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 そのまま、車輪が石畳の敷かれた街道を行くガタガタとした音を聞くとはなしに聞いていると、順調に走っていた馬車の速度がゆっくりと落ち始め、御者席側にある小窓がコンコンと叩かれる。
 アマリアが応じて振り返り、小窓を開けるのを確認して、ジェイクが話し出した。
「この先の街で、昼食をお取り頂きます。食堂のある宿屋で、食事の為の部屋を予約済みです。『クレス』の名で予約しているのですが、私は馬の世話がありますので、アマリア様、ランドール様の介添えをお願い致します」
「はい、承知致しました」
 アマリアは、ジェイクの言葉をランドールに伝える。
「あぁ、もう昼か。話していたら、いつもよりも時間が早く過ぎたようだ。これまで利用していた店は、王族の扱いに慣れているのだが、今の私が行くわけにはいかないからな。一つ手前の街で休憩する事になっている」
 離宮に行く楽しみの一つに、道中で食す、王城では食べられない市井の料理がある。
 護衛の観点から、常に同じ「王家御用達」の店を利用していたのだが、ランドールの状態を秘す為に、今回はそこを訪れる事が出来ない。
 代わりにジェイクが、一つ手前の大きな宿場町で、貴族も利用する食堂兼宿を予約していた。
「私が王族である事は、伏しておきたい。恐らく、相手の声は聞き取れないから、全ての応対を貴女に任せる事になるのだが…大丈夫だろうか…?」
「はい」
 コバルとロイスしか知らず、市井の人々と触れ合う機会など皆無に等しかったアマリアだ。
 人との交流に苦手意識を感じているようだから不安だったが、今のランドールには、彼女に任せる他はない。
「到着致しました」
 緩やかに馬車が停車して、扉が外から開かれる。
 ランドールはアマリアを振り返り、
「ここでは、ランドールではなく、ランディと呼んでくれるか」
と、小さく頼んだ。
「はい、ランディ様」
 ジェイクの手を借りて先にランドールが地面に降り立ち、今度はランドールがアマリアに手を貸す。
 差し伸べた手に軽く重ねられただけの掌に、もっと寄りかかってくれていいのに、と思って、ランドールはそんな自分に苦笑する。
 目の見えないランドールを支えるようにアマリアが傍に寄り添って、腕に軽くそっと手を添えた。
 その手を、ぐい、とランドールが引き寄せ、エスコートと言うには近い距離で、腕をしっかりと絡めて組み直すと、アマリアの体に小さく緊張が走る。
 肩と肩を寄せ合い、相手の呼吸すら聞こえそうな距離は、親しい仲でなければ許されないものだ。
 だが、緊張するアマリアを宥めるように軽く腕を叩いて、
「初めての場所は勝手が判らないから、こうしないと危なくて歩けない」
と零すランドールに、小声で「承知致しました」と返した。
 実際の所、勘のいいランドールは、腕に指先さえ添えて貰えれば、誘導に従って歩く事が出来る。
 嘘を吐いてまでアマリアに寄り添うのは、緊張からアマリアが倒れるのではないかと、不安になったからだ。
 令嬢と言うものは、直ぐに気絶するものだと思っている節がある。
(いや、言い訳か)
 ただ、アマリアに近づきたい欲が勝っただけだ。
 アマリアが自らランドールに寄り添ってくれないのならば、ランドールが引き寄せればいい話だ。
 そうとは気づいていない様子のアマリアに、ランドールはほっと胸を撫で下ろした。
 宿場町では珍しくもない馬車だが、降り立ったのが、頭一つ抜き出た長身を、見るからに上質な衣服で包んだランドールだからか、周囲を歩いていた者達の視線が集中する。
 その顔に異質な黒い目隠し布を見て、ざわざわと声を上げるが、聞こえず見えないランドールは気づかない様子で、アマリアに声を掛ける。
