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 閉まる扉の隙間から、大きな拍手が聞こえる。
「兄上…随分、派手に演じて下さったな。お陰で助かったが」
 これで暫くは、ユリアスの話題で広間は持ち切りだろう。
 あの雰囲気の中、ランドールの所在をわざわざ尋ねる者がいるとは思い難い。
 ランドールはそのまま、アマリアの手を引いて、廊下を少し行った先にある王族用控室の扉へとそっと入っていった。
 扉に何か但し書きがあるわけではないが、アマリアは、部屋の内装を見て、場違いである事に気づく。
「殿下、私はこのようなお部屋に入れる立場では」
「問題ない」
 言い切られてしまうと、それ以上、何も言えない。
「殿下…一体、何が起きているのですか?守護石の事で、チートスと問題が発生しているのでしたら…」
「まだ、何も起きてはいない。だが、心配な事がある。何から話すべきか…そうだな、まずは、ここからだ」
 ランドールに促されて、豪奢な長椅子に隣り合って座ったアマリアは、彼の真剣な顔に口を噤んだ。
 ランドールは、体をアマリアに向け、悩まし気に眉を顰めている。
「アマリア。貴女は、王族や貴族の結婚には、思惑が絡むものだと、政略や打算が含まれて当たり前だと、そう言っていたな」
「はい。王族や貴族は、国民、領民の命と生活を守る事が義務です。人々の生活があってこその貴族ですから。ですから、それを守り続ける為に、条件の合致する家と婚姻を結ぶのは、身分を与えられた者の義務なのだと思っております」
 アマリアの場合は、元婚約者の意向が優先されて破棄されたけれど、一般的には、より高位の貴族である程、条件に縛られる。
 そんな事は、王族である彼が、誰よりも判っている筈だ。
「…私もこれまでずっと、そう思ってきた。好意などなくとも、王家の為に、釣り合いの取れる家の令嬢と、いずれ結婚せねばならんのだろう、と」
 過去形なのは、何故なのだろう。
「私がこれまで婚約しなかったのは、家格の釣り合いやら、婚姻を結ぶ事で王家が得られる益やら、そう言ったものが突出している家の令嬢がいなかったからだ。いずれ王弟となる私の立場を、真の意味で理解している令嬢がいると思えなかったのもある」
 アマリアは頷いて、彼の言葉を聞いている事を示す。
「兄上の結婚が決まった事で、次は私だとばかりに、一気に縁談が増えてな。うんざりしていたのも確かだ。だが…初めて自分から、添いたいと思う相手と出会えた」
 ランドールは言葉を切って、一つ深く、息を吸う。
「アマリア」
「はい、殿下」
 表面上、冷静に受け答えしているが、アマリアの心の中には今、嵐が吹き荒れている。
 慕う相手の口から、結婚を望む人がいると聞かされて、平常心を保つのは困難だ。
 彼は、何を言おうとしているのだろう。

「私と、結婚してくれ」

 時が、止まった気がした。
「え…?」
 自分の耳で聞いた言葉の意味が理解出来ず、アマリアは彼の顔を凝視する。
「申し訳ございません」
 拒絶に聞こえる言葉にランドールの顔が歪むが、続けられた言葉に、詰めていた息を吐いた。
「仰っている意味が、よく判らなくて…殿下が、どなたと、結婚なさりたいと?」
「アマリア、貴女だ。私の妻になってくれないか」
「私が…殿下の妻に、ですか…?」
 言葉が、意識の表層を流れていく。
 全く想像していなかった事態は、アマリアの処理能力を大幅に超えていた。
「あの…私の理解が間違っていたら、申し訳ございません。殿下は…政略結婚をしなくてはいけない事にうんざりしてらして…そして、私…?」
 首を傾げて、アマリアが言葉を続ける。
「我が家は地方の伯爵家ですし、特別豊かなわけでも特殊な資源があるわけでもございませんし…確かに、政略的に効果のある家ではございません。殿下のご威光を笠に着て、権力を持つだけの求心力もございません。…ですが、だからと言って、政略結婚を逃れる為に私をお選びになるのは、」
