返すと、小首を傾げるようにして臆する事なく見つめ返して来た。
透き通る灰銀の瞳は美しいのに、一片たりとも光が入っていない事に気がついて、背筋がぞっと凍りつく。
絶望。
諦念。
その奥に隠された、わずかばかりの希望。
けれど、その希望は。
(本気だ……)
残されているのは、生への渇望ではなくて、「優しい死」への希望……
「な、ぜ」
声が、掠れた。
なぜ。
どうして。
どうして、彼女は「殺してくれ」だなんて言うんだ。
「なぜ……ですか?」
不思議そうに、リタが問い返す。
考える時のいつもの癖。
華奢な人差し指を唇に当てて、ゆっくりと口にする。
「痛いのも苦しいのも、好きではありません」
そうじゃない。
なぜ、「優しく」殺して欲しいのかを問うたんじゃない。
なぜ、「殺してください」と言ったのかを聞いたんだ。
「卒業パーティに参加してくれて感謝する。お陰で、想定以上に順調に事が進んでいる。謝礼をしたいのだが、何がいいだろうか?」
と尋ねた答えが殺し方の希望だなんて、予想がつく筈、ないだろう?
「クリフォード殿下の立太子が、現実味を帯び始めたという事ですね?」
「あぁ。卒業パーティでの私達を見て、私に王位を狙う気がない事が理解され、情勢が兄上に傾いている」
「クリフォード殿下が立太子なさったら、わたくし達の婚約は破棄されますでしょう?」
「……これまでの予定では、そうだな」
淡々と、「婚約破棄」と語るリタに、ちくりと胸が痛む。
「その後、わたくしは北部の修道院に送られる事になるかと存じます」
「…………何?」
シャルイナの最北の地に建立された北部の修道院は、不義、不貞など、淑女として相応しくない振る舞いをした貴族女性が送り込まれる場所だ。
修道院の中でもっとも厳格で、生活環境も厳しく、彼女達の多くが適応できないまま、三年と持たずに亡くなると聞く。
当然のように、一度送り込まれれば、二度と社交界に戻る事はできない。
「なぜだ、王族との婚約が履行されなくとも、君に問題があったわけではない。双方の同意の下、白紙に戻ったのだと周知する」
「問題の有無は、それこそ問題ではないのです。『婚約を破棄された』というその一点が問題なのですから」
……婚約を破棄しても、問題はないと……フレマイア侯爵はそう言っていたではないか。
だが。
そうだ。
たとえ、双方の同意の下、と説明しようとも、婚約を破棄される令嬢になんらかの瑕疵があると決めつけられるのは事実。
ましてや、相手が王族では一層の事だろう。
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息が切れるほど、足が縺れるほどに走っても、逃げる事など不可能なのです。
泣き叫んで許しを請う姿すらも、彼らにとっては娯楽に過ぎないのでしょう。
追い詰められて崖下に転落、というのが最も可能性の高い末路でしょうか。
「破棄までの期間を先延ばしするのも悪手ですわ。ルシアン様が真に妃にと望まれる方が現れた時に、わたくしが婚約を破棄しない、と言い張ったらどうなさるのです? わたくしが嫉妬から、お相手のご令嬢を傷つけないとも限らないのですよ?」
ルシアン様は、わたくしをお許しにならないでしょうね。
よくて幽閉、悪意の程度によっては、斬首でしょうか。
斬首の瞬間は、一瞬のようでいて、意外に長いのですよ。
淡々と続けるリタに、思考が止まって何も考えられなくなる。
「わたくしを憐れにお思いになって、形ばかりの妃にしてくださるかもしれませんね。ですが、わたくしは白。許されるのはお飾りのお役目だけ。そうなれば、ルシアン様は側妃を娶られます。飾りの白の正妃と、ルシアン様に寵愛される側妃と。周囲がどちらを望むかは、考えるまでもございません」
王族の穏便な死は、病死と見せ掛けた毒殺ですものね。
あの毒は即死ではありますが、その際に喉から内腑まで焼き切れるような凄絶な痛みが走るのです。
それこそ、死んだ方がまし、と思うような。
「わたくし、老衰による死は諦めております。白の娘としての役割を終えるならば、苦痛とともに迎える死ではなく、穏やかな死を賜りたいのです」
そう言って、リタは微笑む。
「ですから、せめて、優しく殺してください」
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政略よりも愛を選んだ生活は思っていたのとは違っていた。「お幸せに」と微笑んだ元婚約者。結婚によって去っていた側近達。愛する妻の妃教育がままならない中での出産。世継ぎの王子の誕生を望んだものの産まれたのは王女だった。妻に瓜二つの娘は可愛い。無邪気な娘は欲望のままに動く。断罪の時、全てが明らかになった。王太子の思い描いていた未来は元から無かったものだった。後悔は続く。どこから間違っていたのか。
他サイトにも公開中。
ご存知ないようですが、父ではなく私が当主です。
藍川みいな
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旧題:ご存知ないようですが、父ではなく私が侯爵です。
タイトル変更しました。
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十七歳の誕生日、七年間婚約をしていたルーファス様に婚約を破棄されてしまった。本物の愛の相手とは、義姉のサンドラ。サンドラは、私の全てを奪っていった。
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食事は日が経って固くなったパン一つ。そんな生活が、三年間続いていた。
父はただの侯爵代理だということを、義母もサンドラも気付いていない。あと一年で、私は正式な侯爵となる。
その時、あなた達は後悔することになる。
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
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