 幼い頃より、衆目を集めて来たランドールだから、気づいた所で、態度が変わったかどうかは判らない。
「行こうか」
「はい、どうぞ、こちらへ」
 人一倍長身のランドールの隣に立つと、アマリアの背の高さは目立たなくなる。
 だが、ランドールの姿を注視していた人々が、すれ違う時に、その頭の位置と腰の高さに驚くのだろう。
 背後を振り返って唖然とする者が多い。
 その様子を見ながら、ジェイクは、御者席に飛び乗って何処かへと向かっていく。
 馬に、飼い葉と水を遣るのだ。
 そこに、馬車の音を聞きつけたらしい宿の主人が、扉からまろび出るように駆け寄ってきた。
「いらっしゃいませ!クレス様でいらっしゃいますか?」
「えぇ」
 答えたのは、ランドールではなく、アマリアだ。
 二人の関係を捉えかねたのか、それとも女性が返事した事が予想外だったのか、不思議そうに主人がアマリアとランドールの顔を交互に見るが、アマリアは気にした様子を見せず、にこりと微笑む。
「事故が原因で耳が遠くていらっしゃるの…申し訳ないけれど、静かなお部屋に通して頂けるかしら?」
「あぁっ、失礼致しました。はい、ご用意しております」
 堂々としたアマリアの声にランドールは驚いたが、触れている腕が微かに震えている事に気づいた。
 アマリアはそれをおくびにも出さず、見るからに高貴なランドールにおもねるように世辞を言う主人ににこやかに対応しながら、ランドールを誘導していく。
 ランドールは、絡めた腕に引かれるままに、無言で歩を進めるのみだ。
「ご夫君は、お若いのに目と耳がご不自由とは…大変な事故だったのですね」
 ぴったりと寄り添う二人に、主人は悩んだ末に夫婦として扱う事にしたのだろう。
 「クレス」の名で予約を受けていたが、偽名である事は承知していた。
 こう言う場所で、余計な問題を引き寄せない為に偽名を使う貴族は、決して少なくない。
 ランドールの身なりは、見るからに高位貴族のものだ。
 だが、アマリアの装いは、高位貴族の奥方と言うには簡素で地味過ぎる。
 貴族に慣れている主人の目から見て、初見でアマリアとランドールを夫婦と断じる事は出来なかった。
 だが、愛人と言う雰囲気でもない。
 奥方に内緒で愛人を伴う貴族も少なくないが、彼女達は総じて、もっとぎらついた目をしている。
 身分違いの恋人の可能性もある。この場合、大きな事故の後遺症がある恋人に寄り添い続けるのであれば、いつかは身分の差を乗り越えて夫婦となるだろう。
 様々な想像を一瞬で終えて判断し、心底痛ましそうに言う主人の言葉を否定せずに、アマリアは微笑んで頷くだけだ。
「えぇ…でも、命があるだけでも幸いですわ」
「愛してらっしゃるのですねぇ」
 貴族の政略結婚ならば、寧ろ、後遺症なく亡くなってくれた方が有難い。
 そのようなニュアンスを含んだ言葉にも、アマリアは気づいていないかのように微笑む。
「勿論、愛しております」
 不意にアマリアの声で発された言葉に、演技と判っていても、ランドールはドキリとした。
 ランドールに、主人の声は聞き取れない。
 アマリアの言葉で、会話を想像するだけだ。
「ご夫婦仲が宜しくて何よりでございます。お部屋はこちらになります」
 愛想笑いを浮かべた主人に案内されたのは、宿の中でも一等級の部屋だった。
 宿泊はしないが、静かな部屋で食事がしたい、と、通して貰ったのだ。
 貴族の利用者が多いだけに、宿泊せずとも休憩のみに場所を提供する事も少なくない。
「お品書きはこちらに。ご注文は直ぐにお決まりになりそうですか?」
 アマリアは、椅子にランドールを座らせてから、隣に腰を下ろし、品書きを手に取る。
「ランディ様、お肉とお魚、どちらになさいますか?」
 聞こえない、と言う演技の為、アマリアは、身を乗り出し、ランドールの耳元に口を近づけて話す。