「違う、アマリア」
 慌ててランドールが口を挟む。
 まさか、ここまで、アマリアを悩ませるとは思っていなかった。
「そうではない。私が、トゥランジア家とは関係なく、アマリア、ただのアマリアを妻にしたいのだ」
「ただの、アマリア…家の後ろ盾も何もない、何も持たない私を、ですか…?」
 何処か視点の定まらなかったアマリアが、ランドールの顔を見つめる。
「何故でしょう…?殿下がお望みなら、全てを差し出しましょう。ですが、何か、殿下がお求めになるものがありましたか…?」
 問われて、ランドールは肝心な事を伝えていなかった事に、やっと気づいた。
 アマリアには直球勝負だ、と親友達に言われていたのに。
「アマリア。貴女を愛している」
「え…」
 アマリアが心底驚いたのを見て、これまでの自分の好意が、本当に彼女に届いていなかった事を悟り、ランドールは少し、切なくなった。
 恋などした事がなかったから、どうすれば相手に好意が伝わるのかなど、考えた事もなかった。
 令嬢達は、好意など欠片もなくても無から有を創造する天才で、僅かでも私的な交流があると直ぐに、「ランドール殿下はわたくしに好意をお持ちなのよ」と声高に喧伝するものだったから。
「最初は、貴女の声だけが私に聞こえるのがきっかけだったのだと思う。初めて見るものを親と慕う雛のような気持ちかと思っていたが、毎日、貴女と接するうちに、貴女の発する言葉、考え方に惹かれるようになった。決定的だったのは、離宮で過ごした日々だ。その時には、自分の恋心を自覚するようになっていて…だが、同時に、貴女に求婚していいものなのか、悩んでもいた」
 ランドールは一度、言葉を切って、唇を噛む。
「王族の一員として、王家の為に打算を持って結婚しなければいけない立場なのも、理解していたつもりだったからな。先程、貴女が言っていたように、確かにトゥランジア家との結婚は、政略のみに焦点を当てれば、有効とは言えない。それに、王族と言うのは、見た目は派手だが裏側は地味な仕事が多い。私的な時間を作るのも難しい。中央貴族達は、表面上はにこやかでも、腹の中で何を考えているのか判らない。そんな世界に、社交界に慣れていない貴女を巻き込んでいいものなのか、考えた。私自身が貴女の能力をどれだけ買っていようと、貴女が伯爵家の令嬢である事は変わらない。王族の結婚として、慣例に準じていないのは確かだ。それを、他の王族に認めさせられる力が自分にあるのか、貴女が嫌な思いをするのではないか、不安だった。…だから、これまで、私は貴女に、自分の気持ちを言葉にして伝える事が出来なかった」
 アマリアの反応を見るのが怖くて、ランドールは矢継ぎ早に言葉を繋げる。
「だが、何と言うか、吹っ切れた。貴女と人生を共にしたい。そう思ってからは、それ以外の選択肢を考えられなくなっていた。その為の障害があるのであれば、取り除く。貴女が困難に見舞われるようならば、共に立ち向かう。それが出来る、してみせる、と思ったから」
 それから、慌てて付け足す。
「だからと言って、これは別に、王家の命令などではない。貴女自身が…私を選んでくれるのであれば、と言う前提での話だ」
「殿下のお気持ちは…承りました」
 熱心に言い募るランドールの言葉に、アマリアは顔を真っ赤に染めて小さく呟いた。
 彼の口から、こんなにも自分を想ってくれる言葉が溢れ出すなんて、考えた事もなかった。
 だが、これだけは彼を慕う身として、言っておかねばならない。
 ランドールを好きでも、いや、好きだからこそ。
「ですが、臣として申し上げます。私は、高位貴族のご令嬢の皆様とは異なり、中央での社交を存じ上げません。王宮に上がるまで、自領から出た事もなく、王族に連なる為に必要な教育も受けておりません。私では、殿下の御名を汚してしまいます」
 言い切ると、予想に反して、ランドールは目元を和らげた。
「貴女なら、そう言うと思った。確かに、社交についてはこれから頑張って貰わねばならない場面があるだろう。だが、どうだろう?今日の夜会に呼ばれていた来賓で、顔と名前が一致しなかった人物はどれだけいた?」