 その甘やかな息と、近づいた鈴蘭の香りに、ランドールは思わず息を飲んだ。
「そうだな…肉がいい。魚はマイルスでも食べられる」
 アマリアとの距離に動揺しているのを悟られないよう、片手を顎に添えて、思案する振りをする。
 初めて声を発したランドールに、驚いた主人が振り向く気配がした。
「お肉は、そうですわね、兎と雉と鹿、あと猪もあるようです」
「兎の煮込みはあるか?」
「えぇ、ございますわ」
「では、それを。後は、君が適当に決めてくれ」
「えぇ、お任せになって」
 微笑んでランドールの腕にそっと触れてから、アマリアは主人の顔を見て注文する。
「出来れば、一口大に切っておいて頂けると助かるわ」
「はい、承知致しました。これから、マイルスにいらっしゃるのですか?」
「えぇ、ゆっくりと療養したいと思いまして」
 ね、と、ランドールに頷きかけるアマリアの、何処から見ても仲睦まじい夫婦の姿に、主人は興味本位よりも心から微笑ましくなって、部屋を退室したのだった。



 食事は、満足の行くものだった。
 兎の煮込みは指示通り、一口大に切り分けてあったので、ランドールが手探りで刺しても直ぐに口に運べる状態だった。
 他にも、冷製のフィンガーフードや、全粒粉を使ったパンなど、目が見えていなくても食べやすく、零しても火傷の危険のないものをアマリアは選んでいた。
 念の為、アマリアも全く同じものを注文して、主人に給仕された後に自分の皿とランドールの皿を交替したが、特に体調が悪くなる事もなかったから、毒が入っていた可能性はないだろう。
 宿の中では、例え扉が閉まった状態でも夫婦としての演技を続けていたが、馬車に戻って腰を下ろすと、ふぅ、とアマリアが息を大きくつく。
「勘違いされたとは言え、私が妻など…申し訳ございません」
 アマリアは、肩を竦めて眉を顰めた。
「未婚のご令嬢を既婚者と間違われるなど、私こそすまない」
 謝罪し返すランドールに、アマリアは首を振った。
「私に謝罪など、なさらないで下さい。ランドール様のようなお美しい方の配偶者なんて、こんな事でもなければ勘違いされる事もありませんもの。役得、でしょうか」
 小さく笑うアマリアに、「美しい」と言われたランドールの声が、思わず上ずる。
 他の誰に同じ事を言われても、心動かされた事などないのに。
「…貴女の目に、私は好ましく映っているのだろうか」
 アマリアはきょとんとして、当然のように頷いた。
「勿論でございます。ランドール様は、人品共に素晴らしく、お姿も凛々しくて、お仕え出来る事を臣下として誇りに思っております」
「臣下として…?」
「はい。あの…?」
「そうか…」
 アマリアは、上司として、王族としての自分しか、見てくれていないのか。
 距離を、少しは縮められたと思ったのに。
 落胆して、そんな自分に驚く。
(…私は、やはり彼女が、)
「それは…残念だ。少しは私を、意識してくれたのかと思ったのに」
 冗談めかして笑いを含ませて言うと、アマリアが笑う。
「身の程は弁えております」
「では、私こそ身の程を弁えないといけないな。あぁ、だが、もしも貴女が気にしないと言うのなら、この手は使えそうだ」
「と、仰いますと?」
「若い男女が共にいるのに、夫婦と言う設定程、相応しいものはない、と言う事だ」
 言われて改めて、この限られた空間にランドールと二人きりと言う事を意識してしまって、アマリアは、見えないと判っているのに赤く染まった頬を両手で隠した。
 無言のままのアマリアの様子に、思った以上に不安になって、ランドールは、見えない目でアマリアのいる辺りを探る。
「アマリア嬢…?」
「あぁ、あの、いえ、勿体ないお言葉で…」
 慌てる声が、否定なのか肯定なのか、判らない。
 表情さえ見えれば、もう少し、判断する材料を得られるものを、と歯痒い。
「…すまない、調子に乗っているな。貴女を困らせるようなら、」
「いえ、困ってはおりません!」
 思わず強い口調で返してしまって、アマリアはハッと息を飲む。
「だが…貴女に想い人がいるのなら、こんな頼みは迷惑だろう?」
「想い人などおりません」
「王城の騎士達に、恋文を渡されていると、」
「恋文などではありません」
 父のみならず、ランドールにまで、そのように思われていたのか、と恥ずかしくなって、アマリアは必死に言い募る。
 何故だか彼には、他の異性との関係を誤解して欲しくない。
「た、確かに…騎士様方からお手紙を頂く事はございます。ですが、それが恋文と思われると、騎士様方にご迷惑ですわ」
「…差し支えなければ、その手紙の内容を聞いても?」
「え?そう、ですわね…自己紹介、でしょうか。お名前ですとか、ご実家でのお立場ですとか。王城に慣れない私に、知った顔を増やしてあげようと言う、優しいお心遣いです」
(それは、釣り書きと言うんだ…!)
 思わず、頭が痛くなって、ランドールは額を抑える。
「あの、ランドール様?」
「…いや、そうか、貴女にはそう見えているのか」
 アマリアが、元婚約者と婚約したのは、成人して直ぐだと聞く。
 と言う事は、婚約の話自体は、その何年か前から始まっていたのだろう。
 男女の心の機微や、婚約が決まるまでの流れを意識した事など、なくても不思議はない。
「その手紙の最後に、職場の外で会いたいとか、親しくしたい、と言った一文はなかったか?」
「はい、ございました。お休みをいつ頂けるか判らないので、お申し出にお応え出来た事はないのですけれど」
「応えなくていい」
「?承知致しました」
 王城に戻ったら、一度、騎士達にそれとなく苦情を出さねば。
 そう考えて、ランドールは、自分がどうにかアマリアを囲い込もうとしている事を、改めて自覚する。
 自分の中に、迷いがあるのは判っている。
 王族としての立場、いずれは王弟と言う、玉座に近いながらも王に後継が出来るまでの極めて繊細な立場になる事を思うと、配偶者には相応の教育を受けた令嬢でないと、難しいものがある。
 社交の面でも、公務の面でも、誰もが容易に出来るものではない。
 単なる飾りではないのだ。
 だが、その点に関しては、この三か月の間、アマリアと接していて、きちんと王族になる教育さえ受ければ、問題ないだろうとも思っている。
 セルバンテスはアマリアを「聡い娘」と評していたが、彼女は教師についてものを教わる事に慣れているからなのか、吸収が驚く程に早い。
 それに、新人の文官以上の歴史や地理の知識は、既に身についているから、学術面の基礎的な教育は終えていると言える。
 課題があるとすれば社交面だが、先程の堂に入った演技を見ていると、本人の内心はともかくとして、器用にこなせる方だと思う。
 次に問題となる爵位は、王族の結婚に慣習として侯爵位以上の家との縁談が多いとは言え、伯爵位があれば、王族法上の問題はない。
(結局…自分が下した評価を、信じられずにいるのだな)
 見えず、聞こえず、な現在の状況のままではやはり、自分の判断に自信を持つ事が出来ない。
 これまでに、一度も婚約者候補として名が挙がっていないと言う事は、彼女を候補として推した者がいないと言う事だ。
 爵位、美貌、礼儀、学識、いずれかの面が秀でている令嬢であれば、一度は、候補として浮上するものなのだから。
(何よりも、王族の命だからではなく、彼女自身の意思で、私を選んで欲しい)
 そう願う事が既に答えなのだと、ランドールは気づいていない。
 考え込むランドールに、アマリアは口を挟まず、じっとしている。
 彼の頭の中が、自分の事で一杯なのだとは、欠片も思わずに。
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