「え?えぇと…そうですね、お三方、判然としない方がいらっしゃいました。髪の色も目の色も背の丈も、同じ位でしたし、爵位も等しく侯爵に叙されている方々で…」
 三人以外は判った、と言う事だ。
 ランドールは、予想通りの答えに、微笑を浮かべた。
「サモナ侯、パルズ候、モンタナ侯だろう?」
「はい、そうです、よくお判りですね」
「彼らは親族だからな、よく似ている。三つ子と言われても不思議はない気がするが、そこまで近い親族ではないのだそうだ。私も、見分けがつくようになるまで時間が掛かった」
「殿下でも?」
「あぁ。社交は、一朝一夕に身につくものではない。だが、それは私が教える事が出来る。そもそも、今回の夜会に招待された人数は、普段の夜会よりも多いのだ。それを、あの三人以外は把握出来たとは、期待以上で驚いている」
「ですが、合っていたかどうかは」
「そうだな。答え合わせはまた、いずれしよう。付け加えるならば、王族に必要な教育の基礎は、既に十分、身についていると考えている」
「え…?」
「貴女は他家で行われている貴族の子女教育を知らないようだから、自覚はしていないだろうが、トゥランジア伯が貴女に与えた教育の幅広さは、王家の子供と遜色ない」
「そう…なのですか…?」
 呆然と受け止めた後、何故、父はそのような事をしたのか、と、頭の隅で疑問に思う。
 娘を王家に送り込もうと言うような、野望のある人ではない筈だ。
 そのような野望があれば、とっくに王都の自分の傍に呼び寄せていただろう。
「ですが、実際の所…王家の皆様や、父がどう思うか…」
「許可なら取ってある」
「え?」
「陛下と両親、兄、そして、トゥランジア伯に、結婚の許可は得た。皆、アマリアさえ受け入れてくれるのであれば、歓迎するそうだ」
 アマリアは、自分が気づかないうちに外堀が埋められていた事に、漸く気が付いた。
 ランドールの気持ちを知っていたからこそ、ユリアスはあのような公開求婚をしてまで、ランドールとアマリアから目を反らしてくれたのだ。
 思い返せば、アレクシスも、ジェイクも、ミーシャも、オルカも…彼らの言葉の端々に、ランドールの名が挙がっていなかったか。
 アレクシスに言われていた。
『殿下は、アマリアさんと踊るのを楽しみに執務に励んでいるのですよ』と。
 ジェイクに言われていた。
『殿下は、全てを織り込み済みで覚悟なさっています』と。
 ミーシャに言われていた。
『殿下のお心を、そのまま受け止めて』と。
 彼らはあんなにも、アマリア自らが気づくようにと、仕向けてくれていたのに。
「私…全然、気が付いていなくて…」
 自分の恋愛能力の低さに愕然とする。
 一つ、符号がはまれば、あれもこれも、そうだったのか、と判るのに。
 そんなわけがない、自分に都合のいい夢を見てはいけない、と戒めていたから、何も疑う事はなかった。
「アマリア。急な事で、心の整理がつかないと思う。…本当は、もっとゆっくりと気持ちを伝え、結婚の意思を伝えるつもりだったのだ。特に求婚は、景色のいい場所で…とか、美しい音楽を聴きながら…とか、野望があったのだがな」
「野望、なのですか?」
 おかしくなって笑うと、
「漸く、笑顔を見せてくれたな」
と、ランドールがホッとしたように言う。
「ジェイクによると、私はロマンチストらしいぞ。アマリア、今日、貴女が着ているドレスの色は、私がミーシャに提案した」
「そうなのですか?!」
「アマリアの髪の色だけ、知っていた。その髪に、きっと夜空の藍と銀が映えると思って」
「…有難うございます」
 アマリアは、嬉しくなってふわりと微笑んだ。
 ランドールがドレスを贈ってくれた事自体を喜んでいたけれど、そこに彼自身が積極的に関わってくれていた事を、幸せに思う。
 気づいていなかっただけで、ランドールはずっと前から、アマリアを愛で包み込んでくれていたのか。
「本当は…と言うと、事態が変わったのですね?」
 それはきっと、チートス絡みだ。
「あぁ、そう言う事だ。アマリア、急かしたくはないが、答えは早くに欲しい。勿論、貴女の意思を尊重する」
「理由をお伺いしても?」
「私も、正確な事情はまだ把握していない。トゥランジア伯は、アマリアが求婚を受けたら、事情を説明すると言っている。だが…私の懸念が当たった場合…」
 ランドールが、声を潜める。
「チートス王家が、貴女を召喚するだろう」
「え…?」
 予想外の言葉に、アマリアは、眉を顰めた。
「お待ち下さい、何故、チートス王家が一介の王宮侍女に……やはり、守護石の事では…」
「全く関係がない、とは言い切れない。だが、守護石を所持していた事を問題にするのであれば、我々も、アンジェリカ王女の侍従が私にした事を公表するだけの話だ。現状、表沙汰にしていないだけで、先方は否を認めている。公表されて分が悪いのはチートスだからな、少なくとも『守護石の所持』のみで召喚する事は出来ない」
「では、何故…」
「相変わらず、事件の動機は話さないが、アイヴァンが先日、少しだけ情報を漏らした。レナルド陛下は、アイヴァンに密命を下していたらしい。『ロイスワルズ王宮に勤める赤い髪に赤い瞳の女性に接触せよ』と」
「それは…」
 ロイスワルズで、赤い髪は極めて珍しい。
 少なくともアマリアは、王宮に勤める女性で、同じように「赤」と認識される髪色と瞳の人物を知らない。
「どう言う事でしょう…?レナルド陛下は、アンジェリカ王女殿下の件より以前に、私の存在をご存知だった…?」
「そうなる。恐らく、チートスの密偵が王都を闊歩しているのだろうな。我が国もチートスに密偵を放っているから、お互い様なのだが。…アイヴァンが、魔法石を使って事件を起こしたのは、貴女に守護石を使わせる事が目的だった可能性もある」
 それはつまり、チートス側が、アマリアが守護石を所持していると推測していた事を示す。
「元々、今回の記念式典には、ローワン王太子が参列する予定だったのだ。それが、急遽、レナルド陛下に変更になった。しかも、夜会が始まって早々に、貴女に接触している。何も裏がないとは思えない」
 守護石の所持そのものを取り沙汰にする事は出来ない。
 けれど、守護石を使用したアマリアの外見的特徴が、レナルドの関心を惹いたのだとしたら…。
「まさか…母…?」
 アマリアと同じ、深紅の髪に赤い瞳だったと言うエミリア。
 生まれた時から、傍にいなかった母は、姿絵でしか知らない。
 だから普段、アマリアの意識の片隅で眠っている。
 だが、これまで自領から出ず、王宮に勤めて日の浅い自分とチートスの間に、何らかの繋がりがあるのだとすれば、それは、チートス王家秘伝とも噂される守護石を作った母しか、ないのではないか。
「トゥランジア伯が秘していると言う事は、母君に関係する事なのだと思う。正直に言おう。現時点で、チートス王家から召喚があれば、貴女の身分から断る事は不可能だ」
「!」
 青褪めるアマリアの顔を痛ましそうに見遣って、ランドールは言葉を続ける。
「どう言った理由で貴女を召喚するか推測するには、まだ材料が足りない。ただ…私が把握している事実として、レナルド陛下は王太子時代から現在に至るまで、国内の視察に大変熱心でありながらも、国外においでになる事は滅多になかった。どうやら国内で、人探しをしていたようだ、と言う情報もある」
「母を…お探しになっていた…?」
「トゥランジア伯の動きも、その推測を裏付ける」
「何故…レナルド陛下は、母を探しているのでしょう…守護石の魔法陣を、母が王家から盗んだ…?」
 益々蒼白となったアマリアの顔を見て、力強く否定する。
「それはない」
「何故ですか?」
「事情を把握しているセルバンテスが、私と貴女の結婚に反対していないからだ。セルバンテスは、貴女を全力で守るだろうが、同時に王家の家令でもある。王家に不利な事実があれば、何としてでも私に貴女を諦めさせるだろう。それに、幾ら王家秘伝であっても、本当に盗まれたのであれば、どうとでも理由をつけて公に捜索すればよいのだ。それをせずに密かに探していたと言う事は、探している事自体を、知られたくなかったのではないか?」
「確かに…」
「…全くの、見当違いであればいいのだが」
 絞り出すように、ランドールは言葉を発した。
「先程のレナルド陛下のお顔を見て、あながち、的外れでもない気がしている。…レナルド陛下は、エミリア殿を好いていたのではないか、と」
「まさか…」
 否定しながらも、アマリアもまた、あり得ない、と言い切れない事に気づく。
 レナルドの、己を見つめる目。
 仄暗い炎が、奥深くにちろちろと熾火のように燻っていたあの目…。
 切なさと、後悔と、憤りと、そして、確かに感じた愛おしみ。
「チートス王家のみに伝わる守護の魔法陣を、エミリア殿が描けた理由。それが、レナルド陛下自ら、エミリア殿に守護石を贈ったからなのだとしたら…」
 王家の外には出ない物を贈るのであれば、そこには相当密接な関係がある筈だ。
「想い人を何十年も探し続ける執念を思うと…召喚の理由に、求婚もあるのではないかと思えてくる」
「求婚…?!」
「貴女と母君は、よく似ているのだろう?エミリア殿本人ではないのだから、杞憂だと思いたいのだが…わざわざ、人の目のある場で声を掛けて来た事が気に掛かる。通常、周囲にその一挙手一投足を注視されている一国の国王が、貴族令嬢に直接声を掛ける事などない。国王の関心を惹こうと、令嬢の身柄をどうにか手に入れようと考える輩が現れないとも限らないのだから。それを承知の上で、貴女に接触したと言う事は、何かしらの意図があると言う事だ。レナルド陛下御自身ではなくとも、独身であるローワン王太子に娶せようと考えていないとも限らない」
「父は…何故、殿下に事情を話さないのでしょう?」
「セルバンテスによれば、エミリア殿の秘密は、アマリアにとって良いようにも悪いようにも変わるものらしい。だからこそ、トゥランジア伯は、貴女が知らないままで過ごせるのであれば、一生、隠し通すつもりなのだ。…だが、王族になるのであれば、説明すると話してくれた。つまりは、」
「王族となれば、チートス王家との関わりが避けられないから…?」
 重い溜息と共に額を手で押さえるアマリアを、ランドールがじっと見つめる。
「…我ながら、卑怯な事を言っていると判っている。もしも、求婚された場合、例え婚約者がいようと、王家からの求婚を拒めるものではない。…その婚約者が、王族でない限り」
 だから、自分を選んで欲しい。
 そうすれば、絶対に、絶対に、守るから。
「それに、チートスは側室制度のある国。求婚されたからと言って、正妃の立場とは限らない」
 ローワンは独り身であるものの、隣国の伯爵令嬢が正妃になる可能性など、ないだろう。
 それ以上に、アマリアには、想う人がいるのだ。
 誰も心にいない時であれば受け入れられた政略結婚も、今となっては、受け入れ難い。
「殿下…ランドール様」
「…あぁ」
「私は…婚約破棄されて以降、結婚する気はなかったのです。…生涯、唯一人の方を思って生きていこうと、心に決めておりましたので…」
 その言葉に、ランドールの頬が歪む。
「このようなお話の後では、チートスに嫁ぎたくないが為と思われるのは承知の上です」
 こくり、と、アマリアの喉が鳴った。
 自らの想いを認め、それを伝える事が、どれだけ困難な事か、思い知る。
 羞恥と指先の震えを抑え、ランドールの目を精一杯の想いを込めて見つめた。
 
「ランドール様…貴方を、お慕いしております」

 ランドールの目が見開かれ、じわじわと頬が朱に染まっていく。
「アマリア…」
「最初は…ランドール様に惹かれていく自分の気持ちを、認められませんでした。私は、王宮の侍女に過ぎませんから。ランドール様がお仕事をされているお傍に置いて頂いて、離宮でのお話し相手に選んで頂いて…その間に、どれだけ想いが募っても、恋心だと、認めるわけにはいかなかったのです」
 ランドールは、好意を見せながらも一線を引いていたアマリアの姿を思い出す。
 だからこそ、嫌われてはいないだろうが、特別に想ってくれているとも思えなかったのだが。
「けれど…婚約破棄されて結婚と言う将来を失ったのだから、心の中で何方を慕おうと自由である事に気が付きました。だったら、自分の好きなように、好きな方を想って生きよう、と、考えを改めたのです。今回の夜会も…ダンスのお誘いを頂いて、本当に嬉しかった。ご多忙なのは承知しておりますから、結果的に時間がなくて踊れなくとも、そうお申し出頂けた事を宝物にしようと、決めていたのです」
 アマリアが淡く微笑むと、ランドールが思わずと言った様子で、彼女の手を取る。
「貴女と踊りたかったのは、私だ。万難を排して臨むに決まっている。…気持ちが通じたと判った今ならば、夜会の前に伝えておけば良かったと思うのだが。そうすれば、最初から最後までエスコートする事を許されたのに。私が…貴女の気持ちを尋ねる事を恐れたばかりに、男達が声を掛ける隙を与え、レナルド陛下に接触させてしまった。予想していた事なのに、防げなかった…」
「だから、自己嫌悪と仰っていたのですか?」
「あぁ」
 情けなく眉を寄せるランドールに、アマリアは笑い掛けた。
「ランドール様も、そのような顔をなさるのですね」
「無表情には定評があった筈なのだがな」
「お仕事をなさっている時のランドール様は、確かにきりっとされていますが…それ以外の時はとても、表情豊かだと思いますよ?」
「それは、貴女の前だからだ」
 羞恥を覚えたランドールが、視線を落とした。アマリアのドレスの裾から覗く、金色のリボンが目に留まる。
 解けかけている事に気づき、並んで座っていた長椅子から立ち上がって、アマリアの足元に跪いた。
 何が起きたのか判らず戸惑うアマリアを前に、白い絹の手袋を外すと、リボンを、ゆっくりと足首から巻き取っていく。
「…このリボンは、ミーシャが?」
「えぇ…殿下のお色だから、と」
 蜜色のランドールの瞳になぞらえた金色のリボンが気恥ずかしくて、アマリアが目を伏せる。
 ランドールは、
「ミーシャは、よく判っているな」
と笑い、そっとアマリアの足に触れた。
「…!」
「足首など、男の前で見せるものではないよ」
 ツ…ッと脛の皮膚の薄い所をなぞる指にアマリアが震えると、ランドールは、ふふっ、と小さく笑う。
 立ち上がるランドールの姿を目で追うアマリアに見せつけるように、巻き取ったリボンにそっと唇を押し当てた。
「…っ」
 直接触れられたわけでもないのに、アマリアの心臓が、ドキリと高鳴る。
「貴女は、目と耳の利かなかった私の印象が強いのだろうから、仕方がないが…俺が、下心なしに貴女に触れていたとでも?」
 不意に一人称を変えて、ランドールがアマリアを見つめた。
「下心…?」
「貴女に触れたかったから、必要以上に触れていたに決まっている」
 にやり、と悪い笑みを浮かべるランドールに、アマリアの頬が染まる。
「貴女の想いを聞いて、安心した。…絶対に逃がさないから、覚悟して」
 ランドールから視線を逸らす事の出来ないアマリアに、ゆっくりと、だが、逃すまいと強い意志を持って、ランドールの手が伸ばされる。
 そのまま、抱擁するように手が背に回された。
 アマリアのドレスの大きく開いた背中を、ランドールの指が悪戯に撫で上げる。
「ランドール様…っ」
 ダンスの最中にも、同じように撫でられた。
 だが、その時と今と、何が違うのか、アマリアの心が千々に乱れる。
 くすぐったいだけではなく背筋を過る熱に、アマリアが大きく吐息を吐き出すと、ランドールが満足そうに眼を細めた。
「結婚を、承諾してくれるのだな?」
「…はい。ランドール様が、私を望んで下さるのなら」
「判った。では、今から全力で、貴女を守る為に動こう。婚約者であれば、使える手段が増える。一刻も早く動かねばならない事が、幾つかあるからな」
「それは…」
 途端に不安そうになったアマリアの髪を、宥めるように撫でる。
「国内の貴族は問題ないが、心配なのは、チートスの動きだ。婚約を公表する前に求婚されてしまうと、拒否するのが難しい」
「はい」
「トゥランジア伯とセルバンテスの情報が、チートス側との交渉材料になる可能性は高い。今夜は遅くまで夜会が続くから、彼らから話を聞けるのは、早くとも明日以降になるが、それから対処を考えるのが一つの方法。もう一つは、今から夜会に戻って、その場で婚約を仮発表する方法だ。大勢の招待客を証人にして、釘を刺す」
「…私は、母の秘密が気になるのです。良いようにも、悪いようにも変わる…もしも、それが悪い方に動いた時の事を考えると、恐ろしくて。…万が一にでも、ランドール様に傷をつけるわけには参りません」
「アマリア…」
 きゅっと唇を噛むアマリアに、
「傷になる」
と、指でそっと唇を撫でて解放させる。
「判った。では、トゥランジア伯とセルバンテスと面会してから進めよう。明日、二人の時間が取れ次第、面会する」
「承知致しました」
 その時、コンコン、と、叩扉の音と共に、ジェイクの声が聞こえた。
「殿下、そろそろ、お戻りを」
「判った。…アマリア、私は夜会に戻らねばならないが、ジェイクを残していくから、今夜はもう、屋敷に戻って休んでくれ。明日は時間通りに、王宮の補佐官室に出仕してくれればよい。トゥランジア伯達との面談の時間が取れれば、そちらを優先しよう」
「はい」
 ランドールは最後に、名残惜し気にアマリアの髪を撫でると、彼女の右手の甲をすくい取って口づける。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ…」
 不意打ちの口づけに、頬を真っ赤に染めたアマリアを嬉しそうに見て、ランドールは部屋を後にした。
 扉の外では、ジェイクとアレクシス、二人の腹心が並んでランドールを待っている。
「その様子ですと…上手くいったようですね。おめでとうございます」
 ランドールはほんのり笑みを浮かべたが、一瞬で表情を抑えると、
「予想よりも先方の動きが早い。アレクシスは、トゥランジア伯とセルバンテスに、面談を申し入れておいてくれ。出来るだけ早く、明日のうちに会いたい。ジェイクは、アマリアを屋敷まで送り届けるように。屋敷の手が足りないようであれば、明日の朝の迎えもやってくれ」
 てきぱきと、指示を出した。
「承知致しました」
 頭を下げる二人を見ると、ランドールは背後の扉を振り返って、一つ溜息を吐く。
「…行きたくない…」
「暫し、ご辛抱下さい。全てが片付いてから、安心してお迎えになりたいでしょう?」
「そうだな…」
 アレクシスとジェイクは顔を見合わせて、苦笑する。
 仕事の鬼とまで呼ばれているランドールだ。
 彼は、王族の中でも公を優先する傾向が強かった。
 その彼が、漸く想いを伝えられた女性の傍を離れがたくて、溜息を吐いているのだ。
 二十数年、傍に仕えていても、まだまだ主の新しい顔が見える。
 それはきっと、この先もずっと変わらないのだろう。
 アレクシスが、わざと明るく声を上げる。
「ほら、殿下。ユリアス殿下にご報告なさらないと。随分と、場を盛り上げて下さいましたよ」
「あぁ…後で何を請求されるか、判らんな」
「一番欲しいものを手に入れたのですから、お安いものでしょう。さ、お仕事頑張りますよ」
「…判っている」
 なかなか足の進まないランドールの背中をぐいぐい押しながら、アレクシスはジェイクに目配せした。
「後は頼んだ」
「頼まれた」
 アレクシスに押されながらも、渋々と広間へと歩を進めていたランドールが、
「あ」
と、声を上げる。
「殿下?どうなさいましたか?」
「アマリアに、魔法陣の話をするのを忘れた…いいか、明日でも。サングラの都合を聞いておいてくれるか」
 最後の言葉は、ジェイクに投げかけたものだ。
「はい、伺っておきます」
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